15 2月 2013

ミクニヤナイハラプロジェクト『静かな一日』

「かもね」の劇


あり得たかもしれない「かもね」は常に過剰にあるのだが、私はその中で特別選ぶこともせずあるひとつの「かもね」を生きている。ほかの「かもね」はないのだ。なぜならある「かもね」、わたしのこの「かもね」が嫌で、他の「かもね」を切望するとしても、その「かもね」に到達した時点でその「かもね」自身が私の、忌むべき、一つしかないという性質ゆえにほかの「かもね」より過剰に「重く」思われるような「かもね」になり、他の「かもね」は他の無限さに移り変わって無限の他の「かもね」を形作ってしまうからだ。
私の、この一つしかない(ように思われるような)「かもね」は確かに、その「かもね」であること、その一つの可能性しかないのだけれど、例えばアレルギーを起こしてみたり(蟹の甲羅)、ムカついてみたり(「ムカつく!!」)、愛情を込めて好きな人を殴ってみたり、究極的にただただ単純に「死にたくない!」と叫ぶこと。これらのことによってある唯一の「かもね」に対して圧倒的な違和感を表明したり、異議申し立てをすることは可能なのではないか。
私にとってこの「かもね」は絶対のように思われるけれども、その実、この「かもね」も無限にある「かもね」の一つに過ぎなかったのだった。
例えば「夢」または「現実」(「目を閉じてごらんなさい」/「目を開けてごらんなさい」)に見るイメージの氾濫のように、その「かもね」はある「かもしれない」し、ない「かもしれない」。たぶんどちらかと言えば「ない」かもしれない可能性の大きな「かもね」だ。
私の初めて見た矢内原美邦関係の舞台は、NibrollのThis is Weather News』だったのだが、この時は、地震の直後であり、事態をまだ消化しきれていない中、「人が上から降ってきてゴミのようにたまる映像」などが表しているように、矢内原の地震を巡る不安定さを、むき出しのままこちらに突きつけていた気がする。わたしにはその経験が少し強すぎて(実際途中で席を立つ人もいた)、矢内原関係の舞台は遠慮していたのだけれども、今回のこの『静かな一日』はより抽象的になり、落ち着きを取り戻していたように思った。
日常であること、は地震のあとすでに当たり前のものではなくなってしまった。何気なく提示される「カレンダーの明日の予定」さえもなぜか不気味に思える。そういう「かもね」を生きることになってしまった。
だがそれは唯一の「かもね」かもしれないが、無限の「かもね」の単なる一つでしかないとも言える。無数に立ち並ぶ家の一軒一軒は、いくら外見が似ていようとも中が同じものは一つとして存在しないのだ。
ひとつの「かもね」 に縛られざるを得ないし、逃れられはしないのかもしれないのだが、私にはまだ他の「かもね」がある。その「かもね」をユートピアとして見つつ生きることだ。
劇は狼少年の寓話になぞらえた「『来るよ!』って言わずに『来るかもね!逃げたほうがいいかもね!』」 という男のセリフで、唐突に幕切れを迎える。

結論を言えば、『静かな一日』は、すごくエンカレッジングな舞台だった。私が久しぶりにこうして文章にして書き残したいと思ったくらいの余韻を残し、高揚した気分で劇は終わった。

15.02.2013 @吉祥寺シアター

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