07 10月 2014

水城せとなスタディーズ

女子マンガは、いつも男子の知らないことを知っている。

山岸凉子は人間のこころの恐ろしさを1ミリ単位で把握してるし、『NANA』の作者は人間が愛情の果てに性欲機械と成り果ててしまうという冷徹な事実を、地方の女子高生のユートピアに託して軽やかに描き出す。
少女マンガの身振りはいつだって軽やかだ。学級での「ホモ」的言説の踏み絵に心を引き裂かれた優しいブンガク男子は、少女マンガでBLという用語と出会うのだしレズビアン的な恋愛も当然のごとく一ジャンルとして肯定されている様に心を躍らせる。

山岸凉子なり萩尾望都なりは、言うなれば物語の革命者である。もちろんそれはわたしという一人の(紛れもない)ブンガク青年の言う「革命」に過ぎず、「女子」たちにとってそんなことなどすでに革命的な事態ではなくどーしようもない日常そのものなのかもしれない。少なくともわたし(たち男子)が思春期によく夢に見る「女子」とはそういったことを「知る」者のことだ。

少女マンガに、新しい怪物が現れた。

水城せとなのマンガ群がまさにそれだ。読者に新しい女子マンガの可能性を開示する彼女は、枠の革命者であると仮に言いたてることにしよう。「意識の流れ」??とか「ポストモダン」???とかそういう本はもう打棄っていいから、ブックオフでも紀伊國屋でもいい、フラワーコミックスもしくはクイーンズ・コミックの棚に走って、あかさたなはままままみみ水城(ミズシロ)せとなのコーナーで『脳内ポイズンベリー』既刊1〜4巻並びに『失恋ショコラティエ』を発見、握りしめて、恥ずかしさにそわそわしながらを購入すべきなのだ。

『脳内ポイズンベリー』は『失恋ショコラティエ』の上位互換というかより純化されたものと捉えて間違いないと思う。



『失恋ショコラティエ』というこの一見フツーに過ぎる「恋愛マンガ」は、いまのところ水城にとっての代表作と言えるものだし、かなりポピュラーであり、実際に映画も製作されている。「作者からのメッセージ」はそれを裏付けるようにこう語る。「少女漫画としては変わり種扱いにされがちですが、現実にはどれもふつうの話です。」(4巻)

どこがだ!と一読すると思われるかもしれない。実際主人公のショコラティエ爽太は、その名前とは裏腹にまったく爽やかな人間ではない。高校時代からのあこがれをこじらせ病的に人妻を愛することになるわけだし、気を引かれ合う二人が到着する地点は「セフレ」でしかない。みんなそれぞれ良い人であるはずなのだが、どこか狂っている。どこかおかしい。

このマンガのものすごいところは、主人公・準主人公がまったく語の第一義として「共感」できるようなタイプの人間でないということだ。一般に女子マンガの特性として、「ユートピア提示」という機能があるように思われるが、例えば(現実にいないからこそ)憧れの対象であるような登場人物、または自分の「この!」気持ち(ダー!ザイン的な意味で)の正統化・美化(「めっちゃわかるわ〜」に隠された周到な上方補正!)などが、『失恋ショコラティエ』に関しては全くない。と断言してしまってよい。なんとなれば『失恋ショコラティエ』には「本当に本当のリアル」な「このわたし」しかでてこないからだ。そこにはなんの美化もない。「選べない」の果てに二股や不倫があることなどざらであろうし、実際にわたしたちが抱く「愛情」とは従来のユートピア的女子マンガほど爽やかでも美しくもなく、「好意」が「愛してる」に替わる保障とてわたしたちの「愛情」にはない。

共感できないとしたら、それはあまりにリアル過ぎるからなのだ。



さて、この段階であればまだキャラクターの造形の次元であって、大きく言えば前世紀来の革命の続行であると言うこともまだできるだろう。
実際『脳内ポイズンベリー』を読んだのちに『失恋ショコラティエ』を読むのでなければその革命の遂行には気づけない。そして気づいた時にはもう遅い。

我々は水城せとなに取り憑かれてしまう。



あなたはもう、『脳内ポイズンベリー』を読んだだろうか。文学青年でありながらまだ読んでいないなら、それは怠慢である。

これはすごい。

マンガというのはストーリーだ、物語だ、と誰もが言う。しかしこのマンガに限って、ストーリーなどどうでもいい些細なことに過ぎない。『脳内ポイズンベリー』が『脳内ポイズンベリー』たる所以は、主人公いちこの脳内が「脳内会議」と称される5人の脳内人物の会議によってすべて開示されているというその枠構造によるものであって、いちこが30歳だとかアーティスト志望の男の子だとかテンプレ化し反復する物語とか物語の不整合さとかそういう細かい設定は、ひとまず何の関係もない、どーーーーーでもいい仔細な事実に過ぎないのだ。読み返してみればこうした「頭の中」が現実を浸食し想像がリアル化する構造は、『失恋ショコラティエ』にもすでに現れていたが、この枠構造、代替可能な物語は、限りなく「ポストモダン」だと言うことができる。

思えば女子マンガ界でポストモダン化への兆候は確かに存在した。『俺物語』はその例だ。登場人物があまりに魅力的だから忘れがちだが、実は「主人公が剛田のごとき人物である」こと以外に必然的な要素は一切ない。これはいままでの「登場人物は物語のかけがえのない要素であり、物語は登場人物が彼ら自身であることをも補足する」ようなマンガと真っ向から対立する(表裏一体だが)。いままでのマンガとは物語があり、それに付随する最適で理想的な登場人物の作り方にこそ作者の手腕が問われたものではなかったか。例えば現代の作家でも、穂積的な、あるいは西炯子的なマンガは、まだ「物語」であって、むしろ男子的である。
『俺物語』『脳内ポイズンベリー』の作者たちは、これを覆そうとしている。ここにおいて物語は副次的なものにすぎない。例えば筋がありがちであっても、物語自体になんの目新しさもなくても構わない。枠として主人公がいて、設定があって、それを崩さない物語が主人公と並走する。物語を引き摺り下ろしてしまおうとする試みについてマンガからの回答ではなかっただろうか。

加えてどうしようもないことに、『俺物語』にしろ『脳内ポイズンベリー』にしろ物語的にも最高!であって、ほとんど非の打ち所がないことは、また、ちょっと前のマンガに照らしてみれば「キワモノ」であったはずのそうした設定が、大ヒット作になり、映画化までされてしまうことは、ブンガク青年を絶句させてしまう。なんという可能性か。

さらに恐ろしいのは、作者の水城が、おそらくこれを意識的に(なかば冗談として)成し遂げているという事実だ。実際に、主人公いちこはケータイ小説(いまどき!!!)作家なのだが、彼女の小説について越智は言うのだ、「今の時代のスタイルの書簡体文学」だと(ショカンタイブンガクとかいう文学タームを、どの女子が知っているというのか!)。マンガの物語の中で何度もブンガクが参照される。



男子向けマンガの物語はいつも大きいし、目指すものは具体的だ。「不条理マンガ」「ギャグマンガ」の流れがそれに揺さぶりをかけるまで、男子マンガはモダニズムのなかに眠っていた。
女子向けマンガの物語は小さく(小さいながらもそれがどんどん積み重なり男子マンガ化することはあるとは言え、マンガが連載という形をとる以上それは仕方のないことなのだ)、目指すものはわかりにくいないしは単に反復される。
目指されるものはもしかしたら「幸せ」というやつなのかもしれないけど、でもじゃあ「幸せ」ってなんだ?



というようなことを書く欲望も、実は男子的で、実際はマンガがそこにあるわけで、みんな買ってサッと読めば笑えて衝撃も受けられる、というマンガの可能性・スゴさに思わず嫉妬してしまう。



追記1:また『脳内ポイズンベリー』一話で呟かれる「ああ どうしよう 頭の中が 大騒ぎだ」といういちこのセリフに、我々は思わずクスリとするが、ロシア文学の徒はゾクッとする感覚を背中に覚える。ゴーゴリだ! 慣用句が比喩を飛び越え現実化してしまう。

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