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スーザン・バック-モース『夢の世界とカタストロフィ』

射程の広い本だ。 わたし自身は、ロシア・アヴァンギャルドの文脈からこの本を知ったのだが、その範疇には決して留まらない。というよりもむしろこの本のテーマそのものが「越境性」であるように思われる以上、これは当然のことだろう。 著者バック-モースは、マルクス主義のバックボーンを下敷きにして、「東」と「西」との共通点を見いだそうとするばかりか、自分自身をその歴史上に文脈づけて自ら「橋」になろうとする。 「マルクス主義のバックボーン」、と聞いてわたしと同じように若干戸惑う人もいるかもしれない。しかし、何か言説をしようとする際に何かに頼らずに言説を行うことが、一体可能だろうか。芸術を語る際にいくらかの政治性を帯びるのは、現代において避けられない。ましてやアヴァンギャルドという、政治と芸術の蜜月期を扱う本である。何らかの政治性は当然賦与されるものである。 この厚い本を読むのは楽しみ以外の何ものでもなく、この「本を"ひもとく"感触」、その心地よさを久しぶりに味わった気がした。 まずは構成の実験性が目を惹く。 第Ⅰ章「政治の枠組み」では、テクストが上下で2部に分かれている。テクストと、そこから派生し分岐したハイパーテクストである。 また数多くの図像(それは「理解を助ける」態のものではなく、完全に「テクスト自体」なのだが)や、第Ⅵ章「ライブの時間/歴史の時間」と題されたバック-モース個人のヒストリー、圧巻の注釈の量、などがこの書を異形のものにしている。 第Ⅰ部は、政治理論の部である。ここでは「経済と政治の分離」の問題、「国民国家=空間、階級闘争=時間」論など興味深い論が示される。 第Ⅱ部は、大きく言えば「モニュメント」についての部であると言える。「不滅性」を現実の相に転写すること。「芸術」→「生活」へ。「新しい人間」。ミイラになった「レーニン」。アヴァンギャルドの芸術家の前に、そもそも政権側が相当ぶっ飛んでいたこと(「不死化委員会」)。 第Ⅲ部は最も壮観な部だ。現代美術家(カバコフ、ソコフ、プリゴフ)とアヴァンギャルドが交錯し、アヴァンギャルドの最も「共産主義的」である部分はアメリカの最も「資本主義的」である部分と共鳴し、ヴァルター・ベンヤミンの言葉が交錯点を示す光となる。新しい身体(リシツキー、ガスチェフ、ヴァジム・シドゥール)、新しい建

フレデリック・ワイズマン『最後の手紙』

最近見た映画の中では一番良かった。号泣した。 原作は、最近浩瀚な翻訳が出たワシーリー・グロスマン『運命と人生』(みすず書房、2012)。 この映画の主人公は、とそこから恐らく書き始めなければならない。主人公は老女、あるいは老女の2人、あるいは5人、または複数である。画面には年老いた女が一人いるだけである。しかし光が彼女の身体に当たり、壁に影が投げかけられると影は即座に語り始めるのである。それは最初は影と老女の2人なのだが、次第に増殖し5人、7人、あるいはそれ以上になる。そしてそれは彼女と影が存在を「分配」するのでは決してなく、存在が複数化し、倍増するのである。 それは、その存在感はそれを見るものである1人の(1つの視線しか持たない)わたしを強さでもって圧倒する。 さらにカメラがクローズアップすると、彼女の眼が、鼻が、皺が語りだす。何と雄弁であることか。 そしてもう一つ注目するべき点は、本の力だ。ゲットーという最低の状況でも本を読みつづけること。フランス語を学ぶこと。そしてそもそもこの映画の起点である「手紙を書く/読む」こと。それが極限の状況において最後の支えになるのだった。その支えがなければそもそも人間であることさえ可能かどうか? こういう事態は、文学をやるものとして大きな感銘を受けざるを得ないし、「ブンガク」というものが存在するかどうかもわからないけれども、なにかそこに「(他人によって)書かれたもの」が存在するということ、ただそれだけのことが人間にとってここまで大きなものなのだと思うと、その営みに崇高ささえ感じてしまう。 この映画は、絶対に、たぶん、フィクションである。ドキュメンタリー映画監督ワイズマンには珍しいことだが、これは「絶対に」フィクションである。そのフィクション性は、ダヴィデの星を身につけた(コスチュームというにはあまりにシンプルな)コスチューム、映画のカメラの前で再現されていること、原作が存在することによって明らかであって、このためにこの映画は「絶対な」フィクションである。 しかし同時にこの映画は「たぶん」フィクションであり、フィクションでない。 「希望の少ない人ほど善人だ」「どんな言葉もわたしの愛を言い表せない」、そして究極的に最後の最後、「生きて!生きて!」の叫び。老女の眼にある涙、そこにあるものはあらゆるニヒルを乗り越

フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』

底 最近やっとトリュフォーの『大人は判ってくれない』を見たのだけど、つまんなかった。 『動くな、死ね、甦れ!』 がよくこれと比較されて言われるので、期待していたのだが。 何が違うのかと言うと、底が違うのではないだろうか。 『大人は〜』では、どこまで落ちても、父、母、親友、最後の最後には鑑別所が、「底」となってドワネル少年を支えつづける。最後に完全に一人になって海を目指すのだが、所詮どこまで言っても「底」は抜けないのだ。 ところが『動くな〜』にはそもそも「底」がない。無底の映画だ。ワレルカは全くのゼロの状態にいるのだが、映画が進行するに連れて、そのただでさえない「底」を、マイナスのほうへさらに掘り下げようとする。ワレルカだけではなく登場人物全員が。それは当然のことながら痛みを伴う。そして「底」の底には私たちが、第三者を装って澄ました顔で座っている。「底」を突き崩し自壊していく痛みは直接観客である私に突き刺さり、その映画経験を唯一無二のものにする。その痛みの点で。 (*ただし「天使」として想定されたガーリャだけは「底なし」の人々の中で異彩を放ち、周囲に光を投げかけるのだが、最悪な形で死んでしまう。) 『動くな、死ね、甦れ!』を言語化する手だてを、初見時、たしか4年くらい前から、探している。私には適切な言い表し方が未だにわからない。こうやってその時々に話せることを話せるだけ話していくしかないのだろうなとは思っている。 François Truffaut"Les Quatre Cents Coups"(1959)

ミクニヤナイハラプロジェクト『静かな一日』

「かもね」の劇 あり得たかもしれない「かもね」は常に過剰にあるのだが、私はその中で特別選ぶこともせずあるひとつの「かもね」を生きている。ほかの「かもね」はないのだ。なぜならある「かもね」、わたしのこの「かもね」が嫌で、他の「かもね」を切望するとしても、その「かもね」に到達した時点でその「かもね」自身が私の、忌むべき、一つしかないという性質ゆえにほかの「かもね」より過剰に「重く」思われるような「かもね」になり、他の「かもね」は他の無限さに移り変わって無限の他の「かもね」を形作ってしまうからだ。 私の、この一つしかない(ように思われるような)「かもね」は確かに、その「かもね」であること、その一つの可能性しかないのだけれど、例えばアレルギーを起こしてみたり(蟹の甲羅)、ムカついてみたり(「ムカつく!!」)、愛情を込めて好きな人を殴ってみたり、究極的にただただ単純に「死にたくない!」と叫ぶこと。これらのことによってある唯一の「かもね」に対して圧倒的な違和感を表明したり、異議申し立てをすることは可能なのではないか。 私にとってこの「かもね」は絶対のように思われるけれども、その実、この「かもね」も無限にある「かもね」の一つに過ぎなかったのだった。 例えば「夢」または「現実」(「目を閉じてごらんなさい」/「目を開けてごらんなさい」)に見るイメージの氾濫のように、その「かもね」はある「かもしれない」し、ない「かもしれない」。たぶんどちらかと言えば「ない」かもしれない可能性の大きな「かもね」だ。 私の初めて見た矢内原美邦関係の舞台は、Nibrollの 『 This is Weather News』だったのだが、この時は、地震の直後であり、事態をまだ消化しきれていない中、「人が上から降ってきてゴミのようにたまる映像」などが表しているように、矢内原の地震を巡る不安定さを、むき出しのままこちらに突きつけていた気がする。わたしにはその経験が少し強すぎて(実際途中で席を立つ人もいた)、矢内原関係の舞台は遠慮していたのだけれども、今回のこの『静かな一日』はより抽象的になり、落ち着きを取り戻していたように思った。 日常であること、は地震のあとすでに当たり前のものではなくなってしまった。何気なく提示される「カレンダーの明日の予定」さえもなぜか不気味に思える。そういう「かもね」を生きる