【移転します】ブログの移転について

工藤順のウェブサイトを以下に開設しました。今後はこちらをメインに使っていきますので、フォローをお願いします。


このbloggerも、大学時代に考えていたことの記録として、当分のあいだ残しておく予定ですが、更新はしません。

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2011年から使っていたツイッターをやめることに決めたことがきっかけとなり、いいタイミングかなと思い、ブログも一区切りしてみることにしました。

ツイッターに関しては、人とくらべたらかなり距離を置き、依存しない程度に使っていたつもりですが、特に最近、ツイッターというメディアの悪いところばかりが目につくようになり、実際の使用時間とは関係なく、結局「ツイッターについて考えている時間」が多くなっていました。これが非常に不毛であり、精神的にも悪い状況であると考え、ツイッターを離脱することを決めました。そもそも何かwebサービスをやめることに関しては、まったくなんの躊躇も要らないはずなのに、ネットワーキングができてしまっていることで、どうにもやめづらい状況をつくっているというのがまた、SNSの特徴でもあるのですね。

ツイッターをやめるにあたっては、印象的な2つの出来事がありました。

まず、戸田真琴さんの以下のnoteの記事です。特に補足はしませんので、一読していただきたいと思います。

もう一つは、マルセル・プルーストという小説家の『失われた時を求めて』を読みはじめたことです。学生のころに、「読まねばならない」という強迫観念に追われるように冒頭を一読し、そしてすぐ放棄したのち、きっと一生読まないのだろうなと思ってさえいたのですが、先日本当に偶然のことでしたが、高遠弘美さんの光文社古典新訳文庫での翻訳の第1巻を読みはじめたところ、ページを繰る手が止められなくなってしまいました。こういうタイミングが、人生にはやってくるものなのですね。この本を読むにあたり、プロットは本当にどうでも良い。むしろ、文章そのものの色香…匂い出てくるとしか表現のしようがない、あまりにも豊かな表現の数かずを追っていくことの愉悦に、わたしは「文学」とその力を再発見でき、かれらへの絶対的な信頼の感覚を思い出すことができました。とても幸福な人間だと、わたしは自分自身について思いながら、この長い本を楽しんでいます。こうした圧倒的な表現の前に、140字の文章とは、その「表現」とはいったい何なのだろう、と思ったのでした。プルーストを前に、140字でそもそも何か語れると思うことは傲慢に近いとは思いませんか。

などなど。あとは、東浩紀さんがツイッターをやめられたり、様々な契機があり、こういう結論に至りました。

結局、元に戻るだけなので心配してくださらなくても大丈夫ですし、なんとかやっていけるんだろうと思っています。一言で言えば、自分が人間を信頼し続けていけるために、私はツイッターをやめたいと思ったということです。まだ人間を諦めません。共謀しましょう。これからも、迷いつづける私をどうぞよろしくお願いします。

まずは、『チェヴェングール』の翻訳を地道に進めています。刮目されよ。

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