投稿

4月, 2017の投稿を表示しています

谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』

谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』(理想社、1990)

 ソロヴィヨフ思想(とりわけ初期)をめぐる論考として、非常にレベルの高いものを読みました。谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』です。そのレベルの高さには、大きく3つの側面があると考えられます。①初期ソロヴィヨフ思想の包括的論考になっていること。②誠実さ。③圧倒的な原典根拠。

 ①について。論はソロヴィヨフの思想形成から認識論的側面・存在論的側面、さらには宗教をめぐる議論へと、ソロヴィヨフの思考を追いかけていくように、無駄なくかつ漏れなく丹念に語られるように思われます。②について。誠実さといういささか誠実でない言葉で私が言おうとするのは、むしろ谷からソロヴィヨフに向けられた敬意と言い換えるのが適当でしょう。谷は、ソロヴィヨフの一見「矛盾」と思われる言説をこまやかな手つきで取りだします。谷の誠意を私が感じるのは、彼女自身言明しているように、その際に独断的な価値判断でその「矛盾」らしきものを片付けまいとする姿勢です。「矛盾」らしきものを、まずはいったんそのまま取りだしてみること。「矛盾」には「矛盾」であるだけの理由があると仮定してみること。そこには谷の、ソロヴィヨフに向けられた信頼と敬意があります。文体に耽溺する批評=エッセイがありあまるほど世の中に存在する中で、この「敬意」がどれほど稀少なものか。そして驚くべきことに、その「矛盾」からこそソロヴィヨフという思想家の本質が露わになってゆくのです。③については、これは本文を読んでいただくしかありませんが、多いところでは誇張ではなく本当に一行一行に引用があり、出典表記が附されています。これも称賛されてしかるべきことでしょう。①③に関しては、確かにアカデミックな論文であれば、そうあって当然の事柄かもしれません。ただ②に関しては、著者の素質としか言いようのない優れた点だと言えます。

◆1。◆ 『ソロヴィヨフの哲学』という単純といえば単純に過ぎる題をもつこの初期ソロヴィヨフ論は、1853年から1900年までのロシアを生きた哲学者の、1881年までの思想を扱う。だから、ソロヴィヨフの全思索のほぼ半分と言っていい。E.トルベツコイの区分によれば、ソロヴィヨフの「準備期」にあたり、ラドロフの区分では「修行時代」「遍歴時代」と呼ばれていて[I-5]、谷はこの時期こそソロヴィヨフがその思想を確立した…

セルゲイ・ロズニーツァ(インタビュー)

20170511追記:表記を「ロズニーツァ」に改めました。

セルゲイ・ロズニーツァ(Сергей Лозница, Sergei Loznitsa;表記はローズニッツァ、ロズニッツァ、ロズニツァなど)はベラルーシ生まれ、現在はドイツ在住の映画監督。
作品については、詳しく書いてらっしゃる方がいるので、こちらを一読すると良いと思います。 http://d.hatena.ne.jp/pop1280/20140617/1403011444
劇映画としては『わたしの幸福』(Счастье мое、2010)や『霧のなか』(В тумане、2012)などを撮っていて、カンヌに出品されている。
2016年作『アウステルリッツ』を中心としたインタビューを翻訳しました。『アウステルリッツ』は、ナチスの強制収容所があった土地を訪れる観光客をテーマにしたドキュメンタリー作品。
2017年カンヌに正式出品された『やさしい女』についてもちょっとだけ触れています。
以下からどうぞ。
https://note.mu/pokayanie/n/n257d85b1dc32

文字26

私たちは、人間であることにひどく疲れてしまったのではないだろうか、ということを最近特に思う。知とは、個的な経験を抽象化・普遍化する挙措だと思うのだけれど、これはとても労力がいる。とてもめんどくさいのだ。

民衆からしてみれば、目の前にある聖像を神に見立ててひたむきに祈ってみせることは簡単で、それ以上のことは必要ないように思う。あとこれは別の話だけれど、星を見上げれば普通は天のほうが動いているように見える。しかし知が拡散する、知が人類というレベルで共有されるためには、「三位一体」とか「地動説」とかいうわけのわからない複雑怪奇な論説が必要とされたのだった。知は論争だったから、相手を言い負かすために論理を組み立てておく必要があった。

だから知は、異質なものとの遭遇の準備でもあった。もちろん、その結果として歴史上ではしばしば武力をもって衝突が起きてしまったわけだけれど、少なくとも異質なものと交渉せずにいることは不可能に近いことだったし、そのための準備は武力とともに知がおこなっていた。

知に飽きてしまった。知の要求するレベルに息切れを起こしてしまった。そんなところではないだろうか。知を維持していく気力も、気概もなければ、外に出ていく勇気もない。あくまでこのまま個であって、個のうちで理解されていればいい。その結末は、歴史が示す通り、共同体の死であり、それが全人類規模で起こるのだとすれば、ひとの死に他ならない。

隕石でも、火山の大噴火でもなく、大地震でもなく、まさかこんなに静かに、人間が人間でなくなることで、ひとはなくなってゆく。だって学問を失った人間が、いったい何ものでありえるだろう。
人間であることを要求することがこんなに困難になってしまったときに、いったいどうやって人間であり続けていけばよいのだろう。