投稿

2013の投稿を表示しています

10/18「ノイズとビッチ」フェスティバル(ロシアのシューゲイズ)

イメージ
10/18夜(19時)〜19朝(5時)にかけて、ペテルブルグ市内のライヴハウス「клуб da: da:」(地下鉄センナヤ・プローシャチから徒歩一分)で開かれたシューゲイザーオールナイト「ノイズとビッチ(шум и шлюхи)フェスティバル No.11」なるイベントに行ってきました。そのまとめです。(写真多数) ロシア(ペテルブルグ)におけるシューゲイズに興味があればご覧ください。

文字17

愛と希望と未来が、おれの身体で死ぬ

文字16「シティ・ポップ」(マシュマロウズ)

シティ・ポップ げろなのかなんなのか分からないような、そんなものが道に敷き詰められて黒く擦れ焦げたアスファルトの上に、在るのです。それがある瞬間にうごめきだす時きみはそれをなによりもニンゲンだ、と思ってしまう、歩くひと、なんの損得も生み出さぬ会話にふけるひと、それらを差しおいてアスファルトから立ち現れるひとのカタチこそ人間だ、ときみはしみじみ思ってしまう、そういうある日のcity pop 朝5時、マンハッタン、イエローキャブ、変な臭いのする路地裏のビルからは夢を使い果たしてあの一滴と狂騒に換えた2人たち、救いようのない2人たちの複数・多数がゴキブリやネズミの類いと一緒に路に吐き出されてきます。金はゴミ箱の中のゴムの中身になるし昨晩(ゆうべ)の熱情はついに何ものも成すことがないでしょう、とあの娘は言う、知ってて笑ってるんだね、剥き出しの歯・歯・歯、矯正具の銀色の光は君をかみつぶし飲み込むでしょう、グロスを塗りたくった官能的な唇で味わうフラペチーノとグローバルビジネスの味はどう?痛いけどこれが君なりのcity pop ぬるぬるの石鹸の身体で飛び起きる、ベッドは濡れ君は荒い呼吸をする。朝日の白さは君を眩しくするだけだ、白い光は痛い、痛い、君は叫んでベッドに倒れ込む。痛さと苦しみ、何もない日常の中で唯一それだけが現実のcity pop 頭痛をこらえて苦しく呼吸する君の耳、黒い髪が巻き付いた君のおいしそうな耳が何かを捉える。何かが呻いているようです。何かが弾んでいるようです。君はおそるおそる枕から顔を外そうと呻く。白い光が君の視界を奪う。 気がつくと君は荒れた茶色い地面に足をつけ立っている。知っている場所、ロッキー・マウンテン。君の鼻腔を懐かしい匂いが打つ。ジェロニモ。そう呼ばれた気がした。ジェロニモ。太鼓の音が近づいてくる。心臓がドキドキする。眼がシバシバする。どんどんこちらにやって来る。それは正しかった。それは君だった。君は呼んでみる。叫んでみる。ジェロニモ。ジェロニモ。ジェロニモ。ジェロニモ! 14.08.2013 マシュマロウズ@定演ライブ 

文字15「ねむられ」(マシュマロウズ)

ねむられ 一度「ねむる」と決心した者が、実際に眠りに辿り至るまでに50の歳月を過ごした。男は50の年月を、ここ、の現実からそちら、へと移行する段階に、確実にいたのだが、その実そのどちらにもたどり着くことのないあいだの場所にいたのだった。しかし50年を経た今日、男は何かを得る一方、その代価として何かを失い、その失われの過程の中で眠りを経験していたに違いない。ここ、乾燥した地面のどこかしらから水分を得て生き延びる植物らの赤茶けた土地で、男は初めの眠りを経験していた。 男は夢を見ていたのだった。男はいまや男であることをやめているらしかった。夢の空気は至るところ甘く、男であった者はすでにそれを存分に吸い込み、そうすることで夢を深くまた濃く見ることにしたようだった。 男であった者は、白い服を身につけ、白い夢を泳いでいる。自分は少女であるらしかった。そのきれいに磨き上げられた小さい爪の手を口元にやると、金属製の矯正具の冷たい硬さに触れた。 甘い空気はどこから漂っているのか。男であった少女が、いまはじめてゆっくりと目を開けることを決めたのちに、長い睫毛は律動をはじめたのだった。 そこはトイレだ。甘い匂いは手に持ったマシュマロの袋から漂っているらしいが、微かに混じる化学薬品の匂いはどこから来ているのか、彼女は不思議に思うふりを、ひとしきり演じてみる。マシュマロから漂っている気もする。しかし目の前にある洗浄用の緑の液体から彼女の鼻に到達していた可能性もいまいち捨てきれないのだった。あるいは、わたしの鼻がなにか化学的な製法によるのかもしれない。そう思うと彼女は下で口を開けて待ち受ける便器に向かって体のどこか奥の方から静かな笑い声をくつくつと吐き出すのだった。 どこか遠いとこらから他の少女らの軽やかで残酷な、あの特有の笑い声が静かに反響して聞こえてくる。反復運動をする靴と床の摩擦の音。運動する彼女たちのユニフォームの中で伝う汗の匂いが、トイレのなかに微かに残っていた。 少女はそういったもろもろの漂うものをひとしきり小さい鼻腔で吸ってみたのち、ひとりそこでマシュマロを頬張ることにした。緑か、白か、うすいピンクか、黄色か、青らしいものか。選択肢は多くあった。腰と肩のちょうど中間あたりまで伸びた黒い髪を細い指でくるくるしながら、彼女は大きめな目を潤ませ口を歪めることにした。選

文字14

穴と棒、口と口、皮膚と皮膚が合わさりながら 毟りあう、のは、 なぜか他と他の合一を最終目的としている、というふうに思われる「愛」が究極的には成就しようのないものならば、その切なさを(あくまで比喩的、な)「食らうこと」に託すしかなかったわれわれだからだ

文字13(上映会のために)

以下に載せるのは、21.11.2012-25.11.2012の期間中、東京外国語大学「外語祭」のなかで工藤が企画した上映会のレジュメからの抜粋です 企画について詳細はこちらを参照してください→  http://tweetvite.com/event/tufsrus2012 (1) ヴェルトフ「と」"カメラ" – "映画眼 киноглаз "概説  革命前後のロシアで「ロシア・アヴァンギャルド」という潮流がロシア芸術界を席巻する。その波は文学・絵画・演劇・写真・建築・音楽など文化のあらゆる側面に浸透し、文字通り芸術のあり方を全く変えてしまった。その波は、登場したてのメディアであった映画の分野にも浸透した。むしろ、新しい、無垢なメディアであるからこそ、芸術の新時代を夢見た同時代の芸術家たちを刺激した。そして現在、映画が、リュミエール兄弟やメリエスを脱し、”芸術” ( *ヴェルトフ自身は「芸術」という呼称を嫌っていたが ) の一形態となるきっかけが、先行するグリフィスや同時代のドイツ表現主義に並び、この時代に潜んでいる。 ヴェルトフは、エイゼンシュテインとともに、モンタージュ理論形成のパイオニアである。両者の考え方をあえて単純化するならば、エイゼンシュテインが、事実の、フィクションの次元での「再構成」を図ったとすれば、ヴェルトフの目指したものは、「事実そのもの」を、”映画眼”を通して組織化 ( 秩序化 ) し把握することである ( *ここで一定の留保をつけるなら、「事実そのもの」など今も昔も存在しないということであって、恐らくヴェルトフの限界はここにある ) 。 ヴェルトフにとって”カメラ”とは人間には認識不可能な「いまそこにある現実そのもの」を知覚可能にするものである。彼によれば、人間の眼が一元的 ( 知覚即認識ないしは知覚→認識の線がかなり短い ) である一方、カメラの認識段階は多元的である。そして、認識の段階一つ一つにモンタージュが伴う。観察時 / 観察後のモンタージュ、撮影時 / 撮影後のモンタージュ、目測、最終的モンタージュ。ヴェルトフらキノキの考えによればこの 6 段階のモンタージュがカメラに伴っている。そしてそれぞれのモンタージュは、「可視世界の組織化」の役割

文字12

無数の悪意がわたしを押しつぶすようであればいい

カタルシツ『地下室の手記』

守護天使の死 わたしがいままで完全に自分とシンクロできた主人公が2人いる。ブレッソンの『白夜』とカタルシツ『地下室の手記』の主人公だ。見終わったあとに思わず「これは俺だ!」と叫んだ作品はいままでにこの2つだけだ。 この際実際に主人公が「わたし」であるかは重要ではなく、むしろ見終わったあとに「これは俺だ!」と思わせてしまうだけの強さ・俗に言って説得力が、確かにドストエフスキーの物語には備わっていることこそがわたしにとっては唯一重要なことなのだ。だからわたしが決してドストエフスキーを客観視できないことには、正当な理由がある。いやが応にも主人公がわたしだと感じさせてしまう強制力がある、その強さのせいでそもそも読む段階から主人公をわたしと同定して読むしかないのだ。 この劇は、観客に二重の枠構造を強烈に認識させることから始まる。2つの枠とはつまり「前口上」によって成る枠、そして「ニコ生」によって成る枠だ。 開演前のアナウンス終了後2分くらいして、ピンスポットに照らされて男の顔がこちらを伺い見る。ここがすでに劇の始まりなのだが、果たして本当にそうなのか。「駆け込み乗車」の話から、「これから始まる『地下室の手記』とかいう話」の話、演出家の話、口を指して「これセリフだからね?」というなど。またこの前口上の中でこの語りが「ニコ生」配信されるトークであることが明かされる。この枠の設定は劇全篇に渡り有効であり、物語に没頭しその枠を忘れそうになるたび上のほうにコメントが流れることによって枠を再び現前する。 こうしてこの2つの枠を設定することは、「見ること」「観客であること」を強烈に認識させてしまうのだ。わたしはただ「観る者」に過ぎない、劇は透明なディスプレイの向こうに存在する。 この劇で一番誠実なのは、基本的に男の妄想一人語りがのみに成るこの劇のなかで、唯一の大事件である「女」の話のパートだ。 風俗の女が、男に救ってもらいたくて男の部屋にやって来る。女は言う。「わたしを救いなさい!そうしたら2人こういう生活から抜け出せる」と。男は受け入れる。女を押し倒す。暗転。 再び明るくなった舞台は、どこか空気が違う。セックス後の倦怠感とかいう生易しいものではない。何かがおかしい。女が服を着るなか男は虚脱した様子で椅子に座っている。「なんかごめん」と男。観客のほうも女とともに

文字11

【引用】 「 ...... でもそのあとかっと目を見開いたんだ、で、鏡を見たら、そこには、目を見開いて、おびえきった顔の男が映ってて、そいつの後ろには、二十歳くらいなのに見かけはあと十は上の男がいて、髭もじゃで、目の下には隈、がりがりに痩せてて、鏡に映った二人の顔を俺の肩越しに見てるんだ。実はそう見えたかもはっきりとは言えないが、無数の顔が見えたんだ、まるで鏡が割れてたみたいに、もちろん割れてなんかいないのはよく分かってたけど。 ...... 」 【コメント】 一枚の鏡がある。その銀の光沢を眺めれば、必ずや「ぼく」の顔が見つめ返してくるだろう。その像はいかなる意味においても「ぼく」であるはずだ。なぜならその像が「ぼく」であると認識するとき、その認識の始原ではやはり鏡の中の「ぼく」が見つめ返しており、ぼくの人生で初めて鏡を見た時のその像に拠って、ぼくは「ぼく」を自称し得るからだ。少なくとも写真や映画が発明されるまではそれが唯一ぼくが「ぼく」であることを確認する手段であったし、しかしそれでも写真などの映像メディアにはタイムラグがあるがゆえに、リアルタイムメディアである鏡のその地位は揺るがないだろう。「ぼく」は鏡に向かって視線を放つ。鏡はそれを左右逆転させてぼくの瞳孔に「ぼく」を投げ返してくる。ぼくが頭の中でそれを処理する段階で、ぼくが変らず「ぼく」であることを確認できるとしたら、それは「ぼく」の一番最初の鏡像が存在しているからだ。ぼくはその意味で相対的に「ぼく」であるに過ぎない。ぼくは自分の顔を見ることが出来ないからだ。 だが、ある日をきっかけに、あるいは何のきっかけもなく、その参照関係が崩れたとしたら、いったいぼくはどうなってしまうのだろう。ぼくがふと何気なく鏡を見る。すると鏡から見つめ返してくるのはまったくの別人なのだ。 *   ここではまさにそういう事態が描かれている。だがここでもっと不気味なのは、その「別人」具合が明らかにされないからだ。この文章は、 2 人の男の会話の中で、一方の男が回想して語る台詞の一部だ。そういう枠構造がある以上、語り手の男の造形が第三者の視点から客観的に語られることがない。だから「 目を見開いて、おびえきった顔の男 」と書いてあっても、まずいつも通りの「男」の造形が分からないため、ど

文字10

スケジュール帳のKがまた別のKに変わる

文字9

きさまらが仮装をしている間に わたしは人間のふりをしてニヤリと笑ってみせた 31.10.2012

文字7(ロシア語)

ロシア語には、Частных, Крученых, Белыхといった形容詞の複数生(前置)格をもって主格単数名詞とする姓があるのだが、近ごろそれらの姓たちのことを思いつめるあまり、-ым, -ам, -ыхのごとき語尾が蝶のように乱舞し交配し、挙句無限に無茶苦茶に連なった語尾のその鎖がわたしの首を絞めてあげていくような苦しい悪夢をみつづけていたのだが、正解は「変化しない」とのことで、わたしは久方ぶりに安眠を取り戻したのだった

文字6(こと)

わたしでありながらだんだんとがけのほうへはいつくばりにじりよるようにしてわたしでないもののほうへとすすむこといがいにいきることについてなにかたのしみがあろうかというかそれいがいのいきかたができることじたいがわたしにとってすでにかなりのおどろきであるというかそういうあるいみとうぜんのぎもんをとうぜんにもたないことがとうぜんではあるとはいえそうしてわたしはいきをしているかぎりわたしでないもののほうまたはわたしのようなもののほうへとじりじりとひきずられつづけている

文字5(かわいい)

外から眺める限り、では、どうやらそこでは同一化が起こっているようだ。同一化は増殖だ。増殖はどこへ向かっているのだろう。 彼女たちの顔、匂い、仕草は模倣されたものであり、あまりに同一なので、そこに個を超えた同を見いだしたほどだ。 「同」の源泉を見いだした者が喜びのあまり涙を流すのを見た。 それはどこへ行くのだろう。ある時点で、上回ってしまう事態(飽和)が恐らく存在する時に。

文字4(ケイジ)

ケイジを終えてからとてつもなく身体が重い。いくら寝ても寝足りない。どうやら人と会話はできているようなのだが、自分で言葉の意味を理解できない。言葉が一人歩きする。わたしとは関係のないところで、「会話」が進行してある。 現実のあらゆる感触・「実感」に関する「メタ」な感覚。ぼんやりとした感覚。何かをつかむたびに何かを漏らしてしまう感覚。 5ミリくらい地面から足が離れている気がしてならない。何度も地面を触って確かめてみる。あるのだが、その「ある」さ加減がよくわからない。 これ以上なにかをはなしたら飛んで行ってしまいそうだ。

文字3(セイショ)

中学のときゴミ箱から拾い上げたセイショは、「はじめに言葉が」ないだけで簡単にシャットダウンできる世界を教えてくれた

文字2(ある嘘について)

エル・グレコ展やらラファエロ展に行くたびにどこか白々しい感じを印象としてわたしが受けるのは理由のないことではないのではなかったか。 あれらの皮膚はみんな白人のそれなのだ。イエスもマリアもみんな「中東のひと」なのに。 西洋の美術はこういう大きな、白々しい「嘘」の上に成り立ってきたのだった。

文字1(父のこと)

久方ぶりに帰省したところ、父がコカ・コーラにはまっていて、驚くわたしに「すっきりするんだ」とはにかんで笑ってみせた。コーラなど小さい頃は目にすることも罪悪であると言わんばかりの扱いだったのを、わたしは遠くから考えた。 ここまで20年かかったのだった。

宮沢章夫最終講義についてのメモランダム

イメージ
マテリアルを列挙します。 基本的にわたし個人の備考ですので、人の役には立ちません。 動画ファイル多数につき、開く際重いので注意してください。 09.03.2013 @早稲田大学

Укрощение таланта

イメージ
昨年7月にロシア文化放送でやった、ロシアアヴァンギャルド関係の番組「 Укрощение таланта (才能の抑圧) 」の動画 が一部アップされていました(多分違法)↓ ① Лазарь Хидекель (ラーザリ・ヒヂェーケリ;建築家) →日本のメタボリズム建築("生長する都市")と結びつける視点。 http://ru.wikipedia.org/wiki/ Хидекель,_Лазарь_Маркович ② Натан Альтман(ナータン・アリトマン;画家) → http://ru.wikipedia.org/wiki/ Натан_Альтман

スーザン・バック-モース『夢の世界とカタストロフィ』

射程の広い本だ。 わたし自身は、ロシア・アヴァンギャルドの文脈からこの本を知ったのだが、その範疇には決して留まらない。というよりもむしろこの本のテーマそのものが「越境性」であるように思われる以上、これは当然のことだろう。 著者バック-モースは、マルクス主義のバックボーンを下敷きにして、「東」と「西」との共通点を見いだそうとするばかりか、自分自身をその歴史上に文脈づけて自ら「橋」になろうとする。 「マルクス主義のバックボーン」、と聞いてわたしと同じように若干戸惑う人もいるかもしれない。しかし、何か言説をしようとする際に何かに頼らずに言説を行うことが、一体可能だろうか。芸術を語る際にいくらかの政治性を帯びるのは、現代において避けられない。ましてやアヴァンギャルドという、政治と芸術の蜜月期を扱う本である。何らかの政治性は当然賦与されるものである。 この厚い本を読むのは楽しみ以外の何ものでもなく、この「本を"ひもとく"感触」、その心地よさを久しぶりに味わった気がした。 まずは構成の実験性が目を惹く。 第Ⅰ章「政治の枠組み」では、テクストが上下で2部に分かれている。テクストと、そこから派生し分岐したハイパーテクストである。 また数多くの図像(それは「理解を助ける」態のものではなく、完全に「テクスト自体」なのだが)や、第Ⅵ章「ライブの時間/歴史の時間」と題されたバック-モース個人のヒストリー、圧巻の注釈の量、などがこの書を異形のものにしている。 第Ⅰ部は、政治理論の部である。ここでは「経済と政治の分離」の問題、「国民国家=空間、階級闘争=時間」論など興味深い論が示される。 第Ⅱ部は、大きく言えば「モニュメント」についての部であると言える。「不滅性」を現実の相に転写すること。「芸術」→「生活」へ。「新しい人間」。ミイラになった「レーニン」。アヴァンギャルドの芸術家の前に、そもそも政権側が相当ぶっ飛んでいたこと(「不死化委員会」)。 第Ⅲ部は最も壮観な部だ。現代美術家(カバコフ、ソコフ、プリゴフ)とアヴァンギャルドが交錯し、アヴァンギャルドの最も「共産主義的」である部分はアメリカの最も「資本主義的」である部分と共鳴し、ヴァルター・ベンヤミンの言葉が交錯点を示す光となる。新しい身体(リシツキー、ガスチェフ、ヴァジム・シドゥール)、新しい建

フレデリック・ワイズマン『最後の手紙』

最近見た映画の中では一番良かった。号泣した。 原作は、最近浩瀚な翻訳が出たワシーリー・グロスマン『運命と人生』(みすず書房、2012)。 この映画の主人公は、とそこから恐らく書き始めなければならない。主人公は老女、あるいは老女の2人、あるいは5人、または複数である。画面には年老いた女が一人いるだけである。しかし光が彼女の身体に当たり、壁に影が投げかけられると影は即座に語り始めるのである。それは最初は影と老女の2人なのだが、次第に増殖し5人、7人、あるいはそれ以上になる。そしてそれは彼女と影が存在を「分配」するのでは決してなく、存在が複数化し、倍増するのである。 それは、その存在感はそれを見るものである1人の(1つの視線しか持たない)わたしを強さでもって圧倒する。 さらにカメラがクローズアップすると、彼女の眼が、鼻が、皺が語りだす。何と雄弁であることか。 そしてもう一つ注目するべき点は、本の力だ。ゲットーという最低の状況でも本を読みつづけること。フランス語を学ぶこと。そしてそもそもこの映画の起点である「手紙を書く/読む」こと。それが極限の状況において最後の支えになるのだった。その支えがなければそもそも人間であることさえ可能かどうか? こういう事態は、文学をやるものとして大きな感銘を受けざるを得ないし、「ブンガク」というものが存在するかどうかもわからないけれども、なにかそこに「(他人によって)書かれたもの」が存在するということ、ただそれだけのことが人間にとってここまで大きなものなのだと思うと、その営みに崇高ささえ感じてしまう。 この映画は、絶対に、たぶん、フィクションである。ドキュメンタリー映画監督ワイズマンには珍しいことだが、これは「絶対に」フィクションである。そのフィクション性は、ダヴィデの星を身につけた(コスチュームというにはあまりにシンプルな)コスチューム、映画のカメラの前で再現されていること、原作が存在することによって明らかであって、このためにこの映画は「絶対な」フィクションである。 しかし同時にこの映画は「たぶん」フィクションであり、フィクションでない。 「希望の少ない人ほど善人だ」「どんな言葉もわたしの愛を言い表せない」、そして究極的に最後の最後、「生きて!生きて!」の叫び。老女の眼にある涙、そこにあるものはあらゆるニヒルを乗り越

フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』

底 最近やっとトリュフォーの『大人は判ってくれない』を見たのだけど、つまんなかった。 『動くな、死ね、甦れ!』 がよくこれと比較されて言われるので、期待していたのだが。 何が違うのかと言うと、底が違うのではないだろうか。 『大人は〜』では、どこまで落ちても、父、母、親友、最後の最後には鑑別所が、「底」となってドワネル少年を支えつづける。最後に完全に一人になって海を目指すのだが、所詮どこまで言っても「底」は抜けないのだ。 ところが『動くな〜』にはそもそも「底」がない。無底の映画だ。ワレルカは全くのゼロの状態にいるのだが、映画が進行するに連れて、そのただでさえない「底」を、マイナスのほうへさらに掘り下げようとする。ワレルカだけではなく登場人物全員が。それは当然のことながら痛みを伴う。そして「底」の底には私たちが、第三者を装って澄ました顔で座っている。「底」を突き崩し自壊していく痛みは直接観客である私に突き刺さり、その映画経験を唯一無二のものにする。その痛みの点で。 (*ただし「天使」として想定されたガーリャだけは「底なし」の人々の中で異彩を放ち、周囲に光を投げかけるのだが、最悪な形で死んでしまう。) 『動くな、死ね、甦れ!』を言語化する手だてを、初見時、たしか4年くらい前から、探している。私には適切な言い表し方が未だにわからない。こうやってその時々に話せることを話せるだけ話していくしかないのだろうなとは思っている。 François Truffaut"Les Quatre Cents Coups"(1959)

ミクニヤナイハラプロジェクト『静かな一日』

「かもね」の劇 あり得たかもしれない「かもね」は常に過剰にあるのだが、私はその中で特別選ぶこともせずあるひとつの「かもね」を生きている。ほかの「かもね」はないのだ。なぜならある「かもね」、わたしのこの「かもね」が嫌で、他の「かもね」を切望するとしても、その「かもね」に到達した時点でその「かもね」自身が私の、忌むべき、一つしかないという性質ゆえにほかの「かもね」より過剰に「重く」思われるような「かもね」になり、他の「かもね」は他の無限さに移り変わって無限の他の「かもね」を形作ってしまうからだ。 私の、この一つしかない(ように思われるような)「かもね」は確かに、その「かもね」であること、その一つの可能性しかないのだけれど、例えばアレルギーを起こしてみたり(蟹の甲羅)、ムカついてみたり(「ムカつく!!」)、愛情を込めて好きな人を殴ってみたり、究極的にただただ単純に「死にたくない!」と叫ぶこと。これらのことによってある唯一の「かもね」に対して圧倒的な違和感を表明したり、異議申し立てをすることは可能なのではないか。 私にとってこの「かもね」は絶対のように思われるけれども、その実、この「かもね」も無限にある「かもね」の一つに過ぎなかったのだった。 例えば「夢」または「現実」(「目を閉じてごらんなさい」/「目を開けてごらんなさい」)に見るイメージの氾濫のように、その「かもね」はある「かもしれない」し、ない「かもしれない」。たぶんどちらかと言えば「ない」かもしれない可能性の大きな「かもね」だ。 私の初めて見た矢内原美邦関係の舞台は、Nibrollの 『 This is Weather News』だったのだが、この時は、地震の直後であり、事態をまだ消化しきれていない中、「人が上から降ってきてゴミのようにたまる映像」などが表しているように、矢内原の地震を巡る不安定さを、むき出しのままこちらに突きつけていた気がする。わたしにはその経験が少し強すぎて(実際途中で席を立つ人もいた)、矢内原関係の舞台は遠慮していたのだけれども、今回のこの『静かな一日』はより抽象的になり、落ち着きを取り戻していたように思った。 日常であること、は地震のあとすでに当たり前のものではなくなってしまった。何気なく提示される「カレンダーの明日の予定」さえもなぜか不気味に思える。そういう「かもね」を生きる