フレデリック・ワイズマン『最後の手紙』

最近見た映画の中では一番良かった。号泣した。

原作は、最近浩瀚な翻訳が出たワシーリー・グロスマン『運命と人生』(みすず書房、2012)。

この映画の主人公は、とそこから恐らく書き始めなければならない。主人公は老女、あるいは老女の2人、あるいは5人、または複数である。画面には年老いた女が一人いるだけである。しかし光が彼女の身体に当たり、壁に影が投げかけられると影は即座に語り始めるのである。それは最初は影と老女の2人なのだが、次第に増殖し5人、7人、あるいはそれ以上になる。そしてそれは彼女と影が存在を「分配」するのでは決してなく、存在が複数化し、倍増するのである。
それは、その存在感はそれを見るものである1人の(1つの視線しか持たない)わたしを強さでもって圧倒する。
さらにカメラがクローズアップすると、彼女の眼が、鼻が、皺が語りだす。何と雄弁であることか。

そしてもう一つ注目するべき点は、本の力だ。ゲットーという最低の状況でも本を読みつづけること。フランス語を学ぶこと。そしてそもそもこの映画の起点である「手紙を書く/読む」こと。それが極限の状況において最後の支えになるのだった。その支えがなければそもそも人間であることさえ可能かどうか?
こういう事態は、文学をやるものとして大きな感銘を受けざるを得ないし、「ブンガク」というものが存在するかどうかもわからないけれども、なにかそこに「(他人によって)書かれたもの」が存在するということ、ただそれだけのことが人間にとってここまで大きなものなのだと思うと、その営みに崇高ささえ感じてしまう。

この映画は、絶対に、たぶん、フィクションである。ドキュメンタリー映画監督ワイズマンには珍しいことだが、これは「絶対に」フィクションである。そのフィクション性は、ダヴィデの星を身につけた(コスチュームというにはあまりにシンプルな)コスチューム、映画のカメラの前で再現されていること、原作が存在することによって明らかであって、このためにこの映画は「絶対な」フィクションである。
しかし同時にこの映画は「たぶん」フィクションであり、フィクションでない。
「希望の少ない人ほど善人だ」「どんな言葉もわたしの愛を言い表せない」、そして究極的に最後の最後、「生きて!生きて!」の叫び。老女の眼にある涙、そこにあるものはあらゆるニヒルを乗り越えて押し寄せる真実み以外の何だろうか。

こういう映画をみてしまうと、しかも自分で笑えるくらい涙を流してしまうと、曲がりなりにも自分が人間であることに思い至る。

Frederick Wiseman"La dernière lettre"(2002)
19.02.2013 @オーディトリウム渋谷、特集上映「「演劇」と映画館の『親密さ』」

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