フランソワ・トリュフォー『大人は判ってくれない』


最近やっとトリュフォーの『大人は判ってくれない』を見たのだけど、つまんなかった。
『動くな、死ね、甦れ!』 がよくこれと比較されて言われるので、期待していたのだが。

何が違うのかと言うと、底が違うのではないだろうか。
『大人は〜』では、どこまで落ちても、父、母、親友、最後の最後には鑑別所が、「底」となってドワネル少年を支えつづける。最後に完全に一人になって海を目指すのだが、所詮どこまで言っても「底」は抜けないのだ。
ところが『動くな〜』にはそもそも「底」がない。無底の映画だ。ワレルカは全くのゼロの状態にいるのだが、映画が進行するに連れて、そのただでさえない「底」を、マイナスのほうへさらに掘り下げようとする。ワレルカだけではなく登場人物全員が。それは当然のことながら痛みを伴う。そして「底」の底には私たちが、第三者を装って澄ました顔で座っている。「底」を突き崩し自壊していく痛みは直接観客である私に突き刺さり、その映画経験を唯一無二のものにする。その痛みの点で。
(*ただし「天使」として想定されたガーリャだけは「底なし」の人々の中で異彩を放ち、周囲に光を投げかけるのだが、最悪な形で死んでしまう。)

『動くな、死ね、甦れ!』を言語化する手だてを、初見時、たしか4年くらい前から、探している。私には適切な言い表し方が未だにわからない。こうやってその時々に話せることを話せるだけ話していくしかないのだろうなとは思っている。

François Truffaut"Les Quatre Cents Coups"(1959)

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