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私たちは、人間であることにひどく疲れてしまったのではないだろうか、ということを最近特に思う。知とは、個的な経験を抽象化・普遍化する挙措だと思うのだけれど、これはとても労力がいる。とてもめんどくさいのだ。

民衆からしてみれば、目の前にある聖像を神に見立ててひたむきに祈ってみせることは簡単で、それ以上のことは必要ないように思う。あとこれは別の話だけれど、星を見上げれば普通は天のほうが動いているように見える。しかし知が拡散する、知が人類というレベルで共有されるためには、「三位一体」とか「地動説」とかいうわけのわからない複雑怪奇な論説が必要とされたのだった。知は論争だったから、相手を言い負かすために論理を組み立てておく必要があった。

だから知は、異質なものとの遭遇の準備でもあった。もちろん、その結果として歴史上ではしばしば武力をもって衝突が起きてしまったわけだけれど、少なくとも異質なものと交渉せずにいることは不可能に近いことだったし、そのための準備は武力とともに知がおこなっていた。

知に飽きてしまった。知の要求するレベルに息切れを起こしてしまった。そんなところではないだろうか。知を維持していく気力も、気概もなければ、外に出ていく勇気もない。あくまでこのまま個であって、個のうちで理解されていればいい。その結末は、歴史が示す通り、共同体の死であり、それが全人類規模で起こるのだとすれば、ひとの死に他ならない。

隕石でも、火山の大噴火でもなく、大地震でもなく、まさかこんなに静かに、人間が人間でなくなることで、ひとはなくなってゆく。だって学問を失った人間が、いったい何ものでありえるだろう。
人間であることを要求することがこんなに困難になってしまったときに、いったいどうやって人間であり続けていけばよいのだろう。

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