31 12月 2014

「BLとしての世界」論

例えばあらゆることが陳腐でかつすべてが当たり前でありすぎるこの社会とその織りなす物語のうちに陥穽を見出すこと。別の語り方の流れによってこの至極当然な「生活」の有様に穴を穿つこと。そういうオルタナティヴな語り方をポストモダンは生み出そうと努力してきた。あらゆる既成のものを否定し、あるいは否定せずに冷笑してみせること。そういった身振りによってポストモダンは「生活」を打破しようとしてきたのではなかったか。その方法論は、しかし2015年に入ろうとするいま、息切れを起こしてしまっている。「生活」の強力で粘着質な罠を取り払うことに集中しすぎたあなたたちポストモダンは、すでに静かに生命を終えようとしている。

ところでわれわれにはBLがある。BLのあまりに軽やかな動きにわれわれという小さな男の子は青ざめるほど驚愕してしまう。BLというあまりに生き生きとしてしなやかな非-物語の作り方に対してポストモダンはもう言葉を失っている。BLという局面において、ポストモダンが言いたかったことはすでにすべてがしかも軽やかな手振りで、言われているからだ。

ここでは「BLからの女子マンガ」家と仮にわたしが名付けた2人の作家について論じたい。すなわちよしながふみと水城せとなである。
水城とよしなががともに1971年生まれであることを考慮すれば、こうした漫画家に代表される世代を「70年世代」と言い立ててもいいだろう。10代のころに80年代を経験して育った世代と総称してもいいはずだ。すなわちダイレクトにニューアカデミズムの波をかぶって育ったマンガ家たちであろうから、ある程度のクレバーさを想定することができる。「24年組」がモダンマンガ文化におけるクレバーな語りのパイオニアであるとするなら、そのポストモダン・アップデートヴァージョンこそがこの「70年世代」の諸マンガ家である。
ここに挙げた作家、あるいは1970年以降に生まれ現在女子マンガの枠を超えて作品を発表している多くの作家(志村貴子、羽海野チカ・・・)が、BL同人誌をオリジンとしていることを忘れてはならない。物語論的に言ってBLとは、少年マンガ的な単一の大きな物語に対する救済の手つきである。少年マンガ的と私が述べるのは、①主人公が存在し ②窮極的な「何か」が求められ ③主人公の仕草が常に「世界」に関わっていく ようなマンガ群のことである。それは基本的に「世界」を、主人公と求められる「何か」によって集約して一つの大きな物語に乗せていく。BLはその物語に間隙を見出す。分かりやすく二次創作的BLを例にとって言うなら、①主人公以外の人物が引き立てられ②「何か」具体的なものよりも関係性が重視され③世界を極小化し、分裂し、相対化する手つき、これこそがBLの強さである。

こういう意味でBLとは現実逃避であって、現実逃避でない。語の最もポジティヴな意味で「現実逃避」でしかないのは、BLがわたしたちの「この」ありふれた・退屈な・どこにも逃げ場のない現実からの逃走線を成すからだ。BLは、単一の・強迫的な「現実」への服従を拒み、新しい・オルタナティヴな生活を提案しさえする。読者は、「萌え」という仕草を通じてこのあたらしい可能性を夢見ることができる。一方語の最も卑小な意味での「現実逃避」でありえないのは、自覚的なBL作家・BL出身作家らは、必ずいまの「この」現実と正面から向き合っているからだ。彼女らの物語には痛みがつきまとう。しかしそれはまた誠実さの謂いなのである。また一つの別の例を挙げるなら、クレバーな作家(よしながや羽海野などを例に挙げればいいだろうか)はしばしば「お金の大切さ」を説く。至極もっともであるが、少年マンガがそこまでのリアルさをもって現実を認識しているか。少年マンガこそ、あるいは現実逃避に過ぎないのではないのか。

以下の論で取り上げる作家は、いずれもそれぞれの意味でクレバーな作家であり、単一の論点でまとめ上げることは暴力にも等しいのだが、この論では仮に彼女らに通底していると思われる「現実の破棄」というテーマをもとに作品を読んでみたらどうなるか、ということを試みる。


*この物語を破棄する  — よしながふみの場合

よしながふみの初期作品『彼は花園の夢を見る』はおそらく彼女がよしながふみという独自のポジションを漫画界で得ることへの布石となった記念碑的な作品である。この作品にはもちろんBLの気配こそ横溢しているものの、あからさまに性描写が描かれることはすでにない。よしなががインタビュー集『あのひととここだけのおしゃべり』で語っていることを参照すれば、BL以前から「耽美系」という別系統の伝統が女子マンガ界には存在している。それは大雑把に言えば、美少年同士の悲愛モノである。「悲愛」モノであるという条件は雑誌JUNEなどが代表する「耽美系」にとって必須条件だった。美しいものは美しいまま死なねばならない。醜い世界に内包されるシェルターとしての美しい世界のなかで。このような世界観が「耽美系」に属するとすれば、よしながはそれを断固として拒絶する。現実とのコミットへ!「生活」へ!それがよしながの基本的な姿勢である。

その身振りがまったく象徴的に現れるのが『彼は花園の夢を見る』のラストシーンである。この中世ヨーロッパという耽美的なファンタジーを忠実に守る舞台設定に則る孤独な貴族の悲愛モノは、「耽美系」の定式を守るならば、貴族と下僕の少年が結びつき、二人は死なねばならなかった。美しさの喪失に胸を痛めること。それが「耽美系」の語りが目指すところである。よしながの物語(回想という語りの次元が2重3重に入り込むことですでに第一義的な「物語」ではあり得ないのだが)は、多少のズレを含みつつもその基本路線を踏襲する。ところがそこに見事なラストが待ち受けている。メインキャラクターである貴族と少年はラストシーンにおいて死を志向しながらも、自殺の実行過程において「飛び降りた地点に、死に別れた貴族の妻が植えた植物が植わっている」ことによって死は回避され、鮮やかに(いささか凡庸な手つきではあるが)生の側に留まるのである。そしてその後の生を生きとおすこと。それは眠りこけて涎を垂らすように平凡で代わり映えなくいささか汚いものである。どうしようもない「生活」を、それでも生き通してしまうこと。それは美しいものを美しいままで終わらせる「耽美系」の語りと比べてみると、よほど誠実でリアルな語り口である。

チェーホフが『かもめ』から『ワーニャおじさん』へ到る道程で見つけ出した語り口にも比せられるよしながのこの語り方を、彼女は続けていく。『西洋骨董洋菓子店』『フラワー・オブ・ライフ』などで語られるのは、「生活」の耐えられなさを笑いながら生きこなすこと、これである。トラウマは克服されないだろう。傷は遺るままだろう。痛みはあり続け、愛は不在であり続ける。この耐えられなさの、どうしようもない誠実さ。この誠実さがよしながふみの作品を独特な位置に置き続けている。


ところが彼女の近作『大奥』において、彼女は新しいステップを踏み始めたようだ。ここではすでに「偽史」が語られ始め、作品には「生活」を強固な意志をもって粉砕しようという作者の野望が満ち満ちている。すでにそれはいまある「この」生活を打ち消す可能性を示唆する所作ではあるが、あくまでもそれは現実の否定ではない。オルタナティヴな現実の可能性の提示である。

『大奥』では、徳川幕府の将軍が女性であったという仮定をもって語られる「SF大河ロマン」(帯より引用)である。すでに設定からして、これまでの取り組みとは規模が違っていることに気づくかもしれない。「歴史改変」モノSFが戦う相手は、「歴史」であり「現実」そして「物語そのもの」の他ない。いくらでも考え付くSFのジャンルのうちここまで相手が巨大なものもそう多くない。異世界・宇宙モノは嫌が応にもわたしたちの「この」現実世界を前提とせざるを得ないし、時間旅行モノでさえも立脚点としての「現代」を必要とし、しばしばわれわれの時代の主人公の目線が決定的にそのオルタナティヴに対して異であることでその「過去」なり「未来」なりは成り立っている。異世界モノの「火星」、時間旅行モノの「過去」「未来」は、あくまでわたしたちの「この」現実「を」異化する作用しか持ち得ないため、副次的な存在にすぎない。ところがよしながは『大奥』を語り始めるにあたって「偽史」という手法を選択した。語り全体の枠は、「御右筆」という役職(将軍が女であるという「現実」を私たちが知る「本当の」歴史(男系の歴史)にコンヴァートして記録する役職)の人物によって決められている。それに加えよしながは『大奥』で語られる「現実」を、多少の改変を加えながらも随所で巧みにわたしたちの知る「本当の」歴史に接続しようとする。この所作が示していることは何か。

よしながふみはわたしたちが思っているよりクレバーで野心的で挑発的な作家であるという事実である。『大奥』で語られる歴史が仮に「偽史」であると言い立てるとして、しかしその「偽史」は「正史」であるわたしたちの知る「この」歴史とほとんど継ぎ目などないままシームレスに接続されている。こうしたよしながの語りは「正史」に間隙を見出し、「正史」と「偽史」の境目が曖昧な状態に落とし込み、その結果としてわたしたちの唯一・単一の「正しい歴史」は相対化される。わたしたちの知る「この」唯一の歴史は、本当のところよしながふみの「偽史」と同じ程度に可能性の一つにすぎない。絶対の「歴史」が、一つの語り方のヴァリアントに過ぎなくなる様を、わたしたちは目の当たりにするだろう。

『フラワー』などのゆるくてふわふわな現実感の先に『大奥』のような作品が待ち受けていることは誰にも想像ができなかったに違いない。誤解を恐れずにいうならば、『大奥』以前の作品はよしながにとって助走にすぎなかったのだ。よしながは絶妙な手つきで「日常」の貌をした現実の品定めをすることだろう。その手には「24年組」というメスが握られている。その結果が『こどもの体温』であり『フラワー・オブ・ライフ』であり『西洋骨董洋菓子店』なのだろう。しかしよしながふみはそこで立ち止まらない。誠実に現実をすくい取った優しい作家は、その誠実さゆえに新しい現実の可能性を模索し始める。そして唯一絶対の「この」現実は、単にあり得たかもしれない語り方の一つのあり様に過ぎなくなる。その時点で「生活」は終わり、生々しく新しい「現実」の片鱗が姿を見せ始めるのである。

*わたし以前の現実を夢みる  — 水城せとなの場合

誠実さ、という点で見るならば、水城(みずしろ)せとな以上に「誠実」な作家を考えつくのは難しい。よしながふみが全的な現実そのものを志向しているのに対し、水城の語りはまったく逆方向を向いているように思える。つまり、われわれとは誰かという問いに答えるかたちで人間の内面をこれ以上になく深く掘り下げる語りを水城は得意としている。だが、徐々に判明していくように、水城もまた別種の(あるいはよりラジカルな?)現実破棄者であることは断言してよい。

その絵の端正さを生かしてBL・耽美的な作品群を多く発表していた水城にとって大きな転換点となったであろう作品が、『放課後保健室』である。ここで私たちに衝撃をもたらすのは、水城の近作『失恋ショコラティエ』さらに『脳内ポイズンベリー』で継承される水城的「枠構造」の鋭さに他ならない。
『放課後』の始まり方からしてすでに戦略的なのであって、物語は学園における青春モノを連想させるかたちでスタートする。そしてあざとくも少年マンガにおける「ダンジョンシステム」を模倣してみせる。水城の書く絵は特色ある端正なもので、この画力が私たちを否応なくこの「擬-物語」的なシステムに導きこむだろう。しかし油断してはいけない。クライマックスが近づくにつれ明らかになっていくのは、作家水城自身のクレバーさであり、そこから発する物語としての「この現実」粉砕の強い意志である。

まず作品が最初の段階でとるダンジョン的な構造からして、そもそも「夢」の中の話という枠が設定された上で成り立っている。物語はほぼ夢の中で進行する。夢の中では生徒一人一人がその心の形に応じた様相をとるのであり、そこには「ほんとうの」リアルなわたししか現れ得ない。いちおうのメインキャラクター一条真白は、両性具有であり、男と女の間で揺れ動いたりする。それがもうラスト近い38話の前後までは、「そういう」物語だと思われることだろう。そういうーつまり一種の自己実現の物語、一般的なビルドゥングスである。

水城が凄みを発揮するのはここからだ。性の帰属に悩む高校生の自己実現の話としてだけみても十分にうまくできているにも関わらず、水城は新たな枠を打ち立てて物語全体をより大きな視点の元で解体する。つまり、物語の舞台は「母親の母体の中であった」という、想像をはるかに凌駕する枠の出現である。つまり全体の構造としてはこうなる。

第1層:一条が「保健室」で見る夢世界
第2層:一条真白を取り巻く学園生活
第3層:「一条」の母親 の/という 外部

となり、第1層は第2層に、第2層は第3層に、それぞれ内包される。つまり、もはやラカンなど読む必要がなくなってしまうのだ(原始体験へのトラウマだとか、自分自身の殺害による「愛」の実現だとか、ラカン好みのテーマが山ほど転がっている)。

こうして整理して読んでみると、物語全てが概念的であることが判明する。第3層が登場することで、一条真白という登場人物は正確には「一条真白に将来なるであろう概念体」であり、「保健室」とは「夢の集団培養機能」であって、「夢」とは実は「『夢』の『夢』」のことであったことがあきらかになってしまう(この事態に含まれて見られる「夢」世界を以後仮に《夢》と表記する)。そこでは「私」の自己実現はおろか「私」は未だ生まれていないのであって、「私」の誕生こそが作品の最終的なテーマとなっている。そう、「私」はこれから生まれることになっている。つまり、よしながふみと強引に接続するなら、そこでは「可能性」の問題がまたもや問題になっているといっていい。オルタナティヴな私の可能性は、誕生というあるひとつの「通過」以前には無限にあるはずだが、「誕生」は「現実の私以外」の殺害でしかないこと。わたしは、あらゆる可能性を殺害した上で可能である存在である、ということを水城は明言している。そのグロテスクさ。飄々と「誕生後」の世界を描きつつも、そこには「2人目の私」の可能性が消去された真白なり蒼が描かれており、彼(女)らは、現実においては出会う可能性をすでに永遠に消去されている。もしかしたらひょんな瞬間に二人の世界は触れ合うことがあるかもしれない(最終章において「真白」(をプロトタイプとして誕生した存在)の落し物を 「蒼」(をプロトタイプとして誕生した存在)が拾う瞬間のように)。しかしそれは第1層の《夢》の世界の中のように、お互いの世界がお互いの世界に内包されつつ包み込むような、またお互いに改変可能であるような、自由で正直な世界とはまったく異なるソリッドな現実なのである。「現実」と最初思えたものはじつは現実ではなく、可能性の一つの現象に過ぎなかった。しかしリアルの、「誕生後」の現実に比べてなんと自由であることか。

水城の攻撃対象となっているのは、この私でしかありえなくなって硬直化してしまった「わたし」である。それはよしながが制度としての「現実」を破棄しようとする手つきによく似ている。冒頭で、水城はよしながよりラジカルかもしれないとほのめかしはしたが、実際にはどちらがラジカルであるとは言えないかもしれない。よしながの現実破棄は範囲が広く、水城は、その攻撃対象が「わたし」というひとつの自我であるため、よしながに比べ深さを志向していると言えそうだ。


前述した「自由で正直な」世界(=《夢》)というものに、水城は明らかに憧れと確信を持っており、以後の作品ではより企てをポップな方面に推し進めながらも同じ方向性を志向し続ける。『失恋ショコラティエ』の舞台は、登場人物がみな正直すぎる世界である。本当のことしかできないから人は傷つけ・傷つかねばならない。『脳内ポイズンベリー』はよりフィクションな設定を加えながら、ある登場人物(いちこ)の思考様態があらかじめすべて開示されている、という点でまたこれも一つの「正直」な世界の可能性に他ならない。

水城の「正直」な《夢》世界に対置されるべきは、当然現実の、わたしたちの「この」世界である。わたしは、あなたの考えていることがわからないからこのように遠回りしてコミュニケートしなければいけない。そのせいでまたあなたにとってわたしも不可能になってしまう。水城が構想する世界とは、『放課後保健室』の《夢》のような、わたしの世界とあなたの世界がダイレクトに接続され、両者にとって両者が相互に改変可能であるような世界である。そこではすべてが許されており正直で誠実であるがために、あらゆる関係はとても痛ましいものとならざるを得ない。その痛みを受け入れること。その上でも他者への配慮を忘れないこと。その先に水城は新しい、「これでない」現実を描いてみせる。

22 12月 2014

文字24(生活についてのマニフェスト)

あなたの生活は、あまりに凡庸になりすぎてしまった。イヤホンで塞がれたあなたの耳には、わかりきったものしか入ってこないし、テレビが視界を奪い流れていくのは見慣れきった風景だ、目の前の知らない女から漂ってくる甘さ半分/海の匂い半分のこの香りさえどこかで嗅いだことがある気がする、橙色の電車に乗り込み、並走しながらわたしは半分眠りながらこんなことを考える。目の前の男が固く握りしめる鬼ころしを見つめることにも慣れて、わたしはもう危機感を持つことさえ忘れてしまった。

これに危機感を覚える事態があり得るとしたらそれはあなたの部屋で起こる。隣の誰かしらがあなたの耳元で「愛してる?」かと尋ねることがあるかもしれない。「愛している」、そのはずだ、あなたはその都度たえず自分に言い聞かせなくてはならない。その実、この感覚、胸の左のほうの奥にある「この」感覚と、そのことばはどこかどうしようもなくずれてしまっている、そういう感触を、その不気味さをあなたは鋭敏に感じ取っているはずなのだ。この温度差を埋めるために必死になること。痛ましいことだが、それを繰り返すことしかできない。「愛してる」「愛してる」「愛してる」。わたしたちは懸命に同じ言葉を繰り返す。ただ、その度にわたしの気持ちの「ここの」ものは薄れ消えていってしまうこと。

「まただ」。退屈な容姿をあざとさと容量の良さとでカバーすること。高校3年間を使ってアンニュイであることだけを覚え、少女を終えた女がつぶやくことになる。またわたしは何も与えられぬまま残される。セックスはインターネットが言い募るほど美しいものでも心地いいものでもなかった。頭のなかに止めていたほうが、あるいは気持ちよかったのかもしれない。裸であくびをしながらあなたはうっかり後悔をしてしまう。そしてこの後悔を打ち消すために手を伸ばし、生身の皮膚に触れる。しかしそのじっとりとした感触は、思いのほかあなたをぞっとさせる。「確かに愛している」。自分自身をそのことばで暗示にかけながら、自分の「この」感触をキャンセルする。

あいつが残していった消しゴム(及び消しかす)。布団に擦りつけられた匂い。3つだけのこった2箱目の避妊具。こんなところにある毛髪。借りられていった『百閒短編集』の気配。息の感じ。

それは「生活」だ。「生活」の子どもである。そういったものすべてがわたしを凡庸にさせる。わたしは限りなくわたしであろうとする生活の中で日常に身をやつし、日常はわたしから(そのあまりにもわたしであるその一点において) わたしであることを剥奪する。

それは「制度」だ。日常化した生活は制度であって、その制度の中でわたしは生活を放棄しあまりに快楽に満ち満ちた日常に体を委ねる。日常は心地がいいのだ。なににも気づかないで制度の上に乗っていさえすればいい。そうすれば20歳の現在は20年30年のギャップなどすぐに飛び越し、気づいた時にはうず高く積まれた生活の塵芥の間でもって幸福のあまり窒息して息絶えることとなる。なにも考えないことは美しく、何より気持ちいい。

私ならざるものへと押し流してゆく流れとしての生活、この絶えざる私でないもの、私でなさ、私でなくさせるもの、に抵抗せねばならぬ。これは「わたしではない」のだが、一般的な「わたしでなさ」よりも生活がおそろしいのは、なにしろ生活とはあくまでわたしがわたしであろうとする日常の延長線上に位置するものだからだ。わたしは「なりたいわたし」であろうとするあまり、生活を希求する。しかしその生活こそが腐りゆく。あるいはすでにその夢にまでみたその生活そのものが不可能であることを運命付けられているがために生活は私のものでなくなってしまう。それに気づいたとき、どのようにして生活がただ日常でなくあざらかで鋭いものに再び回帰し得るだろうか。生活は忘れよと命ずるにせよ。見ること・聞くこと・嗅ぐこと・触ることをもっても(違和感こそ持つにせよ)生活がすでに堕落しきってしまっていることに気付けないとしたら、なにが最後に拠り所になり得るか。

ブランショは言う。「詩のことばだ」。詩? それは役に立たないことの代名詞ではなかっただろうか。しかし、ところで生活とは絶えることを知らぬ有用さの謂いである。わたしが、わたしの生活が、有用さの果てに堕落を余儀なくされるのであれば、そこに「無用さ」を継ぎ挿すことは、有用さのサイクルのストッパーとなり得る。そもそも詩とはレトリック=雄弁術から派生したのだった。雄弁術とは高踏な手段を用いことばを生活から切り離す所作ではなかったか。それは絶え間なく下り行く生活のスパイラルに投じられる最初の変化の兆し、異化である。「詩」であることを忌避すべきでない。「愛」があなたの「その」愛を指示しない今、日常の言語にこだわる必然性などどこにもない。むしろこの「生活の言語」の対照ネットワークを一度全て解除すべきなのだ。胃を裏返すまでに嘔吐すること。0から始めること。いまわたしのことばがわたしのなかの「ほんとうである」何ものとも対応しないならば、「0状態」と現状とは、変わる何ものもない。その現状を吐き尽くしてしまうこと。

そこには沈黙が訪れる。それはことばというよりもむしろ啞状態に近い。生活のことばと新しくもたらされた「0」状態との違いは、わたしの生活再生へかける意志である。そこでは生活が終わり生活が始まる。

(2014年外語祭ピンク・フロイドのための没原稿)

14 10月 2014

07 10月 2014

水城せとなスタディーズ

女子マンガは、いつも男子の知らないことを知っている。

山岸凉子は人間のこころの恐ろしさを1ミリ単位で把握してるし、『NANA』の作者は人間が愛情の果てに性欲機械と成り果ててしまうという冷徹な事実を、地方の女子高生のユートピアに託して軽やかに描き出す。
少女マンガの身振りはいつだって軽やかだ。学級での「ホモ」的言説の踏み絵に心を引き裂かれた優しいブンガク男子は、少女マンガでBLという用語と出会うのだしレズビアン的な恋愛も当然のごとく一ジャンルとして肯定されている様に心を躍らせる。

山岸凉子なり萩尾望都なりは、言うなれば物語の革命者である。もちろんそれはわたしという一人の(紛れもない)ブンガク青年の言う「革命」に過ぎず、「女子」たちにとってそんなことなどすでに革命的な事態ではなくどーしようもない日常そのものなのかもしれない。少なくともわたし(たち男子)が思春期によく夢に見る「女子」とはそういったことを「知る」者のことだ。

少女マンガに、新しい怪物が現れた。

水城せとなのマンガ群がまさにそれだ。読者に新しい女子マンガの可能性を開示する彼女は、枠の革命者であると仮に言いたてることにしよう。「意識の流れ」??とか「ポストモダン」???とかそういう本はもう打棄っていいから、ブックオフでも紀伊國屋でもいい、フラワーコミックスもしくはクイーンズ・コミックの棚に走って、あかさたなはままままみみ水城(ミズシロ)せとなのコーナーで『脳内ポイズンベリー』既刊1〜4巻並びに『失恋ショコラティエ』を発見、握りしめて、恥ずかしさにそわそわしながらを購入すべきなのだ。

『脳内ポイズンベリー』は『失恋ショコラティエ』の上位互換というかより純化されたものと捉えて間違いないと思う。



『失恋ショコラティエ』というこの一見フツーに過ぎる「恋愛マンガ」は、いまのところ水城にとっての代表作と言えるものだし、かなりポピュラーであり、実際に映画も製作されている。「作者からのメッセージ」はそれを裏付けるようにこう語る。「少女漫画としては変わり種扱いにされがちですが、現実にはどれもふつうの話です。」(4巻)

どこがだ!と一読すると思われるかもしれない。実際主人公のショコラティエ爽太は、その名前とは裏腹にまったく爽やかな人間ではない。高校時代からのあこがれをこじらせ病的に人妻を愛することになるわけだし、気を引かれ合う二人が到着する地点は「セフレ」でしかない。みんなそれぞれ良い人であるはずなのだが、どこか狂っている。どこかおかしい。

このマンガのものすごいところは、主人公・準主人公がまったく語の第一義として「共感」できるようなタイプの人間でないということだ。一般に女子マンガの特性として、「ユートピア提示」という機能があるように思われるが、例えば(現実にいないからこそ)憧れの対象であるような登場人物、または自分の「この!」気持ち(ダー!ザイン的な意味で)の正統化・美化(「めっちゃわかるわ〜」に隠された周到な上方補正!)などが、『失恋ショコラティエ』に関しては全くない。と断言してしまってよい。なんとなれば『失恋ショコラティエ』には「本当に本当のリアル」な「このわたし」しかでてこないからだ。そこにはなんの美化もない。「選べない」の果てに二股や不倫があることなどざらであろうし、実際にわたしたちが抱く「愛情」とは従来のユートピア的女子マンガほど爽やかでも美しくもなく、「好意」が「愛してる」に替わる保障とてわたしたちの「愛情」にはない。

共感できないとしたら、それはあまりにリアル過ぎるからなのだ。



さて、この段階であればまだキャラクターの造形の次元であって、大きく言えば前世紀来の革命の続行であると言うこともまだできるだろう。
実際『脳内ポイズンベリー』を読んだのちに『失恋ショコラティエ』を読むのでなければその革命の遂行には気づけない。そして気づいた時にはもう遅い。

我々は水城せとなに取り憑かれてしまう。



あなたはもう、『脳内ポイズンベリー』を読んだだろうか。文学青年でありながらまだ読んでいないなら、それは怠慢である。

これはすごい。

マンガというのはストーリーだ、物語だ、と誰もが言う。しかしこのマンガに限って、ストーリーなどどうでもいい些細なことに過ぎない。『脳内ポイズンベリー』が『脳内ポイズンベリー』たる所以は、主人公いちこの脳内が「脳内会議」と称される5人の脳内人物の会議によってすべて開示されているというその枠構造によるものであって、いちこが30歳だとかアーティスト志望の男の子だとかテンプレ化し反復する物語とか物語の不整合さとかそういう細かい設定は、ひとまず何の関係もない、どーーーーーでもいい仔細な事実に過ぎないのだ。読み返してみればこうした「頭の中」が現実を浸食し想像がリアル化する構造は、『失恋ショコラティエ』にもすでに現れていたが、この枠構造、代替可能な物語は、限りなく「ポストモダン」だと言うことができる。

思えば女子マンガ界でポストモダン化への兆候は確かに存在した。『俺物語』はその例だ。登場人物があまりに魅力的だから忘れがちだが、実は「主人公が剛田のごとき人物である」こと以外に必然的な要素は一切ない。これはいままでの「登場人物は物語のかけがえのない要素であり、物語は登場人物が彼ら自身であることをも補足する」ようなマンガと真っ向から対立する(表裏一体だが)。いままでのマンガとは物語があり、それに付随する最適で理想的な登場人物の作り方にこそ作者の手腕が問われたものではなかったか。例えば現代の作家でも、穂積的な、あるいは西炯子的なマンガは、まだ「物語」であって、むしろ男子的である。
『俺物語』『脳内ポイズンベリー』の作者たちは、これを覆そうとしている。ここにおいて物語は副次的なものにすぎない。例えば筋がありがちであっても、物語自体になんの目新しさもなくても構わない。枠として主人公がいて、設定があって、それを崩さない物語が主人公と並走する。物語を引き摺り下ろしてしまおうとする試みについてマンガからの回答ではなかっただろうか。

加えてどうしようもないことに、『俺物語』にしろ『脳内ポイズンベリー』にしろ物語的にも最高!であって、ほとんど非の打ち所がないことは、また、ちょっと前のマンガに照らしてみれば「キワモノ」であったはずのそうした設定が、大ヒット作になり、映画化までされてしまうことは、ブンガク青年を絶句させてしまう。なんという可能性か。

さらに恐ろしいのは、作者の水城が、おそらくこれを意識的に(なかば冗談として)成し遂げているという事実だ。実際に、主人公いちこはケータイ小説(いまどき!!!)作家なのだが、彼女の小説について越智は言うのだ、「今の時代のスタイルの書簡体文学」だと(ショカンタイブンガクとかいう文学タームを、どの女子が知っているというのか!)。マンガの物語の中で何度もブンガクが参照される。



男子向けマンガの物語はいつも大きいし、目指すものは具体的だ。「不条理マンガ」「ギャグマンガ」の流れがそれに揺さぶりをかけるまで、男子マンガはモダニズムのなかに眠っていた。
女子向けマンガの物語は小さく(小さいながらもそれがどんどん積み重なり男子マンガ化することはあるとは言え、マンガが連載という形をとる以上それは仕方のないことなのだ)、目指すものはわかりにくいないしは単に反復される。
目指されるものはもしかしたら「幸せ」というやつなのかもしれないけど、でもじゃあ「幸せ」ってなんだ?



というようなことを書く欲望も、実は男子的で、実際はマンガがそこにあるわけで、みんな買ってサッと読めば笑えて衝撃も受けられる、というマンガの可能性・スゴさに思わず嫉妬してしまう。



追記1:また『脳内ポイズンベリー』一話で呟かれる「ああ どうしよう 頭の中が 大騒ぎだ」といういちこのセリフに、我々は思わずクスリとするが、ロシア文学の徒はゾクッとする感覚を背中に覚える。ゴーゴリだ! 慣用句が比喩を飛び越え現実化してしまう。

28 6月 2014

ブログ『文字』を訪問してくださった方に

本投稿の最終更新日:2017年3月17日


「文字」は、工藤 佯(くどう よう)の個人ブログです。ロシア現代詩、批評理論が中心の領域です。個人的なライフワークは女子マンガと80年代ニューウェイヴ。最近はロシア思想、(ロシアに限らず)現代美術を研究しています。
Меня зовут Йо Кудо (Йо - имя, а Кудо - фамилия). Я окончил учебу на кафедре русского языка в Токийском университете иностранных языков (Токио, Япония). Специализирую по русской современной поэзии и по теории литературной. В последние дни изучаю русскую философскую идею и мировое современное искусство. Мне лично интересны великолепные Сёдзё-издания и Новая волна в мировой музыке 80-ых гг.

*本ブログ掲載記事のカテゴリについて。
「わたくしごと」:覚書メモ。本来、自分のためにメモとして残したものです。
「カントを読みたいと思っていた」:2015年9月より書き始めた、カントの『判断力批判』読書レポートです。
「文字(複数の)」:「言い立て」よりも批評色の弱い私的な文章を「文字」と名付けナンバリング・ドキュメント化しています。
「留学中」:2013-14年の留学中に作成した、ロシアのリアル文化を伝える記事です。
「翻訳」:ネット上のインタビュー記事などを翻訳したものです。
「言い立て」:感想文とか批評といったジャンルに入ります。映画・本・演劇など。
「詩訳」:ロシア詩の翻訳。継続してやっていこうと考えています。ポストは基本的に詩人ごとにまとめ、詩篇を追加するたびに以前のポストを更新します。

*工藤による投稿記事・出演の一覧です。
【投稿】
以下の媒体に工藤による記事が掲載されています。
・沼野恭子氏によるブログ『沼野恭子研究室』
2013年11月〜翌年5月まで「超個人的ガイド to ロシア」というシリーズ名で掲載されました。内容は、ペテルブルグ市内の劇場案内と書店案内、グルジアでのマヤコフスキー実家訪問記です。
http://www.tufs.ac.jp/blog/mt/mt-search.cgi?IncludeBlogs=373&search=%E8%B6%85%E5%80%8B%E4%BA%BA%E7%9A%84%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89

・若手ロシア研究者によるwebジャーナル『チェマダン』ブログ
2013年に死去したアレクセイ・ゲルマン監督のインタビューを翻訳し、2014年9月に掲載されました。
http://chemodan.jp/blog/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%80%8E%E3%82%82%E3%81%86%E3%80%81%E3%81%86%E3%82%93/


【出演】
・2014年1月11日 ロシア・サンクト=ペテルブルグで開かれたイベント「Bowie Conference」に参加し、「デヴィッド・ボウイと日本」と題したプレゼンを行いました。
詳細に関しては以下のポストにまとめてあります。
参考URL: http://pokayanie.blogspot.jp/2014/01/18-11bowieconference.html

・2015年7月24, 26日 荻窪Velvet Sunで開かれた映像と音楽のイベント「Neontra」に参加し、「アヴァンギャルド文化論基礎(建築篇)」と題したレクチャーを行いました。
当日使用したスライドはこちらから確認できます。
参考URL: Neontra FBページ(https://www.facebook.com/neontra.city

・2016年2月27日、東京国際文芸フェスティバルのオリジナルイベントとして「多文化の海をおよぐ 〜世界文学×クロスリーディング〜」を主催しました。
URL: 公式TumblrFBページ文芸フェスHP

・その他lless(レス)というバンドで、ドラムを叩いています。
soundcloud: https://soundcloud.com/lless-1

出演、記事執筆、翻訳に関してご依頼がありましたら喜んでやらせていただきます。ご一報ください。アドレスは junk.dough@Gメール です。

26 5月 2014

文字21

ロシアには「舌サラダ」といって牛やら豚やらのタンが入ったサラダがありますが、咀嚼にいそしむわたしの口のなかで、ときおり野菜に紛れて妙に生々しいのがあって、そういうのを食べると、フレンチな接吻を行為したことがなくてもそれを疑似体験できるはずですから、それ食って、人肉使用・営業停止を伝える明日の新聞を想起して、舌を転がしながら、へらへら笑ってろ

文字20

30度近くを記録した5月25日のロシアでアイス祭りというイベントがあって、隅っこのほうでアイスクリームを食うなどしていたら、なにかこう憂いのある目をした女の子が近づいてきて、わたしの目を見て2回ほど頷き、なにを諒解したものか、わたしに白い大きな風船を託してどこかへ消えていってしまったものですから、思わず手を差し伸べてしまったわたしとしては、アイスクリームと白い大きな風船とを抱え込んだまま、途方に暮れるほかなかったのです。

22 5月 2014

ロシアのインディー音楽(音楽サイトFar from Moscowについて)

以下に掲載するのは、ロシアの情報誌「アフィーシャ(Афиша)」誌のネット版に『イギリス人にはぼろぼろでもいつも手の届くところにマイクロバスがあるが、マガダンでは永遠にそこに留まったままかもしれない』という長いタイトルで掲載されたロシアのインディー音楽事情についてのインタビュー記事の全文翻訳です。原文はこちら

インタビューを受けているのは、ロシア・東欧音楽の紹介サイト「Far from Moscow(記事中では以下FFMと略)」を運営するデヴィッド・マクファディエン(David MacFadyen)氏です。記事中の紹介文によると、「FFM2008年から定期的にスラヴ圏やバルト諸国のインディ音楽シーンについて発信し続けている、おそらく唯一の英語メディアである」とのこと。センスは非常に高く、わたしがロシアにこんなに水準の高いインディカルチャーがあるのだと知ったのもこのサイトを通じてでした。
記事中で本人も語っているように、音源の数が多すぎて時にとりとめもない印象を受けるかもしれませんが、そこはご愛嬌。ロシアでも、地方のシーンに注目して紹介するアティチュードは非常に好感が持てます。

リンク:
Far from Moscowホームページ→http://www.farfrommoscow.com/
その他、SoundCloudBandcampTwitter、Facebookに公式ページがあります。


19 5月 2014

よみがえるグルジア映画

以下に掲載するのは「ボイス・オヴ・アメリカ(VOA)」ロシア語版ホームページ掲載の、『グルジア映画は甦る』と題されたインタヴュー記事の全訳です。
元記事はこちらを参照してください。

今回の記事で触れられるナナ・エクヴティミシュヴィリ監督の『花咲くころ(In Bloom、露:Длинные светлые дни、グルジア語:გრძელი ნათელი დღეები)』は、2013年9月にペテルブルグにて行われたサンクトペテルブルグ国際映画祭にて上映され、わたし(工藤)は大きな感銘を受けました。記事中でも触れられているように、ベルリン国際映画祭を初めとする多くの映画祭に出品され、いくつかの賞を獲得しています。

日本では、2013年の11〜12月にかけて東京で開かれた第14回東京フィルメックスにおいて上映され、最優秀作品賞を獲得しました。
東京フィルメックスの作品ページはこちら。[注:ちなみにエクチミシヴィリという表記になってますが、ローマ字転記はEKVTIMISHVILIです

サンクトペテルブルグ国際映画祭の監督紹介ページから訳出したエクヴティミシュヴィリ監督のプロフィールが以下です。

ナナ・エクヴティミシュヴィリ(ნანა ექვთიმიშვილი):1978年グルジアのトビリシで生まれる。ポツダムのコンラッド・ヴォルフ映画・テレビ大学にてシナリオ及び演出技術を学ぶ。いくつかの短篇映画も撮っている。『花咲くころ』は彼女の処女長編映画である。

予告編はこちらをご覧ください。



14 5月 2014

文字18



いえにかえるみちで 鳩をみつけたので


いっぴきえらんで むちゅうでほおばっていると


おまへが怒ったかおで ちかづいてくるのだ


わたくしがなにかしただろうか

きまりのわるいかおを ぢめんにむけて

ちしぶきのながれるままにしていると おまへはいうのだ





おまへは呵々とわらいながらいうのだ


ひとなみの欲望がおまへにあるかと






ある、なくてたまるか わたくしはさけぶが


おまへはすでになく ほかのだれもきいていない













そのための鳩食いだ


うまくもない鳩を 腐った魚の臭いがするあの鳩を


そのために食っていたのだ












08 4月 2014

ロシアのストリートアート

2013年9月より2014年6月まで、ロシア・サンクトペテルブルグにて生活しています。そうした生活の下でしか見えてこないであろう、ロシアのストリートアートにテーマを絞ってご紹介します。
以下写真が多数ですので、開く際には注意してください。

06 4月 2014

(覚え書き)アストラハンに行く人へ/ロシア国鉄について

【アストラハンに行く人へ】

詩人フレーブニコフの故郷を拝みたいと、アストラハンに行く計画を立てているのですが、カザフスタンのテリトリーを通る電車に気をつける必要があります。

この記事の作成に当っては、ロシアのチケット予約サイトであるhttp://www.tutu.ruが大変役に立ちました。

・モスクワ→アストラハン
心配はありません。カザフスタンは経由しません。ヴォルゴグラード経由の電車も経由しません。


・ペテルブルグ→アストラハン
要注意です。チケットには「транзит через СНГ(CIS諸国経由)」との記載があり、カザフスタンを通過します(我が物顔で線路を引きやがって)。カザフ国内で停車はしないものの、オフィシャルにはビザが必要なはずです(乗車経験はないので実際に要るかどうかは不明)。ペテルブルグ発の列車のほか、サラトフ発の列車も同じルートを通るので、カザフを通過します。





【ロシア鉄道РЖДの切符購入の規則について】
窓口で購入する場合、買ったらすぐに「その場を離れず」切符記載の情報を確認する必要があります。РЖДとしては、切符を受け取り窓口から離れた瞬間に、その切符に関する全責任は乗客側にシフトすると考えます。人がいっぱい並んでいようが関係なく、すぐにその場で確認するのがベスト。間違いに気づいたらすぐに言うこと。(デキる係員であれば、その切符を取り消して新しいものを発券してくれますが、大抵は「大丈夫大丈夫」とかいってごまかされるでしょう。交渉力が試されます)
なお間違いについてですが、「1枚の切符につき1文字までの間違い」は公式に、問題なし、とされています。例えばパスポート番号が1つだけ違う、とか姓が1文字違う、とかそういった間違いが切符の中で一つだけであれば、問題なく乗車できるようです。(実際は乗務員の裁量によるので、もちろん振れ幅がありますが、公式にはこういうことになっています。)
それ以上の間違いがあったら、リスクを冒さないためにも、なるべく速く「払い戻しвозврат」窓口に行って払い戻しの上、新しい切符を買いましょう。購入済み切符の「訂正」はできません。払い戻しの手数料は1枚につきだいたい200ルーブルで、その額が引かれたうえで、現金ならその場で返却され、購入がクレジットだった場合は、クレジットの口座にお金が戻ります。

ぼくの場合、4枚同時に買ったのですが、パスポートを提示していたにもかかわらず、そのすべてが「タジキスタン出身のкидоさん」のチケットになっていました(クソ)。気づいたのは家に帰ってからだったので、やむを得ずチケット払い戻しをしました。係員は「大丈夫、乗れるよ」(何を根拠に)と言ってましたが、ビザが必要になるなら無理だなと思ったので。

写真は、モスクワに行ったときに訪れたフレーブニコフ家のお墓です。

19 2月 2014

サヤト=ノヴァ×タルコフスキー

以下に訳出したのは、脚注に記載した底本より、サヤト=ノヴァ詩の、タルコフスキー(父)によるロシア語訳からの重訳です。旧かなにしたのは何となく、そっちのほうが雰囲気でるからです。すみません。
ナボコフなんかは翻訳者があんまり芸術家肌ではいかん、というようなことを言ってるわけですが、ソヴィエト時代には、発禁扱いになった一流の詩人・作家が、翻訳で食いつなぐという事態がままあったわけで、許してやってくれ。それから重訳で申し訳ないです。

あなたのさばきに


あなたのさばきに こころはよろこぶ
あなたはけだかき帝(みかど) グルジアのよろこび
ひとはいふ わたくしにはがつかりだと
ろくでなしのくず どくのつまつた いどがわたくしだと
きをわるくするな 謂つてしまわねば ならぬのだと


ひとりもののわたくし どこでうけいられようか?
わたくしは無粋なおとこ 突かれても こたへは待たれておらぬのだ
こうしてわたくし よの ものわらひの まとになる
こころをひらけど わたくしは こんなことばをなげかけられる
「おまへは はたけのうねのはざま そこにある 不毛の丘だ!」と


みかどのまへに きよらかなるころも まとひて立つ
わたくしのサアズは うずうずしてゐる
わたくしは ことばのいみをわすれてしまふ!
帝は冷酷にも わたくしを 向かふへおひやる
「おまへは きたならしい羊毛 よの わらひものだ!」


山と 山とが であふといふ
かみさま あなたのお慈悲を わたくしに!
さばきには あたひせぬ わたくしであろうか?
帝の 御手で 死罪になったほうがよい
あなたは わたくしの師 わたくしのよろこび


さいはひかな


さいはひかな 橋をたてたものよ
とおるものは 橋にあはせて いしをおいて ゆくだらう
わたくしは 民にいのちを なげだした このために
わがおとうとは 墓碑を わたくしのため たてるだらう


こころのうつくしきもの たましひのけだかきものが
ほこりたかく立ち あしの枷を とりはらう
わが勇者は 鉛の弾丸(たま)を さぐりあてる
商い人の つくえに たからかに それをおくのだ


さきゆきの杳とせぬ 運命(さだめ)の喇叭は うたふ
ほまれたかき族(うから)は その財を うしなつたと
羊毛が要つたものは いま
たへなる絹の錦を 宝箱のなか かくすのだ


善と悪とが かみさま ばらばらになつてしまつた!
よこしまな君主から まもりたまへ
ちかごろは 敵にうらみなど もつてはいませぬ
あいする同胞(とも)が 毒を わたくしのさかづきに盛るのです


おまへたち 霊感のない うぐひすよ いつたいだれに 入り用か?
愛は すぎさつてゆく そのくるしみ いつたいだれに 入り用か?
サヤト=ノヴァの     うたは   いつたいだれに 入り用か?
いまや だれだつて 韻を順々に ならべるのだ


うつくしいおまへのせいで


うつくしい おまへのせいで 責め苦の海のなか しんでしまふよ
その眼 まつげの矢 ゆみなりのまゆ そのせいで しんでしまふよ
たつたいちどの うぐひすのよな ばらのほほえみに まどわされ
おまへのしろきむねが はなひらいて しんでしまふよ


みてほしい わたくしは異教のものとなり こころは ほのほのよう
すくなからぬわざわひを とほりすぎてなほ 誇りをたもつてゐる
かねのない 商い人 わたくしは ただかなしみだけを あきなふのだ
刺すよな悲しみの抱擁のなか なげきのとりこになつて しんでしまふよ


わたくしは グルジア 諸侯のあひだにいて いのちをむだに つかいちらすのだ
おお こころはくらい 夜のごと わたくしは 血の なみだをながす
わたくしは 民の誇りを たもつてゐる 不名誉の しるしは かくしておこう
愛のため サヤト=ノヴァは あかつきのころ しんでしまふよ




<詩人(たち)について>(底本記載のプロフィールを基に、若干情報を追加。)
サヤト=ノヴァ(Саят-Нова、アルメニア語:Սայաթ-Նովա、グルジア語:საიათ-ნოვა、本名ハルテュン・サヤチュアン、1712-1795)は、高名なアシューク(カフカス地方の吟唱詩人)。チフリス(現トビリシ)にて、職人の家庭に生まれる。織工であった。詩人・音楽家としての栄誉を我がものにし、カヘティ王(後にカルトゥリ=カヘティ合同王国王、現在のグルジア)エラクレ2世の宮廷付き詩人となるも、すぐに宮中の陰謀により貴族階級と袂を分つことになる。司祭となった後ハフパット修道院(アルメニア)の僧となるが、アーガー・モハンマド・シャー(イラン・カージャール朝初代皇帝)によるチフリス征服の際に惨殺。亡骸は聖ゲヴォルギ教会(トビリシ)に眠る。

サヤト=ノヴァの詩はアルメニア語・グルジア語・アゼルバイジャン語で書かれ人口に膾炙、現在まで高名を保っている。現存するのは、アルメニア語詩68篇、グルジア語詩34篇、アゼルバイジャン語詩115篇で、そのうちアゼルバイジャン語で書かれたものは日の目を見ず、ロシア・サンクトペテルブルグのロシア科学アカデミー東方手稿インスティトゥート所属アジア美術館に眠っているという。

訳中、「サーズ」とは中央アジアに分布する弦楽器の名称。http://ratio.co.jp/education/contents/tzukan_ongaku/html/inst/data/m058.htm

彼が我々外国人にも名を馳せることとなったのは、(サヤト=ノヴァと同じく)トビリシ生まれのアルメニア人監督セルゲイ・パラジャーノフ(Параджанов, Сергей Иосифович、1924-1990)の『ざくろの色』(1969)に寄るところが大きい。『ざくろの色』は、フィルムは散逸し現存しない『サヤト=ノヴァ』(1968)を、ロシアのセルゲイ・ユトキェーヴィチ監督が再編集したものだと伝えられる。

それでも映画の価値は減じない。その色使い・つながりのぶっ飛び方は、パラジャーノフ以外の誰も到達し得ない境地である。とりあえずは本篇をみてほしい。
http://www.youtube.com/watch?v=tQ4IJ-cFLCE



アルセーニイ・アレクサンドロヴィチ・タルコフスキー(Тарковский, Арсений Александрович、1907-1989)はロシアの詩人。日本人には映画監督アンドレイ・タルコフスキーの父と言ったほうが通りがいいかもしれないが、アルセーニイ自身も本国では詩人として第一級の扱いを受けている。日本では、詩集『白い、白い日』(前田和泉訳)と『雪が降るまえに』(坂庭淳史訳)がすでに出版されているので、詳しくはそちらを読んでもらうといいかと思います。


底本:Ю. Розенблюм(ред.), Поэзия народов СССР IV-XVIII веков// Библиотека всемирной литературы. М., Изд.«Художественная литература», 1972.

01 2月 2014

ヨシフ・ブロツキーの詩

逐語訳に近い試訳です。難しかった。

ハエ

アルフレッドとイレーネ・ブレンデルへ

きみが歌っている間に 秋はやって来た。
木切れがペチカで焚かれていた。
きみが歌い飛び回っている間に
すっかり寒くなってしまった。

いま きみはのろのろと這っている
すすけたコンロの面に沿って
4月にきみが現れた あそこに眼もくれないで。
いま きみはやっとこさ

別のところに動く。 何ものも
きみを殺すことはできない。 だが
苦しみよりも死にうんざりした歴史家のように
ぼくはためらっているんだよ、ハエよ。

きみが歌い飛び回っている間に 葉は
落ちていった。 水にとっては
地面にしみ込んで行くのが楽なのだ もとに戻って水溜りから
他人事のように見つめるために。

で きみはどうやらまったく眼が見えないらしい。
ブロック敷き歩道の親戚である
きみの網膜のせいで真っ暗になってしまった
ほんのちょっとの脳みその色を想像してもいいし

ぶるぶる震えてもいい。だがきみはきっと
住処に置き去りにされた気分と
がっくりうなだれた緑のブラインドに満足するだろう。
生活は長引いた。

あぁ おしゃべり女め、すばやさを失ってから
きみは古いユンカース社の飛行機みたいにみえるよ
遠い昔のドキュメンタリ映画の
黒い一コマのように

夜半過ぎまでぼくのキセルの上 そこでずっと
かさこそやっていたのはきみじゃなかったっけ?
サーチライトで窓枠のほうへ
追い立てられたきみでは?

いま 可愛いおまえよ ぼくの黄色い爪は
きみのお腹を上手に触り
きみは恐怖で身震いするだろう
ぶんぶんいいながらね ぼくの彼女よ。

きみが歌っている間に 小窓の向こうで灰色が
濃くなってきた。扉は湿気で
溝のなかにすっと収まる。そしてかかとが
凍えている。ぼくの家は凋落していく。

だがきみを虜にはしないだろう
流しで長いことほったらかしの
汚れた陶器のピラミッドも、甘い砂糖の
テントも。

きみはそれどころではないのだ。そういう
銀の食器のがらくたにかまう暇はないのだ。
そういうものに関わっているのは 高くつく。
ぼくとて同じなのではあるが。

きみの羽根、その足はなんと時代遅れなんだろう!
その中にひいばあちゃんのベールがあるみたいだ
一昨日のフランスの塔に紛れ込んでしまった
あのベールみたい —

世紀もまさしく19世紀ということさ、要するに。
だが きみとそれとを比べれば
きみの破滅を
儲けに換えてやることが出来る

さもしきペンで
きみを実体なき思索のほうへ 完全な
無感覚のほうへ 本来よりも早く突きやりながら。
ごめんよ ひどいことだ。

なにを夢見ているんだ? きみの打ち砕かれた、
でも誰にも読み解かれていない軌道のこと?
六本足の文字のこと、きみの
ためにノートに書かれた

平らな場所にぐしゃぐしゃになって書かれた
キリル文字の他ならぬ余韻によって
誰の色だか、たぶん、
きみにはわかったんだろう

で、飛び上がる。 いまでは、盲いたきみ、
きみはうんともすんとも言わない 拠点を
はつらつとしたブルネットの娘や女の
気取った様子とか身振りに明け渡してしまう

きみが歌い飛び回っている間に 鳥たちは
ここから飛び立っていってしまった。 小川の鯉たちは
減ってしまい 林はもぬけの殻
キャベツが弾ける

寒いから野は せめてもの冬支度を
するばかり。 どこかで爆弾の
タイマーがカチカチ言っている 外身からはわからないが
爆発の時刻は過ぎたようだ。

その他には なにも聞こえない。
うちでは灯りに覆いが打ち掛けられ
再び雲の中へ。 草は色あせてしまった。
うす気味悪い。

そしていまではぼくら2人だけ 伝染病の媒介者であるぼくらだけだ。 微生物と文章は
どちらも同じだけ生き物を冒す。
ぼくらは2人だけ:

死に怯えるきみの小さな身体と、
ぼくの、教養ある百姓を装った、だいたい
8プードほど(の重さの身体)。プラス秋。

すっかり駄目になってしまったね、きみの平衡器!
でも時間は惜しくないんだ
ぼくらのために費やされる時間は。「ありがとう」って言えよ。
「ご丁寧にどうも」って。

「何でも嫌がらないでくれてどうも」って それとも
感じないのかな、どんなたわごとが
時間にすり寄ってくるか。生気のない
大小の

疥癬病みの姿で。きみ、飛んだね。
時間にとっては、でも、老いと
若さは区別しがたいものなのだ。
時間に関係するものだが、また

結末とは法的に無関係であり、
ミニチュア模型の中では
なおさらのこと。大慌てする指には
裏と表があるように。

時間は、きみがそこ、薄暗いランプの下で
見え隠れしてる間は、
ぼくから垂木のほうへと逃してくれ、
いまと同じ、

つまり、無色の埃とともに
きみが近づいてきたいまと同じふうだった、無力さと
ぼくへの態度のおかげでね。陰鬱な憂愁とともに
考えこんではいけない

ぼくにとって時間は 偉大な同業者だと。
見なよ、可愛いおまえ、ぼくはきみの同獄者であり
共犯者であり大の親友なんだから、
時期を早めるなよ。

外は秋だ。ハナミズキの裸の枝に
災難が降る。モンゴル辺りのように:
粗野で背の低い人種と
黄色い大衆との婚礼だ。

というよりは性交。誰もぼくら2人とは
関係ない。ぼくは麻痺を
自家薬籠中のものとした。つまりはおまえのウィルスを。
きみは驚くだろうね、

麻痺と無関心がどんなに強力に伝染するかを知って。
惑星にその貨幣でもって
仕返ししたがる癖を
生み出しながら。

死なないで!抵抗するんだ、這っていけ!
なにかのために生存してもつまらない。
自分のために生きるなど、なおさら陳腐なものさ。
自分無しならもっと誠実になれる

意味を失ってもなお居座り
暦たちや数字たちを困らせること
よそ者に示すのだ
「人生とは—

非在と掟の侵犯の同義語である」と。
きみがもう少し若かったなら、ぼくは視線を
向こうへむけたのに、これが有り余っているほうへ。きみは、でも
年をとっていてもっと近くにいる。

XIII
いまきみと2人 窓からはすきま風。
雨はガラスを堅くないくちばしでテストしている
力を入れずにぼくらを細い線で描きながら。
きみはぴくりともしない。

きみと2人きり、ということだ。せめて
きみが死ぬときには ぼくはきっと喪失を
心の中で感じ取るだろう それはいつだったか
うまい具合にいったきみの首吊りの

こだまになるだろう
死とは、ねぇ、見ているひとがいるなら
一人の時より
はっきり終止符が打たれるものなんだよ。

ⅩⅣ
相も変わらず きみが痛みを感じないようにと願っている
痛みは場所を要求するし 回り道をしてでも
きみのほうへ忍び寄っていくものだ 背後から
奇襲するのだ。一体なにが

ぼくの手できっとできただろうか。
指はふさがっている、ペンと文と
インクびんで。死なないでくれ、最悪の事態に
ならないうちは、

きみが痙攣しているうちは。あぁ梅毒女め!
脳の状態なぞ屁とも思わぬ。
従うことをやめたモノは、
その瞬間には

ⅩⅤ
それなりに美しいのだ。つまり、
逆に大喝采で迎えられて、
それが長く長く続くに値する。
恐怖 本質 表

肉体の個人的な無力さと
余計な一秒に関わる
関数表。冷たく表現しつつも
ぼくは、おしゃべり女よ、

自分のものを犠牲にすることには賛成だ。
だがその身振りはどうやら無駄なものみたいだね。
きみの6本足は駄目になってしまう、シヴァ神よ。
きみにとっては嫌なことだろうさ。

ⅩⅥ
記憶の欠如のなか、記憶の地下蔵のなか、
その堕天し消え去りなどなどした
宝物のなかから(そもそもコシチェイの時代には
そういったものは

ものの数にも入らぬし、ましてや
それ以後のことなど何をか況んやだが)、生物から奪われた
こういった収蔵品のなかから、心休まる
休息の場所が、きみとほとんど
同じ名前

「ミューズ」という名のものによって
もう整えられている。ここから離れろ、ハエよ、
この長さ、あたかも文字の、アルファベットの
下僕のごとしだ。

ⅩⅦ
外は曇っている。ぼくの摩擦器官は
部屋のなかのモノに、視野という名のもと、
壁にかかったモノに、注意を集中させる。
ほらほら 自力で壁の

染み付いた模様を、力任せでなく取ってみなよ、
虚弱な天使セラフィムを殴りつけるため
そいつは祈りが支配する神の棲処にいる
その祈りはリズムと反復の

思想からなり、その鐘楼から響く、
何の意味もなく絶望した
根っこを奪い去る鐘楼から、彼ら、つまり黒雲の昆虫の類いにとって絶望など縁のないものだが。

ⅩⅧ
これはどんなふうに終わるのか?ハエの天国が現れて終わりか?
そこの養蜂場、というより汚い物置で終りを迎えるのだ
そこではイチゴのジャムの上を寝ぼけた
群れとなってぐるぐる回っている、

きみの先輩たちが 晩秋の音を
田舎の舗装道路のように
たてながら。だがドアを開けてやろう。 
そして蒼ざめた群れとなって

やつらはぼくらの脇を飛び抜けていく、元の
環境のほうへ その環境は清潔に
丈夫な経帷子に包まれている
まさしく冬の経帷子に

ⅩⅨ
強調しよう、ちらちら見え隠れするおかげで、
こころは本質を、
物質を、風景のなかでの定めを、心得ていることを。
そして煤の色をした
モノは (そのへんをぶらついているものと)
替わってしまうものだ。全部合わせれば、こころは
あらゆる民族をも凌駕すること。
色彩とは時であるか

あるいは時にぴったり後ろからついていく
偉大なハリカルナッソス人(ヘロドトスか?)の向かう先である
丘と屋根の
正面から あるいは横からことばを用いつつ。

ⅩⅩ
蒼ざめた竜巻の前で跳び退き
ぼくに見分けられるだろうか、奴らの
あからさまに羽根をもった軍団のなかに溶け込んだきみを?
そしてきみは勝手に

ぼくのうなじに降り立つのだろう
遠くに木屑をこんもり積もらせおわったら。
そのガサガサいう音で全世界を騙そうだって?
できるわけがない。とはいえ

100歳の!)樫の木の戦は誰よりも遅い
可愛い娘よ、きみは、それらのなかで
一番最後だとわかるだろう。で もし受け入れられたら
当地の気候は

XXI
移り変わりやすさ込みで計算に入れられているから
空気をきってぼくらの領土まで
突っ切ってくるきみを、ぼくは目にするだろう
春に そのどろんこを

踏みつけながらこう思うのだ。星が墜ちた、
そして無気力に打ち勝ちつつ
手を振ろう。だが
天の十二宮の、ではない

そうすると生け贄になってしまう、そうでなくてきみの飛び行くこころで、


他種の幼虫と結びつくのだ、
「変異あれ」と
発するために。

1985

Бродский, Иосиф Александрович (1940-1996)

27 1月 2014

26 1月 2014

1/8-11「BowieConference」

新年あけて1月8日から11日にかけての四日間、ペテルブルグ市内で「ボウイ・コンフェレンス」というよくわからない催しがありました。デヴィッド・ボウイについて話し合う「ポピュラー・サイエンス的な」コンフェレンスとのこと。
当初は、「へぇこういうのがあるのかー」という純粋な興味だけで参加申し込みしていたはずだったのですが、4日ころに主催者側からコンタクトがあり、曰く「お前も発表しないか」ということ。おそらく「こんなところに日本人が来やがる!やらせてみるか!」みたいな思惑だったのでしょうが、わたしはニューアルバム『The Next Day』の興奮冷めやらぬままよくよく考えることもせず「オッケー!」と即答してしまいました。
ということで11日に発表、思いもよらず深く関わることになってしまったのでした(最初は8日に発表しろと言われてたが食い下がりました)。

(1日目の会場、エタジーのイベント風景。案外アングラな雰囲気。テンパリ具合を察してほしい。)


(参考)
公式WordPress:http://bowieconference.wordpress.com
その他コンフェレンスについて各メディア:
http://www.colta.ru/articles/music_modern/1709
http://paperpaper.ru/main-of-bowie/
http://rustoria.ru/post/devida-boui-razobrali-na-chasti-tvorchestvo-kostyumy-kosmos/#1

07 1月 2014

1/5「ソ連のCMフェスティバル」

新年あけて1月5日、ペテルブルグ市内の映画館ロージナにて「ソ連のCMフェスティバル(Диафильм - Фестиваль советской рекламы)」という映画祭が行われました。優れたキュレーターの存在を感じさせる、いい企画でした。何よりも前半部の畳み掛けるようなリズムがたまらない。
原題にある「ヂアフィルム」とは、70-80年代のソ連で超短尺映像に限った映像制作をしていた会社。ウィキによると、カラーなら30コペイカ、白黒で20コペイカだったそう。



社会主義のソ連でCM??という疑問が、まず企画名を見た瞬間に生まれてくるでしょう。その通り。「ソ連なのに」CMが存在したという事実(しかしそもそもソ連黎明期からソ連のイデアとアメリカのイデアは「効率性」という一点で結びあわされていたことを考えれば自然に出てきてよい方向性でしょう)。
ポスターのキャッチコピーは「売らないCM、売れないCM(Реклама, которая не продает и не продается.)」。頭いい。こんなに要を得たキャッチコピーがあったものか。いわずもがな、CMとは商品販促のための機械ですが、大多数のソ連市民にとってこれらのCMにでてくる商品たちの多くは「夢」に終わるでしょう。なぜならそもそも生産が追いついていない、よし買えるとしても順番を待たなければならない、そもそも売っていない、などの事態が容易に想定できるからです。「夢」に費やされる市民の「夢」、それはどこまでも夢であり、何ものも生み出さない。そこには剥き出しにされ宙づりにされた、孕むことのない欲望があります。それを露わにしてしまうこの企画は、残酷だが貴重なものです。
そしてなにより楽しかった。客層は、当時を知る層よりも、はるかにソ連を知らない若い層が多い感触です。観客の誰もがCMたちを「楽しめている」のは絶え間なく上がる笑い声でわかるでしょう。

それでは、このフェスティバルを構成する作品の中からおすすめをいくつか紹介しようと思います。全体としては、ソ連で70-80年代に製作された50作弱の短いCMと、後半の反アルコール・反喫煙が主なテーマである長尺ドキュメンタリー及び政府公報から成ります。全部を記憶するのは無理ですが、1/6に行われた2回目の上映にて多少はメモしつつ見ることが出来たので、それが助けになりました。
それでは以下に紹介していきます。ロシア語がわかるとなおおもしろいはずですが、ばーと見るだけでもあまりのポップさに踊りだしたくなることでしょう。
以下動画多数につき、開くと重いので注意してください。

まずはこのフェスティバルの予告篇。中毒性高い!