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『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半

(2)の後半です。
ハーモニーと美しさ 続いて3)目的について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。
前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「自由な遊び」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。
次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」という考えとも関係な…

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半

『判断力批判』を読む会、2回目です。
前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。
それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。

ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。

* * *
〜12/23 『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁)
まず目次を読む とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。 今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。 第一部「美学的判断力の批判」  第一篇「美学的判断力の分析論」   第一章「美の分析論」 「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。 今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。 お気づきでしょうか、ここに至るまで我々は「おそらく」「なのでしょう」「だと思います」などの…

イヴァン・ジダーノフの詩

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ロシアの現代詩人イヴァン・ジダーノフの詩を訳しました。
(初掲載:2014年3月9日、最終更新:2015年12月30日)
(あなたとぼくの隔たりは) あなたとぼくの隔たり 隔たりこそがあなたである
ぼくの前にあなたが立つとき どうしよう こうしようなど 考えながら
あなたの緘黙のかけらから あなたがぼくを組み立てるよう
あなたが見るのはかけらだけ 自分の全ては見やしない

鏡が あまりに多くを欲し 弾けてかけらになるように
(この欲が 自分を各方面の間諜(スパイ)にするのだ)
憂愁をまとう不幸な樹が その葉に生を終えてゆく
その量の多さでもって みなに風向きを予言するために

唄うために 弁解するために 黙りこみ みなに耳を傾けるため
飛行機が空中回転するように 静寂の平面で泳ぐために—
だが不幸なくるみは 森で彷徨う 
戦争が近づき 不眠に幽閉されているかのように

どこにあるんだ 掘っ立て小屋の天国は どんな盗人に荒らされているんだ
ぼくはあなたのために盲目だ あなたの手で目を潰されたのではあるが
ターバンのごとく 中身のない水が 悲しみに巻きついているが
内側は空っぽ 風のない日に帆など立たぬと同じこと

あなたの一部分として ぼくはあなたを嫉み 捜すのだ
あなたの中に日曜日を。 そして無事では済むまいと思う
ほら ぼくには見える 嫉みのように あなたが投石機を構えているのが
機関車の頭垢を 可哀想な木の葉から 払い落として

あなたに向けたぼくの仕草を あなたは繰り返しているようだ
死を知らない飛行のなかで 幻の鳥はその翼で
大きな心臓を捕まえる そして己の運命に抗わず
空に溶けこむ のではなくて 空に なる のだ

そうだ ぼくはあなたと隔りでもって繋がっている これは掟だ
真実とかあなたの気ままさを許すように 嫉妬心を許す掟だ
ぼくは死を知らない 屈服している間は だが屈服などするものか
なぜなら愛している 愛している 愛しているから

(こんな夜は) こんな夜は 選ばれはしない
親のない神が 夜に歩み出て
川はその岸に身を寄せる
世界に 光は 残されず
空は せいぜい足元をひたす
雨のシルエットくらいの 大きさしかない

そしてこの じめじめした街角は
そして腐りかけの葉のざわめきは
昏さの中でなく ぼくらの内に息づいている
ぼくらは覚えているだけで 見えるわけじゃ…

タルコフスキー・リスト

映画監督А. タルコフスキーが、自身の授業で学生に配布したと言われる必見映画のリスト、「タルコフスキー推薦映画リスト」を訳しました。
いまいち出どころがわからず、資料としての価値には?がつきますが、参考までに。ロシア語原文はこちらです→Список Тарковского на сайте Кино не для всех
日本でDVD未発売の場合は、英語(ないし原語)タイトルをつけました。

ルイス・ブニュエル
『アンダルシアの犬』『黄金時代』『忘れられた人々』『ビリディアナ』『皆殺しの天使』『昼顔』『糧なき土地』『小間使の日記』『ナサリン』

ロベール・ブレッソン
『田舎司祭の日記』『抵抗(レジスタンス)』『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『やさしい女』『たぶん悪魔が』

イングマール・ベルイマン
『不良少女モニカ』『道化師の夜(Sawdust and Tinsel)』『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』『悪魔の眼』『鏡の中の女(Face to Face)』『冬の光』『沈黙』『仮面/ペルソナ』『恥』『情熱(沈黙の島)(The passion of Anna)』『叫びとささやき』『狼の時刻』『ある結婚の風景』『蛇の卵』

ピエル・パオロ・パゾリーニ
『アッカトーネ』『奇跡の丘』

フェデリコ・フェリーニ
『道』『魂のジュリエッタ』『8 1/2』『サテリコン』『フェリーニの道化師』『フェリーニのアマルコルド』『カサノバ』

アラン・レネ
『二十四時間の情事』『ジュ・テーム、ジュ・テーム(Je t'aime, je t'aime)』

溝口健二
『雨月物語』『山椒大夫』

黒澤明
『羅生門』『七人の侍』『生きる』

勅使河原宏
『砂の女』

アルフレッド・ヒッチコック
『鳥』『サイコ』

ジャン・ルノワール
『ゲームの規則』『大いなる幻想』

ジャン=リュック・ゴダール
『小さな兵隊』『勝手にしやがれ』

カール・Th・ドライヤー
『裁かるゝジャンヌ』『吸血鬼』

ミケランジェロ・アントニオーニ
『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『中国(Chung Kuo, Cina)』 
アレクサンドル・ドヴジェンコ
『大地』

フリードリヒ・エルムレル
『Peasants(Крестьяне…

文字25(現代語の現代語訳シリーズ)

会いたさ、会いたさこそが、わたしを震わせるのでした
あなたを遠く感じるのは、わたしがあなたを想うからでしょうか
もう一度わたしとあなたであるわたしでいたいのですが
わたしの気持ちはいつも不着のままなのです
こころ、きもち、わたしの
(小池昌代訳「会いたくて 会いたくて」)



恋をしてしまったのです
あなたはたぶん気づいてはいないのでしょうけれど
星の夜にわたしは願います
櫻桃です ―
わたしの指があなたに送る便りは
(小池昌代訳「CHE.R.RY」)

新潟県立近代美術館における会田誠展について

帰省したついでに新潟県立近代美術館で2015年9月から11月まで開催されていた会田誠の個展「ま、Still Aliveってこーゆーこと」に行きましたが、肝っ玉の小さな展覧会でした。彼の展示があれだけ議論を呼んだ直後にやるということは、勇気のある決断なのかと思いきや、単に中止する勇気がなかっただけでは、と穿った見方をさせてしまうのも仕方のないことではないだろうか。

なぜかといえば、各作品の隣に配置された「ヒント」と名付けられたプレート、あるいは館によって展示室前に掲げられた前言などが鑑賞者に一つの見方を強いるからだ。それはつまり会田の「コンセプトを鑑賞者が適切に理解せず」(本当にこういうニュアンスでした)ポリティカルな見方が横行していること、会田が「コンセプチュアルアーティスト」(に過ぎぬの)であり、「ポリティカル」な見方は「誤読」(本当にこう書いてあった)であるということ、こういう主張に他ならない。

コンセプチュアルであることは即ちポリティカルでないことなのか?会田が創作の中心に据えているものは、あくまでもポリティカルなものが中心ではなかったか?

新潟県立近代美術館は、徹底的に会田の政治性を無害化し「コンセプト」としてだけ鑑賞させようとしているふうに思われた。しかし美術館の内部で完結する「コンセプト」になんの意味があるのか? というよりそうした形骸化したコンセプトをこそ会田は批判対象としていたのではなかっただろうか?
それは会田が意図しているであろう自作品の機能とオーバーラップされているが故に非常に巧妙かつ隠密であるが、まず第一に作者会田に失礼であり、そして鑑賞者に対しても失礼な計らいである。

勇気がない、失礼である、事態はおそらくそれだけに留まらない。美術という無限の解釈を可能にするべき領域で一つの見方を強いることは暴力に他ならない。
美術館がある一人の作家と協働することを選択した場合には、作家に寄り添って可能な限り創作を扶けるべきだし、館として開催を決めた限りは展覧会に対する批判に対しては作家と共に共闘するべきではないかとわたしは思う。だから本来なら近代美術館には、こういったエクスキューズなしで勝負してもらいたかった。作家とともに鑑賞者を挑発することを妨げるべきではなかった。ただ同時に、新潟(ごとき)の県立美術館(ごとき)にこんなことを求めるのは無理のある話だ…

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(1)

私事ですが、うまくいけば9月に大学を卒業し、来年4月の就業までニートとして研鑽を積むことになっています。
そこで卒業前に何か一冊、自分だけでは読めない本を読もうじゃないか、と最愛の友人N(イタリア語専攻)に話を持ちかけ、何を読むかとなったときに、我々の頭に浮かんできたのが当然(でもないか)イマヌエル・カントとその著作だったというわけです。彼についてほとんど何も知らない我々にも当然彼の著作の名前は刷り込まれていました。ご存知の通りそれが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の3著作です。我々は哲学プロパーではありません。二人とも文学専攻(私はロシア現代詩、Nはイタリア現代文学)です。そうしたことを考慮すると、やはり我々が話題として身近に感じる、ひいては理解しやすいのは何より『判断力批判』であろうという結論に至りました。それは9月2日の夜、紀伊国屋書店新宿本店での出来事でした(ちなみに書店に行く前に飽きるまで焼肉を食い、新宿に行き、そこから渋谷まで歩いて渋谷wwwでのトーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映会に参加しました、そしてそれは最高だったのです・・・というのは全く関係のない話ですが)。

ということで、我々は範囲を決めて、大体一週間間隔で読み合わせを行う(そして焼肉を食う)という、いわゆる読書会を始めることにしました。以上に述べた事情から、課題図書はイマヌエル・カント『判断力批判』(上下巻、篠田英雄訳、岩波文庫、1964;2013)ということに決めました。

ただし、ただの読書会というのはつまらない、二人揃って唯一絶対たるカノンとしての1を生み出す作業など(時にはそれも有用でしょうが)、やはりありきたりであり、つまらない。何より悪い生徒である我々自身が飽きてしまう。ということで、Nには無断でこのブログ上で進捗状況をアップしていくことにしようかと思います。この場では工藤が記事を書くにもかかわらず、人称に「我々」を使おうかと思っています。哲学科の生徒にはできない不真面目さと独断で『判断力批判』を読む、そして頭の中を報告に付すことで、議論を不特定多数の海とも山ともつかぬ場所へ放り出してみる、それが我々の目指すところです。

第一回目の今回は上巻の67頁まで、序言と序論を読みます。

* * *
9/3-6(読み合わせ会は9/8) 『判断力批判…

ヴィクトル・ソスノーラの詩

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鐘 私が沈みゆくとき、夢に出てくるのは、ローマの鐘なのです、
耳から泡が立ちのぼり、ガラスの球たちを揺らめかせ、
泳ぎ歌うは音楽魚ども、
その耳鋭く、ことば喉をこじ開け、
私は口に出して言おう、ローマが沈んでゆくと、
柱廊が、競馬場が、劇場が、市場が、浴場が、
台座としての広場とそこに立つ家々が、
彫像が、別荘が、庭園が、図書館が、
馬たちが、トランペットが、雄弁家たちが、追放者名簿が、
カンピドリオの丘が沈みゆく、蛸にぐるぐるに巻かれて、
トーガが、属州が、水道橋が、テヴェレ川が、—
そしてとうとう世界が暗闇に包まれ、音は消え、水に沈み、
私はひとり沈んでゆく、そして耳の中に何やら汽笛が響いている。


*Соснора, Виктор Александрович (1936-)

ウラジーミル・マヤコフスキーの詩

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*実を言えばマヤコフスキーを訳すのは初めての経験です。小笠原訳と見比べて誤訳を見つけることに汲々とするのが、正しい読者による正しい楽しみ方です。

セルゲイ・エセーニンへ(1926) あなたは行ってしまった
 ひとが言うように
  あの世へと。
虚しい・・・
 飛んで行ってください、星々の中へ、飛び込んで。
きみにはなんの貸しもない
 酒代さえも。
素面だ。
違うさ、エセーニン、
 これは
  おちょくってるんじゃない。
喉には
 苦々しい嗚咽がある
  嘲り笑いなんかじゃない。
ぼくには見える
 切り裂かれた手でゆっくりと
自分の
 骨を
  袋に入れてあなたがカチャカチャ揺らしているのが。
もうやめてください!
 やめて! 
  正気ですか?
両頬を
 死の白墨が
  濡らすがままにしておくんですか?!
あなたはだって
 あんなに
  すごいことを言葉にして吐き出していたのに
この世の
 他の誰一人だって
  言葉にできなかったようなことを。
どうして?
 なぜなのですか?
  わからなくて打ちのめされてしまう。
批評家どもはぼそぼそ言っている
 「あいつは罪つくりだ」と。
そうかな・・・
 でもそれは・・・
  でも一番の問題は
   繋ぎとめるものが少なかったこと
その結果として
 ビールやらワインの暴飲だった。
ひとは言う、あなたは  放蕩生活を
  高踏な生活に変えるべきだったのに、と
高踏さこそがあの人に良いように働いて
  馬鹿げたことには至らず済んだだろうに、と。
そうかい、高踏な生活って言うけど
 じゃあそれは渇きを
  クワスで満たしてくれるもんなのか? 高踏な生活だって おんなじように
 酔っ払うのに目がないじゃないか。
あなたのところに
 汗っかきどものうちの誰かが
  寄ってって
生活費でも
 もっともっとたっぷりと
  恵んであげるようにすりゃよかったのに、と
そうすればあなたは
  一日に
   100行ずつも
    書き上げたろうに
退屈で
 長い長い
  ドローニンみたいな詩行をな、とのたまう。
ぼくに言わせれば
 そんな戯けたことが
  ほんとにあったとしたら
もっと早く
 自殺することになったでしょうね。
ウォトカのせいで
 死んだほうがまだましさ
退屈のせいで死ぬよりは!
ぼくらには
 死因が
  定かではない
縄で首を絞…

ゲンナージイ・アイギの詩

初公開:2014年1月28日 更新:2015年8月10日 いまではいつも雪が(1978) n.b.に 雪のように あることである「神」 そして 雪があること があること あることである 魂が あるときに
雪 魂 そして 光 こういうものはぜんぶ 死のようにある者たちのように それらもまたあるということに過ぎない
そこにもあると 認めること 闇の世界にも ある があること またもや雪が降る時には 「アァ神サママタユキガ」 あるということが どうしてありうるのか
実際のところ ないのだ 死体のように あり かつ ないものなのだ
あぁ 「ハリボテ=国家」というものがある 疑いの余地なく あるのだ 「国民」が ない ことを意味する ことばなのならば
では ある とはいったい何なのか そのせいで ここに これがあるような あるとは そして 「貌」はあたかもただ 「闇と貌」の国だけがあるような そんなハリボテなのだ
「時代—そんな—死体」
ひとつの ある ことがある それはつまり ない ことでもあるが アァ、神サマ、マタ、ユキガ! あるものがあるように それらは ない ただ「死にみの国」であるに過ぎない
あり かつ ない ことがこうして ある そしてただこのために ある だが ただただ ある ことである
魔法で起きたかのように 一瞬 竜巻がある 「死性の国」はなくなる あぁ神さままた雪が 魂 雪 そして 光
あぁ神さままた雪が
それらがないこと があること であれ 雪だ わが友 雪だ

青山真治演出『ワーニャおじさん』

2014年12月21日に、笹塚ファクトリーで上演された青山真治演出による『ワーニャおじさん』についての感想文です。
感想をまとめる時宜を失したままでしたので(工藤の怠惰のせいです)、上演後友人に送ったメッセージを編集しながら転載します。いまさらですが。

2014年12月22日
00:24 青山真治の『ワーニャ』、最高!ではないけど、みて良かった感じ。どうしてもマールイ劇場(ペテルブルグ)のと比べてしまうから酷な話ではあるけど

00:24 いま『ワーニャ』をやるとしたらソーニャが強くなきゃいけない、という認識は青山も持っていて、でもその強さの表れ方がすごく日本っぽくて

00:24 ロシア人ver.だとソーニャに弱いんだけど強がってる感じが出てて、それはそれで泣けるんだけど、青山の演出だとソーニャがまるでロボットみたいな喋り方をするんです。日常にすっごい耐えて耐えているうちに感情を殺すことを覚えてしまった感じの。

00:24 それで最後にその殺していた感情のストッパーが外れてワーニャの頭を足で蹴るシーンがあった、そこに彼女の全部の感情を持っていってて、すごくよかった。

00:25 ワーニャの役者もすごくうまかったよ。ソーニャと同じく日常で抱え込んでしまった不甲斐ない思いをすべて語尾に「〜(笑)」をつけてなんとか慣れようとする感じの喋り方で、これが、うまかった。

00:25 日本でいま上演するに際してよく練られた感情の出し方だったと思う。日常に耐えて耐えてついにはその歪みに耐えられなくなって精神病的なやり方ですべてを吐き出してしまう。

00:25 それで、SFっていうのは心配してたより前面に出てはなかったんだけど、でも「教授先生と新妻」は、異世界の惑星に降り立った地球人のようなものなのかな、とは思った。確かに衣装的にも、全員がツナギを着ている中でその二人だけは(ツナギを着てるけども)コートを羽織ったりレースをつけたりしている

00:27 「他者」の視点の提供者です

00:30 あとジンワリきたのが、最後の「そして、ゆっくり休むの。」みたいな台詞が、「息をつくの。」という訳になってて、生硬だなあとおもったけど、何度も聞いてるとそんなことはなくて

00:31 「息をつく」= 1,休憩する 2,息を尽く(死) 3,呼吸をする
の三段階の意味…

タルコフスキー×タルコフスキー

ほら 夏がやってきた
こんな夏はいままでなかったみたいで
日なたは暖かいのだけれど
ただ それでは足りない

起こりえたことはすべて
5本指の葉のように ぼくに
ぼくの手に真っ直ぐ落ちてきた
ただ それでは足りない

よくないことも よいことも
ただ徒に無駄になったのではない
すべては明るく輝いていた
ただ それでは足りない

生命が翼の下に連れていく
守って そして救ってくれた
ほんとうに ぼくは運がよかったのだ
ただ それでは足りない

葉に火は点けられず
枝は砕かれなかった
日は ガラスのように 洗われて

ただ それでは足りない


*息子のアンドレイの『ストーカー』(でしたっけ)で引用されていた父アルセーニイの詩篇です。

いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想

東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: http://raftweb.info/chekhov)。
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。

7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くと…

清竜人についてのメモランダム

友人に誘われて1/30、渋谷のO-EASTにて、グループイノウ、 the band apart、清竜人25が出演するイベントをみました。

グループイノウは最近はまっていて、もちろんすごく良かったのですが、それ以上に強い印象を残したのが清竜人25で、もうそれはポスト=アイドルのアイドルグループであるという一点に尽きるのですが。

清竜人といえば、あの凡庸な歌詞と非凡な自己プロデュースのミクスチュアである「痛いよ」みたいな楽曲(PV)でそもそもから名はあったわけで、プロデュースのされかた/しかたは、どこか中村一義とか初期七尾旅人風の、「触れると切れるような」系・サブカル/左に親和性のある天才・非凡さをフィーチャーする感じだったと思うのですが、歌詞をよく読んでみると、どちらかというと実は西野カナ系であり、十分にメインカルチャーである素地をもった人ではなかったでしょうか。

アルバムを出すたびに化けていって化けていって、ついに「アイドルグループ」に辿り着くわけですが、これは彼自身の「非凡な凡庸さ」とでもいうべきそういった素養を、うまく自己言及的で・いかにも際どいアイドルグループ、というかたちでうまく昇華し得た結果だと思います。というか彼の素質がそこまで導いた・そこに辿り至らざるを得なかった、という言い方が正確かもしれません。

清竜人本人をセンターとして、彼を「夫」、その他6人のメンバーを「妻(第○夫人)」とする発想は最高にイカれています。それをフェミニズムの視点から批判することは、例えばライバッハをシオニズム団体が批判するくらいセンスがないことです。だって最高にバカらしいじゃないですか。

観客はねじれた位置に置かれます。なぜならすでに最初から「恋愛可能性」が去勢されているからです。
アイドルグループ中興の祖AKBグループが、私的恋愛を禁ずるところにプロデュースの要を置くことで、オーディエンスとの「恋愛可能性」を措定し、「誰のものでもない女の子」を演じていたのと、それは正確に対応しています。
清竜人25という場で「逢いたい気持ちがあふれてるの」と歌われる時、逢いたさの対象とは、オーディエンスではあり得ず、ただ清竜人ひとりなのです。

そうしたねじれた関係性の劇場としてのアイドル、関係性の極北としてのアイドルである清竜人25なわけですが、アイドルについてこうしてことばを費やすことほ…

セルゲイ・エセーニンの詩

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シャガネ、ぼくの、シャガネ ぼくが北から来たせいでしょうか きみに野原のことを話そうと思うのです 月夜に波打つライ麦について シャガネ、ぼくの、シャガネ
ぼくが北から来たせいなのでしょうか あそこでは百倍も月が大きくて シーラーズもかくやというほどです リャザンの曠野ほどよいものはありません そう思うのは ぼくが北から来たせいなのでしょうか
きみに野原のことを話そうと思っています ぼくの髪はライ麦からもらってきたのです もしよければ 指にとって編んでください まったく痛くなどありませんから きみに野原のことを話そうと思うのです
月夜に波打つライ麦について ぼくの縮毛で占ってくれませんか 大切なひと、からかって、笑って でもぼくの中の思い出だけは呼び起こさないで 月夜に波打つライ麦の思い出だけは
シャガネ、ぼくの、シャガネ あそこ 北のほうにも 女の子がいるんです 怖いほどきみに似た女の子が もしかしたらぼくのことを想っているのかもしれません シャガネ、ぼくの、シャガネ
*シャガネはグルジア女性の名前



*(ある女性への手紙)覚えていますよね もちろん全部 あなたは覚えている ぼくがどんなふうに 壁に張りついて 立ちすくんでいたか いらいらしてあなたは部屋中歩き回って で なんだか尖ったものを ぼくに ぼくの顔にぶつけてきたのでした。 あなたは言っていましたね 「もう別れる頃合いだわ」と ぼくの気狂いじみた生き方が あなたをへとへとにしてしまうと あなたは仕事に取りかかる頃合いだと でも 遠く 下に 転がっていくのがぼくの宿命 愛しいひと! ぼくを愛してはくれませんでしたね。 知らなかったでしょうね、大衆の群れのなかじゃ ぼくは馬のよう 汗まみれでへとへとにさせられていたなんて 容赦ない馬乗りの 鞭を喰らって。 知らなかったでしょうね、 ぼくが 一面の靄のなか 嵐でばらばらになった日々のなかにいて 出来事の宿命がぼくらをどこに連れて行くか それがわからず 苦しんでいたことなんて。 顔と顔を突きあわせるのに お互いの顔を見ることができませんでした。
大きなものが 遠くに見えます。 真っ平らな海が 沸き立つときには 船は悲惨な状態に置かれるのです。 この世は船です! でも誰かがいきなり 新しくて生き方のため 新しい栄光のため 嵐と吹雪のど真ん中に 堂々と この世という船を進めていったのです。
さて ぼくらのうち 大きなデッキの上で 落ちもせず げろも吐かず 悪態も吐かなかったのは誰だったで…

オシープ・マンデリシュタームの詩



ただ 子どもの本だけを 読むこと

ただ 子どものもの思いだけを 慈しむこと

大きなものは すべて 遠くに吹き飛んでしまうこと

深い悲しみから 立ち上がること



わたしは人生に 死ぬほど 疲れてしまった

人生からは なにも 受け取らないだろうが

わたしのかわいそうな大地を 愛してしまっているのだ

他のものを 見たことがないから



遠くの庭で わたしは 揺られている

簡単な 木の ブランコの上

そして 高く 暗い 松の林を

ぼんやりとした うわ言のなかで 思い出している





やさしいものより やさしい
あなたの かお
しろいものより しろい
あなたの て
せかいの すべてから
あなたは とおくはなれたところに
あなたの すべては
にげられぬものから はなれてとおく。



にげられぬものから
あなたの かなしみは とおく
そして まだ ひえきっていないことばの
ての ゆび
そして まだ ふさぎこんでいない
ことばの
しづかな おと
そして あなたの ひとみは
とおくへだたり。

Два стихотворения из сборника стихотворений О. Мандельштама «Камня»
*Мандельштам, Осип Эмильевич (1891-1938)