ヴィターリー・カネフスキー『ぼくら、20世紀の子供たち』

爽快な後味の悪さ


これで日本公開作3作をすべて観たことになる。
動くな、死ね、甦れ!は2回観た。何回でもみたくなる傑作。

カネフスキーの作品は、最後の衝撃がものすごい。
中盤までの「牧歌的」とさえ表現できるような純真さ(子役が天才的である)が、最後五分で地獄に突き落とされる。
それを可能にしているのは、レンズのこちら側から覗き込むカネフスキーの冷徹な目線であるのは明らかだが、このぼくら、20世紀の子供たちは「純真さ」と
「殺人者」の二面性で揺れ動くカネフスキーをそのままに観ることができた点で、すごく
面白かった。


カネフスキーは、どうしようもなく「純真」に、非行少年らに質問を投げかける。
「自殺はどうなのか」
「人肉は食べたことあるのか」
「知ってる歌はないか」
モラルすれすれの質問をどうしようもなく当たり前に投げかけていくカネフスキーは、実は計算なしにただただ知りたいことを聞きたいように聞いてるだけなのではないか。実は彼自身が非行少年そのものなのではないか。

などと浅はかな観客(わたし)は(ある程度)温かく見守る。「おいおいやりすぎちゃいかんよ」などと"良識ある市民"ぶる。しかし騙されてはいけなかったのだ。美しいバラライカの音色、歌でつながれた少年らの物語、元子役たちとの感動の再会の向こうに、カネフスキーは途方もなく冷徹な現実を用意していたのだ。

「この世で最も崇高な理想のために実の父を殺せるか」 。これが今回この作品に用意された「地獄」であり「現実」なのだった。


カネフスキーの作品に救いはない。救いを求めてはいけないのだ。そして私たち"良識ある市民"を精神の根底から殺害する。それがカネフスキー作品のもつ強さだ。




Виталий Каневский "Nous, Les Enfants Du XXeme Siecle"(1993)

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