07 5月 2011

ローベルト・ムジール『特性のない男』

だからなんだよ。


まるまる一ヶ月ほどかけて読み通した。
この本を手にする者の最初の関門であるところの第一部第1章からしてもう閉口しそうになるのを押さえながら読み始めた。
この本ほど読むのがきつかった小説は今までに読んだことがなかった。大西巨人「神聖喜劇」は高一の時に「入学記念」として図書館で読んだ経験があるが、しかし話自体が非常に面白かったので、高校生であってもさほど苦労はなく読めた気がする。
しかしムジール(表記は手元の訳書に従う)は。晦渋な文章、日常のあらゆることに対する偏執、子細なことに何百もの単語を費やす律儀さ、実感がわかないこと、などすべての要素が相まってこの本を読みにくくしている。

まず「特性のなさ」を把握するのに苦労する。(一応の)主人公ウルリヒには、我々が今、現代的意味において認識しうる「特性」というものを持っているように、一見して思われる。しかし我々の言うそれはいわば「個性」として認識しなければならないのであって、「特性(Eigenschaft;英語で言うqualities)」とは、また別物であるようだ、ということがだんだんにわかってくる。
「・・・特性をもつということは、その特性のもつ現実性へのある歓びを前提とする以上、自分に対してさえ何の現実感覚も感じない人間が、ある日突然に、自分は特性のない男なのだと自覚する・・・」(<Ⅰ>第一部第4)
「現実感覚」に対しては「可能性感覚」が語られる。

「・・・それは可能な現実[=まだ生まれない現実]にたいする感覚なのであって、たいていの人間に属している現実的な可能性にたいする感覚よりも、はるかにゆっくりと目標に到達する。」(;[]内は工藤による挿入) 

つまり、要約を許してもらえるならば、現実問題よりも可能性の問題(現実から乖離した問題でなく、現実の延長線上にありうべき問題)について重きを置くある種の(「優性」の)”理想家”が、この場合ムジールのいう「特性のなさ」なのではないだろうか。「(現実的;社会的)特性」と補ってもいいかもしれない。(複数形になっているのが気になるが。)

ムジールの難解さは、私がここまで書いても、私自身にとっても結局何のことを言いたいのかさっぱりわからないという点にある。


この本は、社会的・思想的な小説である割に(だからこそ?)即効性を持たない。即効性(「わかる」感;現代的意味;決して否定的な意味でなく)を求めるならば、私は迷わず同時代のカフカ、ニーチェを選ぶだろう。

優雅な冗長。登場人物たちは滔々と、饒舌に語り続けるのである。思想を垂れ流し、言葉によって小説を制圧していくようにさえ思われる。しかし終始「なにもおこらない」。この意義はどこに求められるのだろう。
第二部でゲーテ「ヴィルヘルム・マイスター」からの引用だという言葉がアルンハイムの口から語られる。
「実行するためには考えよ、考えるためには、実行せよ!」(<Ⅲ>第二部112)
まさにこれを地でいく主人公たち。小説の中で、永遠にこの円環構造から抜け出さないのである。

しかし、よく考えてみるとこれが小説の内部に埋め込まれていることに何か大きな意味があるのではないかと思うようになった。
私にはムジールが見えなくなった。優雅に椅子に座り言葉を書き綴る貴族というイメージは崩さざるを得なかった。むしろ言葉をまき散らし紙を陵辱するモースブルッガーとしてのムジール!!

結局のところよくわからない。未完の作品であるし、登場人物のしゃべる思想も、ムジール本人も、私にはわからない。この小説に意味があるのか、冗長なだけなのかも判断がつかない。作品全体を「()」でくくることも読みようによってはできないことでもない。
頭が痛くなってきた。
だから今のところは「だから、なんだよ」で安易に処理しておこうと思う。18歳の現在、この作品が私にとって何かの意味を持つことはないだろう。

最後に一文だけ引用して終わりたい。
「世界を説明したり理解することを自慢の種にしている人間は、世界の何かを変えることは決してないだろう・・・」(<Ⅳ>第三部26)


 


Robert Musil ”Der Mann ohne Eigenschaften”(1958)
ローベルト・ムジール『特性のない男』高橋義孝・圓子修平・浜川祥枝・森田弘・伊藤利男・高本研一訳、1964-66、新潮社
*とりあえず定稿とされる<Ⅴ巻>第三部55章までを読んだ。

26 4月 2011

ヴィターリー・カネフスキー『ぼくら、20世紀の子供たち』

爽快な後味の悪さ


これで日本公開作3作をすべて観たことになる。
動くな、死ね、甦れ!は2回観た。何回でもみたくなる傑作。

カネフスキーの作品は、最後の衝撃がものすごい。
中盤までの「牧歌的」とさえ表現できるような純真さ(子役が天才的である)が、最後五分で地獄に突き落とされる。
それを可能にしているのは、レンズのこちら側から覗き込むカネフスキーの冷徹な目線であるのは明らかだが、このぼくら、20世紀の子供たちは「純真さ」と
「殺人者」の二面性で揺れ動くカネフスキーをそのままに観ることができた点で、すごく
面白かった。


カネフスキーは、どうしようもなく「純真」に、非行少年らに質問を投げかける。
「自殺はどうなのか」
「人肉は食べたことあるのか」
「知ってる歌はないか」
モラルすれすれの質問をどうしようもなく当たり前に投げかけていくカネフスキーは、実は計算なしにただただ知りたいことを聞きたいように聞いてるだけなのではないか。実は彼自身が非行少年そのものなのではないか。

などと浅はかな観客(わたし)は(ある程度)温かく見守る。「おいおいやりすぎちゃいかんよ」などと"良識ある市民"ぶる。しかし騙されてはいけなかったのだ。美しいバラライカの音色、歌でつながれた少年らの物語、元子役たちとの感動の再会の向こうに、カネフスキーは途方もなく冷徹な現実を用意していたのだ。

「この世で最も崇高な理想のために実の父を殺せるか」 。これが今回この作品に用意された「地獄」であり「現実」なのだった。


カネフスキーの作品に救いはない。救いを求めてはいけないのだ。そして私たち"良識ある市民"を精神の根底から殺害する。それがカネフスキー作品のもつ強さだ。




Виталий Каневский "Nous, Les Enfants Du XXeme Siecle"(1993)