31 12月 2015

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半

(2)の後半です。

ハーモニーと美しさ

続いて3)目的について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。
前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「自由な遊び」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。
次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」という考えとも関係ないし、条件もないし「美の理想」なんていうものもないんだ、ということです。

感動は邪魔なだけ

「関心」については最前から言われていて分かりますが、「感動」がない、というところには驚きます。我々は「美しい」と言えば、ゾクゾクするような感動をもたらしてくれるものだと思っているからです。カントは言います。
趣味が、適意のために感覚的刺戟感動の混入を必要としたら、(略)かかる趣味はまだ粗野であり、十分な洗練を経ていないわけである。 (上、106頁)
「美しさ」に何を求めてるんだ、カント、お前〜〜という感じですが、あくまでカントはストイックに 純粋な美しさの感覚を追求していきます。カントによれば、まず「あ、美しいな〜」という感じがあり、そのおまけとして感動が付いてくるわけで、感動するから美しい、とは言えないということだそうです。
カントは親切なので、続く第十四項は「実例による説明」に充てられています。それによれば美しさというものは、音楽であれば→純粋な音のレベルで、絵画や建築など造形芸術においては→線描的輪郭(デッサン?)のレベルで判断されるものでなければならず、それ以上のディテールは単におまけ=「装飾」であって、もしその装飾が美しさにとって余計なものであれば「外飾」と呼ばれてしまうのです。つまり、カントはとことんまで「形式」で考えるのです。なんというフォルマリストか。20世紀を待たずともカントがすでにこんなにラディカルなフォルマリストであったのです。(ちなみにカントは同じところで芸術の形式を「形態」的なものと「遊び」的なものに分類しています。「形態」の芸術としては先ほど挙げたような絵画や建築などの造形芸術があるでしょう。「遊び」の芸術の中でもさらに分類があり、「形態の遊び(空間的)」と「感覚の遊び(時間的)」というものがあるとされ、前者は例えばダンス、後者は例えば音楽が想定されます。前者の「美」は線描的輪郭(コレオグラフィのようなものでしょうか)に、後者の「美」は「作曲」に宿るとされています。美は形式だ、輪郭だとはこういうことです。)
また同じところで、「感動」の簡潔な説明がなされています。
感動は、快適が瞬間的に阻止されると、これに続いて生の力がいっそう強烈に溢出するために生じるような感覚である。 (上、111頁)
そしてこの「感動」は、のちに述べる「崇高」には関係があるが「美」とは関係ないと言います。 この「快適が瞬間的に阻止」というところがいやらしいな〜と思います。

ニュージーランド人は人間じゃないから

十五節は、「完全であること」が美しさなのか?という問いからスタートします。今までの議論から考えてみると、意外とすんなり理解できると思います。「完全であること」を考えるには、まず先立って「本来どんなもの(用途)のものなのか? その到着地点=目的はどこか?」という考えからスタートせねばならず、そうである限りは「目的」の議論と同じです(この辺アリストテレスの「徳(アレテー、卓越性)」の議論を思い起こしたりします、「馬の徳(他のものより一番すぐれているところ)は走ることである」みたいなね)。ここまで見てくれば簡単、カントによればそんな「完全であること」は「美しさ」とは関係ないんだ、ということになります。「美しさ」とは「心的能力の遊びにおける調和の感情(内感の)」(上、115頁)であって、到達すべき目標が設定されるような性質のものではない(カント語では「概念」を持たない)のだ、と。美しさはコンセプトではなくエモーションに根拠を持っている。次の節も内容としてはだいたい同じことを言っています。「美しさ」には「自由な美しさ」と「付属的な美しさ」がある。前者には「目的」の考え方がなく、後者にはある。何か達成すべき目的がまずあり、それを満たして初めて美しいならば、その時の「美しさ」は付属的なもの=おまけです。そうではなく(目的を考慮せず)、認識能力において構想力を最大限に遊ばせるところにあるのが純粋な「美しさ」であって、だから「美しさ」には目的があって云々の条件はついてはいけないという話です。
それはいいとして、一箇所ん?と思わせるところがありました。引用します。
しかし人間の美(この種の美には、男女それぞれの美や小児の美が含まれる)、馬の美、建築物(教会、宮殿、兵器廠或は園亭)の美などは、いずれも目的の概念を前提している (上、117頁)
だから人間の美っていうのは付属的な美なのだという主張がされます。この辺にも先述のアリストテレスの 議論が反映されているように思いますが、建築物の美ならまあわかる(例も、ある特定の目的がある建築物の列挙になっています)、百歩譲って馬の美もわかる(早い、つまり馬の役割を果たしている=美しい)。ところで人間の美について我々は目的を意識しているだろうか? すぐ後でカント自身が実例として、「教会だからこそ禁欲的なんであって、教会でなかったら自分たちの心地いいように飾りをどんどん足していい」と述べていて、同じテンションで人間の美に関して、「軍人でなかったらもっと人好きのする柔和な顔立ち(原文ママ)を持っていていい」と言います。この価値判断の元では、軍人→(だから)→強面、男→(だから)→いかつい目鼻、逆にニュージーランド人→(ならば人間じゃないので)→身体を刺青で飾り立てて良いし、女子→(ならば男のような役割を持たぬので)→もっと優雅な目鼻や柔和な顔を持って良いとカントは言うのです。この辺あからさまに差別、ひっでえなあという感じですが、これらはすべてカントのあげた実例です。カント的には、人間の美しさというものは、各人が務める役割に応じて基準があり、それの基準の範囲内で美しいだとか美しくないだとか言われる、らしい。

平均的な男子の、平均的な鼻

さてこの節の最後、「美の理想なんてない」のところです。ここもロジックとしては、「目的」、「概念」、「完全性」と同じで、理想を持つことは、目的を持つことになって、目的を持つようなものは純粋な美しさとは呼べないからということになります。理念と理想という言葉がありますが、理念はより抽象的な概念で、理想というのはその理念を具体化したような個別の存在だとカントは定義しています(上、123頁)。カントによれば理念にも二つあって、「標準的理念」と「理性理念」がある。要するに経験的なものかそうでないかという区分なんですが、後者の「理性理念」に関しては人間の姿かたちを例にとって説明されています。「理性理念」が示す人間性の目的というやつを具現化したのが人間の形態であるという感じで、いささか逆説的に求められるものです(神の模倣としての人間というキリスト教の視座をここで思い出したりします)。さらに言うならこの「理性理念」とは何よりも「道徳」のことであるようで、それは「正しいか正しくないか」なので感覚的な刺戟を引き起こすことがないが、大きな関心を引き起こしてしまう、だから純粋な美しさではないとされます。一方「標準的理念」は、つまるところ「平均」であるという話になります。ここでカントが出してくる実例は、「美しい男子の標準的理念」という話で、ちょっとBLくさくなります。言葉遣いが面白い。
平均的男子に対して平均的な頭部を求め、更にまたこの頭部に対して平均的な鼻その他を求め (上、126頁)
「平均的男子」とは。
ただこの人間の平均値というのは純粋に経験的なものかというとそうではなく、今までに何百人と見てきた男子をざっとアーカイブしてみて、直感的に、そこからのズレを認識するという性質のものであるようです。で、この「標準的理念」に従って私たちが美しさを感じようとも、それは単に「正確」であるからにすぎない、だから純粋な美しさとは言えない、というのがカントの言いたいことです。
結局この3)目的の節では、美しさ、美しいと感じる判断は、「自由な遊び」によって「ハーモニー」を感じ取ろうとする点で、主観的に・形式的に目的と言えそうな何かを持っている。ただこれは目的を達成しているから美しいということではない。ということが言われます。

「わかるわ〜」

一番長いところを抜けました。それでは4)適意の様態について。美しさはどのように感じられるのか? それは必然的なものなのかどうか? というところです。カントの答えは、「美しさは必然的なものである」です。しかし留保つきです。
「美しさ」の必然さは、「正しさ」の必然さに比べたら弱いもので(「正しい」ことに有無などないはず(少なくともカントによれば)で、「美しさ」はぼくの感じかたと君の感じかたに違いは当然ある)、条件付きの必然さに過ぎない。我々が「美しい」と感じるには、それが普遍的に皆から賛同してもらえるということを期待している必要がありました。
「美しさ」は概念のものじゃない、感情=エモーションのものだ、という議論がありました(本記事、「ニュージーランド人」のあたり参照)。たかが感情の生み出した感覚について、どうして私たちは自信を持って他の人にも賛同を要求するようなことができるのでしょうか? カントによるとその根拠、条件は、想定されるべき「共通感」なる感覚です。つまり、「あ、わかるわ〜〜」という共感です。だから西野カナに対して「わかるわ〜〜」というのは、とても正しくて、それは美しさへの第一歩なのだ。
我々がこれらの判断者の判断をすべてこの原理(主観的=普遍的原理)のもとに正しく包摂しているという確信をもつ限り、客観的原理と同じく普遍的同意を要求して差支えないわけである。 (上、136頁)
美しさは感情のもので、その拠って立つところは「共通感」という感覚です。 私から見て、この「あ、美しいな」という判断が「共通感」に照らし合わせてみて他の全員に一致することが期待出来るならば、それは「美しい」と呼んでいいことになります。つまり可能性の問題になります。
この結論はどうなんでしょうか、我々はどこか、哲学者らしくない、というか、全部エモーションの問題になっちゃうんだ??!! というところが腑に落ちない(けれども確かにそう言うしかないような気もする)のですが、カントも自分でこの辺で諦めています。
我々はこれらの問題を、ここではまだ究明する積りはないし、また究明できるものでもない。 (上、136頁)
 逆に潔くていいと思います。これから究明されるんでしょうか?

フリーダム=スープリームでパーフェクト

以上で第一部第一篇第一章というところが終わりました。ところが実は「総注」という節がまだ残っていて、これが結構面白い。いきなり文章がロマンティックになります。ちょっと大事なことを抜き書きします。
・あるものを認識する(というかその前段で直感する=パッと見る)際、構想力に与えられるのは、その「あるもの」の形式に過ぎないけれど、多様なものがわーっと集まっているような形式で与えられる。それを受け取ると構想力は自由に、そして産出的(productive)に(再生的(re-productive)にではなく)はたらいて、調和を図ろうとする。
・美しいかどうかの判断は、「目的を持たない合目的性」に従ってはたらくようだ。
・だから有用だとか目的だとか言ったことは純粋な美しさの判断には余計なものだ。美しいかどうかの判断は、純粋な「観照」(ぱっと見)と結びつく。
・美しいかどうかの判断においては、悟性が構想力に仕えている。
・規則正しさも確かに美しい、だが理が勝ちすぎていて、自由じゃないし、目的を持つっぽい。下手をすると強制を意味してしまう。本来趣味に反してるんじゃない?? だから
規則の課する一切の強制から離脱した場合にこそ、趣味は構想力の自由な構想に関して、最高の完全さを発揮し得るのである。 (上、141頁)
・ 次の文章が非常に「美しい」(この場合の「美しい」はカントの用法を踏まえていますか?????)のでそのまま引用します。
心意識は、眼に触れるところの多様なものによって絶えず喚びさまされつつ創造の所産をもてあそんでみずから楽しむのである、例えば壁付暖炉のなかでちらちら燃える炎の形や、せせらぐ小川の流れてやまぬ水の姿を眺める場合が即ちこれである。炎にせよ小川にせよ、これらの形態そのものはいずれも美であるというわけではないが、しかし自由な遊びを営んでいるので、構想力にとってはやはり一種の魅力になるのである。 (上、143頁)
 こんなふうにこの章は終わりを迎えます。常に新しい感覚をもたらしてくれるもの、不定なもの、揺れ動くもの、遊ぶもの、自由なもの。そうしたものが純粋に趣味に適った「美しさ」を感じさせてくれるのだ、とカントは言います。
こんなガチガチでストイックな論を運んでいきながら、最後に至るや何かポストモダンの気配まで漂わせてしまっています(というより、ポストモダンこそカントへの立ち戻りだったのでしょうか? 知りませんが)。カント、ただものではないな、とやはり思います。
それはそうと、もはや我々は「美しい」という言葉をうっかりと使えなくなってしまった。口に出すたびにイマヌエルが頭の中で「え、お前の『美しい』、その程度??(笑) それは純粋に『美しい』のかな??(笑)」とか言ってくる。うるせえ!

さて、次回、読めるのか?(疲れた・・・) 第二章の「崇高」のところに入っていきたいのですが・・・
大晦日になってしまいました、良いお年を!

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半

『判断力批判』を読む会、2回目です。
前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。
それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。

ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。

* * *

〜12/23
『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁)

まず目次を読む

とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。
今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。
第一部「美学的判断力の批判」
 第一篇「美学的判断力の分析論」
  第一章「美の分析論」
「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。
今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。
お気づきでしょうか、ここに至るまで我々は「おそらく」「なのでしょう」「だと思います」などの語彙を駆使して、あくまで想像で話を進めているのです。なんて恐ろしい。
これから読み進めていって実態とかけ離れていることが明らかになるかもしれませんが、それも含めて今後が楽しみです(何を言ってるんだ)。

「美」以外のものは何も要らない

中身に入ります。章題から明らかであるように、今回読む箇所ではカントさんと一緒に「美」を分析していきます。ある意味当然で、「美しいか美しくないかを判断する能力」について何事かを知ろうとするならばまずは「美しいとは何か(あるいは何でないのか)? 美しくないとは何か(あるいは何でないのか)?」ということを知らねばなりません。珍しく用意周到にも我々はいま「(あるいは何でないのか)」という言葉を付け足しました。そうです、カントの取る手法はかなり根本に立ち返るもので、この章ではとことん「美とは何でないのか」という問いの下で美が突き詰められて考えられていきます。
前回読んだところでも薄々感じられたかと思いますが、カントは非常に堅実で地道な手つきによって根本のところに立ち返ろうとします。「美とは何か」というある意味で非常にプリミティヴな問いを検討するにあたって、カントは我々が「美だと思っているところのもの」、その漠然とした総体から純粋な「美」そのものを取り出そうとするのです。それはキリスト教神学で言うところの「否定神学」的な手つきと同じで、つまり神というのは言葉でたどり着けないものだから、神でないものを全て取り除いて窮極のところまで神にできるだけ近づいていこうという手つき、それと全く同じことです。「処女厨」的な手つき、といえば通りが良いでしょうか。

4つの条件

この章の中では「美であること」「美であると判断すること」について、4つの様式に分けて分析がなされています。より正確に言うならば、「何が美でないか」「何が美でないと判断できるのか」を決める4つの条件(要素)です。4つの着目点は以下の通りです(だいたい)。

1)性質:美的判断には何が関係「ない」のか?
2)分量:美は誰にとって快いのか?
3)目的:美しいものは何か目的に適っているから美しいのだろうか?
4)適意の様態:美しさはどのように感じられるか?

この章は最初に命題が建てられ、各節の最後に「この様式から論定される美の説明」という親切なまとめがつけられているので、迷子になることはありません。安心して読み進められるところです。

おれには関係のない話だ(?)

まず1)性質についての節では、一言で言って「美は関心とは関係ない」ということが言われます。「関心」というと?という感じですが、英語にするとinterest(ドイツ語だとdas Interesse)で関心・興味、興味をそそるもの、重要性、利害(関係)、利益、需要、利子などという訳が出てきます。どうやら単純に「おもしろ〜い」という意味だけではなく、自分にとって何らかの利益をもたらす→ゆえに興味/関心を持てる・利害関係があるという意味層が含まれています。カントはこんな風に言います。
いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交じるならば、その美学的判断は甚しく不公平になり、決して純粋な趣味判断とは言えない(上、73頁)
(実はこの後に「誰だってこれは賛成だろう?」という一言が付け加えられているので、いやいやほんとかよ笑って感じですが)ここで大事なのは、カントはとにかく「純粋な」趣味判断(何が美しくて何が美しくないのかを判断すること)を求めているということです。 「気持ちよさ(快)」とか「正しさ(善)」には「関心」がある、とカントは言います。カント自身が頑張ってひねり出した感のある例に、「もし無人島に住んだら」という話(73頁)があります。「もし無人島で一生暮らさなきゃいけないとして、美しい建物を現出させるような魔力が自分に備わっていたとしても、雨を避けられるような仮住まいの小屋があるならば美しい建築など別に不必要だ」という話です。美しいということは、自分に役に立つとか利益になるとかそういったレベルの話ではないとカントは言っています。
美しさの感覚、趣味判断について特別な点が2つ挙げられています(81頁〜)。まずは、感覚の方法。快適だとか正しいとかいった感覚は、自分が認識し自分の内側で把握した上で理性が下す判断の結果です。それに反して美しさという感覚は、自分が内側で把握する前、ぱっと見で判断されるような感覚なのだと言われます。そして、自由かどうか。「心地よさ」には抗えませんし、「正しさ」という感覚も、カントによれば「命令」として感得されるので抗えないものですが、ただ「美しさ」だけは、何の命令にも従うことのない自由な感覚だと言います。
最後に一つ、カントの面白い着眼点。それは「美しさ」の感覚だけは、人間のみが有する感覚だということです。カントによれば人間は「理性的存在」なおかつ「動物的存在」なのです。動物的存在の方はよくわかりますが、純粋な「理性的存在」とは何でしょうか。こう書いてあります。
純然たる理性的存在者(例えば精霊)  (上、82頁)
なるほど。

みんなの美しさ

 2)分量のところに移ります。ここの議論も一言にすれば、「美しいものは、みんなにとって普遍的に美しい(はずだ)」ということになります。
「普遍的」という言葉が曲者なのですが、ここでカントはあくまで「普遍的」という言葉を使っており、「一般的」ではないのです。どういうことか。これはuniversalとgeneralとの違いなのだと言います。カントによれば、後者は経験的なものに対して使われますが、前者はそうでない。「美しいかどうかの判断」は、一人ひとりに委ねられたものなのではなく(「ぼくは美しいと思う」という判断が統計的に多く寄せられるから「美しい」のではなく)「普遍」に、全員が「美しいね!」と言うことが想定されるといった性質のものなのです。
「想定される」と言いました。ある意味当然のことで、上に述べたように「美しいかどうかの判断」が普遍になされるものだとするならば、統計的な手法に依らない以上、「期待する」しかないのです。(カントは「主観的普遍妥当的」判断という言葉を使っています。「わたし的には」「普遍に当てはまる」と思われる判断ということです。)
趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる普遍的賛成にほかならない、(略)他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない。 (上、93頁)
美しさは、わたしからしてみれば、他のすべての人が残らず「美しいな〜!」と驚嘆することが期待されるような性質を持ったものなのです。
この節で面白かったポイントはもう一つ。後半の第九項で「自由な遊び」というタームが出てきます。これが今後「美しいかどうかを判断する能力」の議論にとって重要だと思われます。この項において「美しさ」とは何かというと
両つの心的能力(構想力と悟性)が互に調和し合っていきいきとはたらく軽快な遊びにおいて生じる結果の感覚 (上、99頁)
というふうに定義されています。 で、私たちが美のどんなところを普遍的にみんなに当てはまるとおもっているかというと、それがまさにこの認識能力の自由な遊びだ、とカントは言うんですね。この自由な遊びによって「調和」、「均整的調和」、つまりバランスのとれたハーモニーを求める心はみんなに共通しておろうが、というのがカントの主張であり、だからあるものが「美しい」と言っていいのだということになっています。「遊び」という言葉とともに、カントの非常にストイックな文章に突如浮遊感が出てきます。そこが面白かった。

長くなったので、条件3)と4)に関しては記事を改めます!

29 12月 2015

イヴァン・ジダーノフの詩

ロシアの現代詩人イヴァン・ジダーノフの詩を訳しました。
(初掲載:2014年3月9日、最終更新:2015年12月30日)

(あなたとぼくの隔たりは)

あなたとぼくの隔たり 隔たりこそがあなたである
ぼくの前にあなたが立つとき どうしよう こうしようなど 考えながら
あなたの緘黙のかけらから あなたがぼくを組み立てるよう
あなたが見るのはかけらだけ 自分の全ては見やしない

鏡が あまりに多くを欲し 弾けてかけらになるように
(この欲が 自分を各方面の間諜(スパイ)にするのだ)
憂愁をまとう不幸な樹が その葉に生を終えてゆく
その量の多さでもって みなに風向きを予言するために

唄うために 弁解するために 黙りこみ みなに耳を傾けるため
飛行機が空中回転するように 静寂の平面で泳ぐために—
だが不幸なくるみは 森で彷徨う 
戦争が近づき 不眠に幽閉されているかのように

どこにあるんだ 掘っ立て小屋の天国は どんな盗人に荒らされているんだ
ぼくはあなたのために盲目だ あなたの手で目を潰されたのではあるが
ターバンのごとく 中身のない水が 悲しみに巻きついているが
内側は空っぽ 風のない日に帆など立たぬと同じこと

あなたの一部分として ぼくはあなたを嫉み 捜すのだ
あなたの中に日曜日を。 そして無事では済むまいと思う
ほら ぼくには見える 嫉みのように あなたが投石機を構えているのが
機関車の頭垢を 可哀想な木の葉から 払い落として

あなたに向けたぼくの仕草を あなたは繰り返しているようだ
死を知らない飛行のなかで 幻の鳥はその翼で
大きな心臓を捕まえる そして己の運命に抗わず
空に溶けこむ のではなくて 空に なる のだ

そうだ ぼくはあなたと隔りでもって繋がっている これは掟だ
真実とかあなたの気ままさを許すように 嫉妬心を許す掟だ
ぼくは死を知らない 屈服している間は だが屈服などするものか
なぜなら愛している 愛している 愛しているから

(こんな夜は)

こんな夜は 選ばれはしない
親のない神が 夜に歩み出て
川はその岸に身を寄せる
世界に 光は 残されず
空は せいぜい足元をひたす
雨のシルエットくらいの 大きさしかない

そしてこの じめじめした街角は
そして腐りかけの葉のざわめきは
昏さの中でなく ぼくらの内に息づいている
ぼくらは覚えているだけで 見えるわけじゃない
ぼくらは聖人も嘲りはしまい
ぼくらを捕らえるのは ここでは影だけだろうから

ぼくらの内には ただ過去だけが遺っている
あなたはぼくに 接吻をしてはくれなかったね
恐ろしいあなた— あなたは軽やかでもあって。
あなたのことばは あなたを愛している
昏さの中でなく ぼくの中に ぼんやりと浮かぶのは
あなたの顔、あなたの腕

ぼくらは少しずつ 死んでいく
ぼくらは あの路に出たのではなかった
世界から受け取るのをぼくらが待っていたのは あんな報せではなかった
この夜を抜けて 衝動的な欷泣(ききゅう)の中で
ぼくらは、 もはや何ものも知ることなく
おのれの骨の松明の方へ行こう

対蹠点

とどまれ 痛みよ 針のなかに!
とどまれ 風よ 怯えた馬の
たてがみのなかに!
とどまれ 世界よ 外のままに
良くなろうが悪くなろうが
ぼくのなかには入ってくるな!
針のなかへ去らせてほしい
だがいったいどういう意味だ?
針のなかに閉じ込められることなどないというのに。
たてがみのなかの風になるのだ
そしてそこ 下階の光差す部屋のような
針の内部で
消えてしまった光へと入って行くのだ
無のほうへ我が身を下ろしていこう。
誰か知らは
突き刺されるに値しよう、とつぜん
光があらたに降り注ぎ
世界はぼくのなかで目を覚ます
そして微かに音がふるえる。
どこやらで馬たちが立ち上がる
うめき声に陥ってしまった
災難の追っ手を逃れて
草原の足跡をも見失い。
そんなふうに迷わせる草原などない。
傷に隠された馬の足踏みは
蹄によって暴かれた。
運命を背負った馬の群れは寄り合って
たてがみのなかに靄を運んでいる
その途上
積み藁が暗やみを通して見つめてくる
天の十二宮のごとく。
おまえ、それを読み解いてくれ。
でも、捕われる予感を前に
ひざまずいても
干し草の山のなかで針を
ぼくには見つけることができない。


洗礼

こころが無になり 空は殺す
ほら星々のあいだをもう手が鷲摑みにしている。
どうしたら振りはらうことが出来るだろう!ぼくのことなど誰も知らない。
まるでぼくなど存在しないかのようだ。誰もぼくを待っていない。

時計は急ぎ チクタク言っては落ちてゆく。
家をひっくり返しても 底を探り当てることはかなわない。
まるでぼくなど存在しないかのようだ。ぼくの聴力は音を追いかけて行くのだが
音は夜のなかへ消え去る 時から眠りを奪いながら。

狩りで狼をそうするように 時は眠りを引き裂いたってよかった
そうすればこころを血まみれの指が指し示したことだろう。
だが音は無のほうに落ちてしまった こんなふうになだらかな音色で
音は影に なにも無いところに空いた穴に しがみつくのだ。

落ちた木の葉が宙返りし 皮膚の下に入り込む。
永遠に掴んで離さないような そんな闇にとり囲まれている。
自分を探り当ててしまうよ。ぼくは聞き耳をたて夜を掻き乱す
いや 夜は静まり返り 夜はコインを信じない

そしてぼくが生まれる前 ぼくの悲鳴の前の
どこか地上で おとなしく落ちてゆく葉が
ぼくの呼吸をつきとめる それはもうぼくの救済なのだ。
ぼくはこの世にいない。落ちる葉は知っている 「悲鳴があがるぞ」。

水はゆらゆらこぼれない なかば寝入った魚たちの会話に
聴き耳をたてながらであるかのように
ぼくを通り抜け 口をきけぬようになった憤激となって 流れゆく
口も耳もない血を その指で 脅すのだ。

ぼくの中を川が流れている 口も耳もない血のような川。
儀式が行われている そこでは落ちゆく葉が洗礼を受ける
葉の音だけが飛んでくる 自分ではまだ気づいていないのだ
その音は葉を焼きつくし元には戻らぬということに。


<詩人について>
イヴァン・フョードロヴィチ・ジダーノフ(Жданов, Иван Федорович、1948-)

西シベリア、アルタイ地方出身の詩人。モスクワ大学ジャーナリズム学部で学ぶも、退校処分、アルタイ地方の中心地バルナウルで教育大学を終える。1975年頃からサミズダード(地下出版)を通じて、モスクワの非公式文学シーンで活躍。ジダーノフやパルシコフ、エリョメンコらからなる詩人サークル「ポエジヤ」を結成。処女詩集は『ポートレート』(1982)。ベールイ賞(1988)や両タルコフスキー文学・映画賞(2009)など受賞多数。現在はアルタイ、モスクワ、クリミアなどを転々と移り住んでいる。写真家としても有名。

23 12月 2015

タルコフスキー・リスト

映画監督А. タルコフスキーが、自身の授業で学生に配布したと言われる必見映画のリスト、「タルコフスキー推薦映画リスト」を訳しました。
いまいち出どころがわからず、資料としての価値には?がつきますが、参考までに。ロシア語原文はこちらです→Список Тарковского на сайте Кино не для всех
日本でDVD未発売の場合は、英語(ないし原語)タイトルをつけました。

ルイス・ブニュエル
『アンダルシアの犬』『黄金時代』『忘れられた人々』『ビリディアナ』『皆殺しの天使』『昼顔』『糧なき土地』『小間使の日記』『ナサリン』

ロベール・ブレッソン
『田舎司祭の日記』『抵抗(レジスタンス)』『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『やさしい女』『たぶん悪魔が』

イングマール・ベルイマン
『不良少女モニカ』『道化師の夜(Sawdust and Tinsel)』『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』『悪魔の眼』『鏡の中の女(Face to Face)』『冬の光』『沈黙』『仮面/ペルソナ』『恥』『情熱(沈黙の島)(The passion of Anna)』『叫びとささやき』『狼の時刻』『ある結婚の風景』『蛇の卵』

ピエル・パオロ・パゾリーニ
『アッカトーネ』『奇跡の丘』

フェデリコ・フェリーニ
『道』『魂のジュリエッタ』『8 1/2』『サテリコン』『フェリーニの道化師』『フェリーニのアマルコルド』『カサノバ』

アラン・レネ
『二十四時間の情事』『ジュ・テーム、ジュ・テーム(Je t'aime, je t'aime)』

溝口健二
『雨月物語』『山椒大夫』

黒澤明
『羅生門』『七人の侍』『生きる』

勅使河原宏
『砂の女』

アルフレッド・ヒッチコック
『鳥』『サイコ』

ジャン・ルノワール
『ゲームの規則』『大いなる幻想』

ジャン=リュック・ゴダール
『小さな兵隊』『勝手にしやがれ』

カール・Th・ドライヤー
『裁かるゝジャンヌ』『吸血鬼』

ミケランジェロ・アントニオーニ
『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『中国(Chung Kuo, Cina)』 

アレクサンドル・ドヴジェンコ
『大地』

フリードリヒ・エルムレル
『Peasants(Крестьяне)』

セルゲイ・パラジャーノフ
『ざくろの色』

オタール・イオセリアーニ
『田園詩』

ジャック・ベッケル
『穴』

ジャン・ヴィゴ
『新学期・操行ゼロ』『アタラント号』

ヨリス・イヴェンス
『Rain(Regen)』

ミハイル・カラトーゾフ
『スワネチアの塩(Salt for Svanetia; Соль Сванетии)』

ジャン・コクトー
『詩人の血』『オルフェ』『オルフェの遺言』

ジョン・グリアソン
『Drifters』『Grenton Trawler』

ロバート・フラハティ
『極北の怪異(極北のナヌーク)』

※こういうの(ロシア語の映画タイトルを邦題に置き換えるとか)、wikipediaってすごく便利ですね・・・

02 12月 2015

文字25(現代語の現代語訳シリーズ)

会いたさ、会いたさこそが、わたしを震わせるのでした
あなたを遠く感じるのは、わたしがあなたを想うからでしょうか
もう一度わたしとあなたであるわたしでいたいのですが
わたしの気持ちはいつも不着のままなのです
こころ、きもち、わたしの
(小池昌代訳「会いたくて 会いたくて」)



恋をしてしまったのです
あなたはたぶん気づいてはいないのでしょうけれど
星の夜にわたしは願います
櫻桃です ―
わたしの指があなたに送る便りは
(小池昌代訳「CHE.R.RY」)

25 10月 2015

新潟県立近代美術館における会田誠展について

帰省したついでに新潟県立近代美術館で2015年9月から11月まで開催されていた会田誠の個展「ま、Still Aliveってこーゆーこと」に行きましたが、肝っ玉の小さな展覧会でした。彼の展示があれだけ議論を呼んだ直後にやるということは、勇気のある決断なのかと思いきや、単に中止する勇気がなかっただけでは、と穿った見方をさせてしまうのも仕方のないことではないだろうか。

なぜかといえば、各作品の隣に配置された「ヒント」と名付けられたプレート、あるいは館によって展示室前に掲げられた前言などが鑑賞者に一つの見方を強いるからだ。それはつまり会田の「コンセプトを鑑賞者が適切に理解せず」(本当にこういうニュアンスでした)ポリティカルな見方が横行していること、会田が「コンセプチュアルアーティスト」(に過ぎぬの)であり、「ポリティカル」な見方は「誤読」(本当にこう書いてあった)であるということ、こういう主張に他ならない。

コンセプチュアルであることは即ちポリティカルでないことなのか?会田が創作の中心に据えているものは、あくまでもポリティカルなものが中心ではなかったか?

新潟県立近代美術館は、徹底的に会田の政治性を無害化し「コンセプト」としてだけ鑑賞させようとしているふうに思われた。しかし美術館の内部で完結する「コンセプト」になんの意味があるのか? というよりそうした形骸化したコンセプトをこそ会田は批判対象としていたのではなかっただろうか?
それは会田が意図しているであろう自作品の機能とオーバーラップされているが故に非常に巧妙かつ隠密であるが、まず第一に作者会田に失礼であり、そして鑑賞者に対しても失礼な計らいである。

勇気がない、失礼である、事態はおそらくそれだけに留まらない。美術という無限の解釈を可能にするべき領域で一つの見方を強いることは暴力に他ならない。
美術館がある一人の作家と協働することを選択した場合には、作家に寄り添って可能な限り創作を扶けるべきだし、館として開催を決めた限りは展覧会に対する批判に対しては作家と共に共闘するべきではないかとわたしは思う。だから本来なら近代美術館には、こういったエクスキューズなしで勝負してもらいたかった。作家とともに鑑賞者を挑発することを妨げるべきではなかった。ただ同時に、新潟(ごとき)の県立美術館(ごとき)にこんなことを求めるのは無理のある話だとわかっている。新潟県立近代美術館は闘いを放棄して、なあなあにうまくやっていくことを選択した。

こうしたことを踏まえてしかしなお、いま新潟県立近代美術館に足を運ぶのも損ではないと思うのだ。私が述べたこうしたことに疑問を持てるか持てないかというところに、おそらくメタな意味としての鑑賞者としてのあなたが問われていると思うからだ。
新潟の、県立の施設で、現代美術作家の個展を開く、というのは、良くも悪くもこの程度なのだ。親切な「ヒント」、絶え間ない無毒化、言い訳、「誤読」(誰の?)。そしてそれこそ10代の会田が憎悪した"新潟"そのものではなかったか。

よろしい、会田誠の個展を、このタイミングで県立の施設で開催すること。それは一つの果断だし、何はともあれ私たちは新潟に縁のある一人の重要な現代美術作家の代表作を総ざらいできるのだ。
しかしやはりわたしは主張したい。後々の現代美術を考えた時に、このような形式での展示は許してはならない。きっと作品の力と、社会へのレスポンスとしての美術の意味を殺してしまうだろうからだ。

06 9月 2015

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(1)

私事ですが、うまくいけば9月に大学を卒業し、来年4月の就業までニートとして研鑽を積むことになっています。
そこで卒業前に何か一冊、自分だけでは読めない本を読もうじゃないか、と最愛の友人N(イタリア語専攻)に話を持ちかけ、何を読むかとなったときに、我々の頭に浮かんできたのが当然(でもないか)イマヌエル・カントとその著作だったというわけです。彼についてほとんど何も知らない我々にも当然彼の著作の名前は刷り込まれていました。ご存知の通りそれが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の3著作です。我々は哲学プロパーではありません。二人とも文学専攻(私はロシア現代詩、Nはイタリア現代文学)です。そうしたことを考慮すると、やはり我々が話題として身近に感じる、ひいては理解しやすいのは何より『判断力批判』であろうという結論に至りました。それは9月2日の夜、紀伊国屋書店新宿本店での出来事でした(ちなみに書店に行く前に飽きるまで焼肉を食い、新宿に行き、そこから渋谷まで歩いて渋谷wwwでのトーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映会に参加しました、そしてそれは最高だったのです・・・というのは全く関係のない話ですが)。

ということで、我々は範囲を決めて、大体一週間間隔で読み合わせを行う(そして焼肉を食う)という、いわゆる読書会を始めることにしました。以上に述べた事情から、課題図書はイマヌエル・カント『判断力批判』(上下巻、篠田英雄訳、岩波文庫、1964;2013)ということに決めました。

ただし、ただの読書会というのはつまらない、二人揃って唯一絶対たるカノンとしての1を生み出す作業など(時にはそれも有用でしょうが)、やはりありきたりであり、つまらない。何より悪い生徒である我々自身が飽きてしまう。ということで、Nには無断でこのブログ上で進捗状況をアップしていくことにしようかと思います。この場では工藤が記事を書くにもかかわらず、人称に「我々」を使おうかと思っています。哲学科の生徒にはできない不真面目さと独断で『判断力批判』を読む、そして頭の中を報告に付すことで、議論を不特定多数の海とも山ともつかぬ場所へ放り出してみる、それが我々の目指すところです。

第一回目の今回は上巻の67頁まで、序言と序論を読みます。

* * *
9/3-6(読み合わせ会は9/8)
『判断力批判』序言と序論(〜67頁)

カントさんの親切さ


我々が読書を始めて最初に感じたのが、まずカントの予想外の親切さでした。カントについてはほとんど何も知らずに我々は読書を始めました(Nは三批判書を全て購入していましたが読んではおらず、私に至っては一度は買った『純粋』を、何を思ったかブックオフに売り飛ばしさえしたのです)。何も知らない状態の私たちの、カントに対するイメージといえば、「難解」「悪文」「読みにくい」「わかりにくい」「わかってもらおうと思ってない」「不親切」「自己満足」「うざい」「くそ真面目」「面倒」などの半分私怨の混じった罵詈雑言の羅列、これでした。もちろんこのうち岩波書店の造本に帰す悪口もカント自身に帰すものも、我々自身に帰すものももちろんあるのですが、それについては考慮せず、カントを罵倒していた我々であるわけです。あったわけです。
あった、というのはそのイメージが、実際に読んでみると変わりつつあるのをどうにも否定できず感じたからです。さすがに大学教授のカント、というわけで、上巻のだいたい20%を、本篇以前の「序言」と「序論」に費やしてくれているのです。そこで我々を驚かせたのは、カントが議論を「哲学の分類について(序論の第1節)」というような根本のところから始めてくれているということです。これは我々を喜ばせました。なぜなら『判断力』は『純粋』と『実践』に次ぐ著作であって、この二作を踏まえなければ理解できないことがあるらしい、というのは風の噂で理解しているところだったからです。
たしかに最初は、
我々は(…)純粋理性一般の可能と限界とに関する研究を純粋理性批判と名ずけてよい。(序言、13頁)
という一文からスタートするわけで、「はぁ? 純粋理性? よい? 誰が許可した?」みたいなキレ方をせざるを得なかったわけですが、そういう愚かで前著を踏まえない短絡的な読者のことを思って、カントは序論を「哲学の分類について」というところから始め、議論をほぼゼロベースから立ち上げようとしているのです(たぶん)。議論の立て方は非常に理にかなっていて、一歩一歩地をならしながら山を登っていく、そういった感があります。もちろんカントが目の前からふっと姿を消して100m先の岩の上に現れたりすることもあるのですが、その都度カントは「あ、ごめんごめん」とか言って戻ってきてくれる(実際の事を言うなら、我々自身が読み返したり精読したりする)ので、だいたいのことはしっかりわかるようにできている。考えてるな〜っ! カント〜っ! という感じです。なので今のところの感じでは、全く、さっぱり、なんの手がかりも掴めない、ということはなく、ほっとしています。これならいける気がする。
序言では、悟性・理性・判断力という今後の議論の中心となる人間に備わる3つの力が紹介されたあと、今後の議論に関わる問題(疑問)(15頁)とか、「謎」(18頁)が掲出されます。ちなみに悟性とは、わたしがあるもの(A)をパッとみた瞬間に「これはAだ」とひらめくように直感する能力、理性とはAを欲しがっていいのか悪いのか判断する能力、判断力はその間にあってAが我々にとって心地よいか心地よくないか判断する能力、ということになるでしょうか(どうなんでしょうかそこのところ)。こうした無理矢理な要約に対して、カント主義者はぜひ激怒していただきたい。
ここで疑問としてあげられているのは例えば次のようなことであるわけです。そうした判断力って、他に拠らない独自の原理がもともと備わっているんだろうか? とか心地いいとか悪いとか、そういう感情に生まれながらにして備わっているような規則ってあるんだろうか? とか(15頁)。
そうした疑問に自問自答するかのように、以降序論ではカントが地道に論を立てながら、答えようとします。

チャート式カント


序論を読み始めると、我々が実際にカントを読み始める前、カントについて持っていた偏見の一部は間違っていなかったことがわかってきました。それはつまり「くそ真面目」であるという一点です。たしかにカントは「くそ真面目」以外の何ものでもないようです。とにかく、例外が出ないように丁寧に吟味しながら「二通りしかない」(21頁)とか「ほかならない」とか「何びとにも例外なく妥当することを要求する」(56頁)とかかなり強いことばでもって断定していきます。これに対して「ほんとにそうなんですかね」と我々は当然疑問を持たざるを得ないわけなのですが、そのへんはカントの存命中からすでに指摘があったみたいで、66頁に「いつも三分法に帰着するのを怪む人がある。」という注意書きがあります。
なんにせよカントの魅力の一部は、このように世界(自然)をすぱすぱ切り分けていくところにあるのでしょうし、それは西洋近代の始まりとして流れに身を任せてゆくべきところなのでしょう。疑問は疑問として、読み進めていくことにしたいと思います。
それにつけても序論というのは分析、分析、また分析からなるわけで、カントのこういった箇所は絶対にフローチャートにしたほうが受けがいいと思います。なにしろ首尾一貫して基本の基本にあるのは先ほど申し上げた悟性・理性・判断力の三分法なわけで、その原理・相互の関係・目指すものなどが付け加わっていく形式です。悟性は理論哲学で自然概念でアプリオリな原理で自然の合目的性で、理性は実践哲学で自由概念で形而上学的原理で実践的合目的性で、判断力はその間にあって悟性から理性への移り変わりの働きをする能力で規定的と反省的があって・・・といった感じでもう、表にすれば恐ろしいほど分かりやすいような分枝をしているのです。カントが67頁におまけしたあの表が、序論のほぼ全てです。だから当初の「わかりにく」そうだ、という印象はおそらく間違っていて、たぶんカントは物事をすごくシンプルにしたかったのです。ですが叙述スタイルは例のごとくのため、読むに難しい。執拗に綿密に、カントは論を積み上げます。「というのも」「だから」などということばでもってあらゆる考え方の裏付けを怠りません。だから煩雑になってしまうのはある程度仕方のないことなのです。
カントは典型的な書きたいことと書ける文体に差がある作家なのではなかったかな、と思っています。個々人にそうした比重の違いはあるので、しかたない、というか、カントはこのようにしか書けなかったのだし、カントだからこそこのような文体になったのだ、それに良いも悪いもなく、世に出た以上読者の問題になります。
だが一つ言わせてもらうと、カントはエクセルを使え! 以上です。

限界の設定


そうしたなかにあって一番スリリングで興味深く読んだ箇所は、序論の2節とか4節のところです。哲学的な言説が立ち入れる領域、あるいは我々の認識の限界を(地域とかアドレスとか土地といったどこか政治を思わせるタームでもって)規定していきます。
それだから我々の全認識能力にとっては、無辺際にしてしかもまた近傍し難いような土地が存在するということになる、即ちそれは超感性的なものという土地である。(序論第2節、29頁)
このようにカントが言うとき、この「超感性的なもの」というのはつまりカント発明になる「物自体」という考え方のことなのです。物自体とは、平たく言えば私たちが見ているもの「A'」がある、ただしこの「A'」は我々が認識する限りでの「A'」であって(認識しなければ何も始まらないから当然ですね)、我々の認識が及ばない時点でこの「A'」の基であるような「A」が存在するはずだ(と仮定してみよう)、とするときの「A」です。それはもちろん定義上認識し得ないはずなのです(というのは、認識した時点でそれは「A'」であって"物自体"としての「A」自体ではないはずですから)。こんなふうに我々には認識できないものがあるというふうに言われます。それにもかかわらずその認識できないものが、我々の認識の及ぶ世界に影響を必ず及ぼしているということ。もちろん何かを規定することは規定できないことを除外することでもあって、必要な作業ではあるのですが、認識の中に無意識的に、自然に、認識できないものが入り込んでいるという。
この著作では「調和」ということが目指されており、45頁に言われるように
無限に多様な経験的法則を含む自然によって与えられた知覚を、完全な連関を保つ一個の経験に仕立てる(序論第5節、45頁)
こういうある種無謀な企てが、最終的に「判断力」がもたらす(べき)地点です。なにしろ無限を一個にするというのですから、無謀と言わず何と言いましょう。カントの誠実なところは、自然とは「無限に多様」であることを認めているというところです。自然は単純だし、たやすく制御できるのだ、とは口が裂けても言わないでしょう。ここは信頼に足りると思います。ですからこの序論の中では判断力に関して「特殊」だとか「反省的」というふうに言われます。つまり、あまりに多様な自然については、特殊、つまり一つ一つの事例に即して考察せねばならないし、その能力は反省的、つまり認知された個々の事例について一つ一つ後づけで判断を下すようなものである。カントはこのように言っている、と我々は判断しました。
しかし目指すところは当然「一個の経験」として自然を把握するところにあるのですから、無謀さに変わりはありません。すでに序論から認識から逃れようとする無限たる自然と、無限を一として全てを掌握したい人間が火花を散らしているのです。
カントは哲学者というよりはむしろ"批判"者です。序論2〜3節でカント自身がいうように、彼の著作は哲学することではなく、批判することをこそ旨とするのだ。批判とはなにか。
批判の旨とするところは、これらの能力(引用者註:悟性・理性・判断力の三つの認識能力)をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである。(序論第3節、30頁)
カントの「批判」がスリリングなのは、こうして人間の基本的な能力を仮定して、それによって我々がどこまで自然を知ることができるのか? 知覚は、認識は、いったいどこまで可能なのか? 人間の能力はどこまで及ぶのか? といった問いに代表されるように、超感性的なものと感性的なものの境目を探り当てていく行為だからです。それは人間のマクシマムを規定する作業であると同時に、人間の限界をも言い得てしまう性質の、危険な、カントの一人間としてあり様をかけた問いなのです。
哲学はその範疇で考えられるものについて考えるしかない。カントの試みは、哲学を開始するにあたって哲学が可能である領域を定義する、いわば哲学の家を建てる、そういった試みであったはずです。

次回以降いよいよ本篇に入ります。


(最終更新日:2015年9月9日)

01 9月 2015

ヴィクトル・ソスノーラの詩

私が沈みゆくとき、夢に出てくるのは、ローマの鐘なのです、
耳から泡が立ちのぼり、ガラスの球たちを揺らめかせ、
泳ぎ歌うは音楽魚ども、
その耳鋭く、ことば喉をこじ開け、
私は口に出して言おう、ローマが沈んでゆくと、
柱廊が、競馬場が、劇場が、市場が、浴場が、
台座としての広場とそこに立つ家々が、
彫像が、別荘が、庭園が、図書館が、
馬たちが、トランペットが、雄弁家たちが、追放者名簿が、
カンピドリオの丘が沈みゆく、蛸にぐるぐるに巻かれて、
トーガが、属州が、水道橋が、テヴェレ川が、—
そしてとうとう世界が暗闇に包まれ、音は消え、水に沈み、
私はひとり沈んでゆく、そして耳の中に何やら汽笛が響いている。


*Соснора, Виктор Александрович (1936-)

11 8月 2015

ウラジーミル・マヤコフスキーの詩

*実を言えばマヤコフスキーを訳すのは初めての経験です。小笠原訳と見比べて誤訳を見つけることに汲々とするのが、正しい読者による正しい楽しみ方です。

セルゲイ・エセーニンへ(1926)

あなたは行ってしまった
 ひとが言うように
  あの世へと。
虚しい・・・
 飛んで行ってください、星々の中へ、飛び込んで。
きみにはなんの貸しもない
 酒代さえも。
素面だ。
違うさ、エセーニン、
 これは
  おちょくってるんじゃない。
喉には
 苦々しい嗚咽がある
  嘲り笑いなんかじゃない。
ぼくには見える
 切り裂かれた手でゆっくりと
自分の
 骨を
  袋に入れてあなたがカチャカチャ揺らしているのが。
もうやめてください!
 やめて! 
  正気ですか?
両頬を
 死の白墨が
  濡らすがままにしておくんですか?!
あなたはだって
 あんなに
  すごいことを言葉にして吐き出していたのに
この世の
 他の誰一人だって
  言葉にできなかったようなことを。
どうして?
 なぜなのですか?
  わからなくて打ちのめされてしまう。
批評家どもはぼそぼそ言っている
 「あいつは罪つくりだ」と。
そうかな・・・
 でもそれは・・・
  でも一番の問題は
   繋ぎとめるものが少なかったこと
その結果として
 ビールやらワインの暴飲だった。
ひとは言う、あなたは
 放蕩生活を
  高踏な生活に変えるべきだったのに、と
高踏さこそがあの人に良いように働いて
  馬鹿げたことには至らず済んだだろうに、と。
そうかい、高踏な生活って言うけど
 じゃあそれは渇きを
  クワスで満たしてくれるもんなのか?
高踏な生活だって おんなじように
 酔っ払うのに目がないじゃないか。
あなたのところに
 汗っかきどものうちの誰かが
  寄ってって
生活費でも
 もっともっとたっぷりと
  恵んであげるようにすりゃよかったのに、と
そうすればあなたは
  一日に
   100行ずつも
    書き上げたろうに
退屈で
 長い長い
  ドローニンみたいな詩行をな、とのたまう。
ぼくに言わせれば
 そんな戯けたことが
  ほんとにあったとしたら
もっと早く
 自殺することになったでしょうね。
ウォトカのせいで
 死んだほうがまだましさ
退屈のせいで死ぬよりは!
ぼくらには
 死因が
  定かではない
縄で首を絞めたのでも
 ペンナイフを突き刺したのでもないのだ。
もしかしたら
 アングレテール・ホテル(*エセーニンが自殺したホテル)にインク壺さえあったら
静脈を
 切り裂いたことが
  死因にはならなかったしれないのだ。
猿まねする奴らが喜んでこう言う
 「アンコール!」と
すんでのところで
 自分に
  銃の撃鉄で制裁を食らわすところだった。
なぜ
 自殺者数を
  増やそうとする?
インクの生産量を
 増やすほうが
  よっぽどいい!
永遠に
 いまでは
  舌が
   歯の奥に閉じ込められてしまっている。
神秘さを破るのは
 つらいし
  いまはその時ではない。
民衆のなかで
 言葉の創造者のうちで
朗々たる
 見習い放蕩者が
  死んだ。
そして 大量の
 追善の詩が持ち込まれた
過去から
 葬儀の場から
  ほとんど手直ししないまま。
丘のほうに
 弱っちい韻律を
  杭でもって追い立ててしまえ
そんなふうに
 詩人を
  敬うべきだなんて思わないだろ?
あなたに捧げる
 記念碑さえまだ作られていないのだ
記念碑はどこだ?
 青銅の音は?
  切り削られた御影石は?
それでも追憶の格子に
 すこしずつ
献呈と追憶の
 ゴミ屑どもが運ばれてきて もういっぱいだ。
あなたの名は
 ちっぽけなハンカチに吐き散らかされて
あなたの言葉を
 ソビノフが涎でベチャベチャに汚す
死にそうな白樺の下で
 こんなふうに演説を締めるんだ。
「ことばもありません
  あぁみなぁぁさん、
   ためぇぇぇぇ息一つ出ないのです」とね。
うぇ、
 もうすこし違ったふうに話すだろうに
このご本人、
 レオニード・ローエングリヌィチ・ソビノフさんと話すのなら!
ここでスッと
 名高き問題児よろしく立ち上がって
「詩の一行たりとも
  もぐもぐ言ったり
   めちゃくちゃにするのを私は許さない!」と。
唖然とさせよう
 やつらを
  三本指で鳴らす口笛で
おばあさんにも
 神さまにも 魂をお見舞いしよう!
最低に才能のない忌まわしいやつらを
 追散らすために
その
 一張羅の帆を
  風に大きく広げながら
コーガン氏が
 一目散に
  逃げ出してしまうように
両耳の先で
 行きあう人々を
  ぶん殴りながら。
クズどもが
 まだ
  たくさん居残っているそのうちに。
やるべきことはたくさんある
 いいからついて来るんだ。
生きることを
 最初から
  やり直さねばならない
やり直した後に
 詩で讃えることができる。
ペンにとっては少し困難な
 そんな時代だ
だけども 声に出そうじゃないか
 みなさん
  性別問わぬ不具のみなさん
どこで
 いつ
  どんな偉大なひとが
もっとぐちゃぐちゃに踏みつけられ
 もっと軽やかになるため
  道を選び取ったか?
ことばは
 ひとの力の
  司令官だ。
進め!
 時間が
  後ろから
   弾丸よろしく突き進んで来るように。
古き日々のほうへ
 風が
  運んで行くのは
ただ
 髪のもつれだけであるように。
歓喜は
 ぼくらの惑星のための
  ものだとはまだいえない
来るべき日々の
 喜びを
  奪い取ってこなければならない。
この世で
 死ぬことは
  難しいことじゃない。
生きることをもっと
 ものすごく困難なことにするんだ。

*V.タラソフ『時よ、前進だ!』(1977)

*Маяковский, Владимир Владимирович (1893-1930)

10 8月 2015

ゲンナージイ・アイギの詩

初公開:2014年1月28日
更新:2015年8月10日

いまではいつも雪が(1978)

n.b.に
雪のように あることである「神」
そして 雪があること があること
あることである 魂が あるときに

雪 魂 そして 光
こういうものはぜんぶ
死のようにある者たちのように
それらもまたあるということに過ぎない

そこにもあると 認めること
闇の世界にも ある があること
またもや雪が降る時には
「アァ神サママタユキガ」
あるということが どうしてありうるのか

実際のところ ないのだ
死体のように あり かつ ないものなのだ

あぁ 「ハリボテ=国家」というものがある 疑いの余地なく あるのだ
「国民」が ない ことを意味する
ことばなのならば

では ある とはいったい何なのか
そのせいで ここに これがあるような あるとは
そして 「貌」はあたかもただ
「闇と貌」の国だけがあるような
そんなハリボテなのだ

「時代—そんな—死体

ひとつの ある ことがある
それはつまり ない ことでもあるが
アァ、神サマ、マタ、ユキガ!
あるものがあるように それらは ない
ただ「死にみの国」であるに過ぎない

あり かつ ない ことがこうして ある
そしてただこのために ある
だが ただただ ある ことである

魔法で起きたかのように 一瞬 竜巻がある
「死性の国」はなくなる
あぁ神さままた雪が
魂 雪 そして 光

あぁ神さままた雪が

それらがないこと があること であれ
雪だ わが友 雪だ
魂と光と一片の雪

あぁ神さままた雪が

そして あること である雪が あること

ここ(1958)

木立のなかの茂みのように ぼくらに見つけ出されたのは
ひとを隠し守る
そんな隠れ家の謎

そして生命は森へと続く道のよう 己の中へと閉じこもり
ぼくには「ここ」ということばが
生命の暗号と思われ始めた

そのことばは地をも天をも表している
影のなかにあるものをも
ぼくらがこの目で見ているものをも
詩のなかでぼくにはとても 語ることなどできないものをも

不死の秘密を明かすことなど
しょせんは 冬の夜に照らされた
茂みの謎解きに過ぎないのだ

雪の上の白い小枝の謎解きに
雪に落ちる黒い影の謎解きに

ここではすべてがお互いに呼び交わしあっている
原始の偉大なことばでもって
まるで生命の桁-外れに自由な部分が
(いつも偉大なことばでではないけれど)
隣りの決して消えぬ部分に 答えるように

ここ
静まりかえった庭にある
風に壊れた枝の端
ぼくらは探し出しはしない
畸形の樹液の凝結を
その凝結は 痛ましい姿にも似て

ある不幸の晩
磔にされたひとを抱いている

そしてぼくらは知らないのだ 他のものより
偉大であっただろうことばを そしてしるしを
ここで ぼくらは生きており ぼくらは ここでこそ 美しい

そしてここで黙り込み ぼくたちは現実(うつつ)を掻き乱す
だがもし 現実との決別が辛く困難なのならば
そのときは生命が その決別に割り込むだろう

まるで 自分で勝手に発されながらも
ぼくらには聞こえぬ知らせのように

そして ぼくらから退いたあとも
水のなか 茂みが映り込むように
知らせは隣に居座るだろう ぼくらなきあと
座を占めるため
ぼくらにのこるは役目を終えた
ぼくらの 場所

ひとの占める空間に
とって替わられるのは
ただ生命の占める空間だけであるようにと
いつ どんなときも

コンスタンチン・イワノーフ(チュヴァシ語)

Эс пирĕнтен те çамрăкрах,
чăваш поэзин чаплă ашшĕ.
Эс - иртнĕ кун. Çав вăхăтрах
эс халăх кăмăлĕн малашĕ.

Эс - пирĕн аслă çĕнтерÿ,
эс - пĕтĕм çут çанталăк панă
асамлă вăй, тĕлĕнтерÿ.
Çĕр-шыв хăйне санра упранă.

Эс, çÿллĕ пăнчă пек,- пĕрре.
Çĕршер çĕрте асра тытмалăх
сан сассупа историре
ялан калаçĕ пирĕн халăх.

あなたはわたしたちより若いのだ
チュヴァシ詩の 偉大な父なる人よ
あなたは過ぎし日 だがあなたは
民衆の未来の理想でもある

あなたは わたしたちの偉大な到達点
あなたは 輝ける全き世界の王
魔法の力であり 驚異である
大地そのものが あなたの中で 守られていたのだ

あなたは一人 あたかも高き点のよう
この世には 記憶に留めておくべきものが百もあるが
歴史のなか あなたの声で
呼びかけられてきたのはいつも 我らチュヴァシの民

風に舞う紙切れ(1984)


「…とめどなく変わり映えのない手紙を書いていたかった。『もうだめだ なぜかこうなってしまったんだ。生きることはなにかそんなような感じのものではないようだし 理由などわからないし わたしはといえばまるでずっと気が狂ってるみたいで』と こんなことは誰にも言えやしないし 終いまで読んでくれ これを拾う誰か いま似たようなことを何か考えている人かもしれないし まさかどうでもいいわけではあるまいに これがわたしなのかきみなのかということが 終いまで読んでくれきみがぼくに宛てて書いているかのように。『すっかりわかりかけてきてる あてどなさのようなものが それは固有のものかもしれないし ぼくが持ち合わせているものかもしれないし ぼくは生き長らえていくのだろうし よくわからないけどそうしなきゃいけないみたいだから ぼくはずっと頭がおかしいみたいで…』」

朝焼け:窓のむこうの白樺(1967)


そしてまるで 「無限ヘト-ノビル-絹糸」のよう 
底しれず パチパチと爆ぜ: ボクノセイデ 病んでいる 
「神ト-トモニ-魂ヘト向カウ-ヨウニ-叫ブモノノ-ホウヘ」!— 
庭から 眩ませるのは: 

拡がりながら!— 

恐怖に まるでナイフで切り裂かれたような恐怖にまで至る

なでしこの花 — 「すべて」のあとに (1982)

パウル・ツェランの記憶に 

じゃあ 「しろさ-ぁ」?… 

( ボクハ イナイヨ ) 

じゃあ 「し-ぃろさ」かぁ…

*Айги, Геннадий Николаевич (1934-2006)

03 8月 2015

青山真治演出『ワーニャおじさん』

2014年12月21日に、笹塚ファクトリーで上演された青山真治演出による『ワーニャおじさん』についての感想文です。
感想をまとめる時宜を失したままでしたので(工藤の怠惰のせいです)、上演後友人に送ったメッセージを編集しながら転載します。いまさらですが。

2014年12月22日
00:24 青山真治の『ワーニャ』、最高!ではないけど、みて良かった感じ。どうしてもマールイ劇場(ペテルブルグ)のと比べてしまうから酷な話ではあるけど

00:24 いま『ワーニャ』をやるとしたらソーニャが強くなきゃいけない、という認識は青山も持っていて、でもその強さの表れ方がすごく日本っぽくて

00:24 ロシア人ver.だとソーニャに弱いんだけど強がってる感じが出てて、それはそれで泣けるんだけど、青山の演出だとソーニャがまるでロボットみたいな喋り方をするんです。日常にすっごい耐えて耐えているうちに感情を殺すことを覚えてしまった感じの。

00:24 それで最後にその殺していた感情のストッパーが外れてワーニャの頭を足で蹴るシーンがあった、そこに彼女の全部の感情を持っていってて、すごくよかった。

00:25 ワーニャの役者もすごくうまかったよ。ソーニャと同じく日常で抱え込んでしまった不甲斐ない思いをすべて語尾に「〜(笑)」をつけてなんとか慣れようとする感じの喋り方で、これが、うまかった。

00:25 日本でいま上演するに際してよく練られた感情の出し方だったと思う。日常に耐えて耐えてついにはその歪みに耐えられなくなって精神病的なやり方ですべてを吐き出してしまう。

00:25 それで、SFっていうのは心配してたより前面に出てはなかったんだけど、でも「教授先生と新妻」は、異世界の惑星に降り立った地球人のようなものなのかな、とは思った。確かに衣装的にも、全員がツナギを着ている中でその二人だけは(ツナギを着てるけども)コートを羽織ったりレースをつけたりしている

00:27 「他者」の視点の提供者です

00:30 あとジンワリきたのが、最後の「そして、ゆっくり休むの。」みたいな台詞が、「息をつくの。」という訳になってて、生硬だなあとおもったけど、何度も聞いてるとそんなことはなくて

00:31 「息をつく」= 1,休憩する 2,息を尽く(死) 3,呼吸をする
の三段階の意味層があって、それっていうのはロシア語でも

00:35 отдыхатьというときに、1,休憩する 2,от+духで呼吸(生)からの離脱
という少なくとも二層の意味があるようにみえるのと対応してるんかな、と思った。

01 8月 2015

タルコフスキー×タルコフスキー

ほら 夏がやってきた
こんな夏はいままでなかったみたいで
日なたは暖かいのだけれど
ただ それでは足りない

起こりえたことはすべて
5本指の葉のように ぼくに
ぼくの手に真っ直ぐ落ちてきた
ただ それでは足りない

よくないことも よいことも
ただ徒に無駄になったのではない
すべては明るく輝いていた
ただ それでは足りない

生命が翼の下に連れていく
守って そして救ってくれた
ほんとうに ぼくは運がよかったのだ
ただ それでは足りない

葉に火は点けられず
枝は砕かれなかった
日は ガラスのように 洗われて

ただ それでは足りない


*息子のアンドレイの『ストーカー』(でしたっけ)で引用されていた父アルセーニイの詩篇です。

31 7月 2015

いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想

東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: http://raftweb.info/chekhov)。
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。

7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くところです。相手がいなくても、なんと自然に聞こえることでしょうか。チェーホフのセリフ作りの巧妙さと恐ろしさをいま一度確認できた気がしました。
カンパニー自体昨年結成されたばかりのようで、今後が楽しみです。


7/27 shelfによる『三人姉妹』をモチーフにした公演『三人(姉妹)』
まず冒頭で「カチューシャ」が流れるところから、期待外れな感じを抱いてしまいました。チェーホフの戯曲ほど軍歌(というか戦時歌謡)の合わない演劇はありません。そういった熱から一番遠いところで成立しているのがチェーホフだとわたしは思っているので。
この演出の肝は、おそらくそういった的外れかつ時宜を得ない歌曲の使用と、俳優たちによるグロテスクに引きつった過剰なセリフ回しの2点でしょう。そして自信を持って、二つとも成功していないと言えます。
俳優たちはわざとセリフを調子外れかつグロテスクな喋り方で表に出していくわけです。それはおそらくシリアスさの方面(例えばそれによって劇自体を解体してしまうような「うまくいかなさ」の表象を目すなど)を志向しているのではなく、ファニー・ユーモアの方向を目していることは明らかです。セリフを過剰なエモーションと表情によって出すことで、チェーホフのセリフを絶対化しないで笑ってみせる、そうした試みは理解できます。しかし欠点は、それがまったく面白くないという点です。おそらく俳優たちはベストを尽くしているでしょう。直前に一人降板した事情を鑑みても、俳優たちの演技に特に不足はないように思えました。どうしてなのか、わたしにはうまく言えませんが、チェーホフを笑う試みが、この演出ではまったく成功していない。そのせいで劇中に生まれるはずだった面白さが、まったく面白くないという意味で別次元のグロテスクに陥ってしまっており、結論としては退屈でした。そもそもこれがチェーホフの演劇、しかも「三人姉妹」である必要はあったのでしょうか。
チェーホフを笑うことは非常に困難です。笑ってみるならば底なしにやってみるがいいでしょう。今回の場合はどこか不徹底な印象を受けました。チェーホフは強い劇作家です。真剣にやるにせよやらぬにせよ凡百の演出はチェーホフと戦っても惨敗するのがオチでしょうが、百に1つくらいはその勝負において勝ちとは言わないまでも引き分け程度の成果を収めることができる演出があるという可能性に、わたしはこれからも賭けていきたいのです。今回の演出はそうした百に1つの演出ではなかった、と、それだけの話ではあるのですが。おそらくわたしはたった1時間の演劇に求めすぎなのでしょう。

30 7月 2015

清竜人についてのメモランダム

友人に誘われて1/30、渋谷のO-EASTにて、グループイノウ、 the band apart、清竜人25が出演するイベントをみました。

グループイノウは最近はまっていて、もちろんすごく良かったのですが、それ以上に強い印象を残したのが清竜人25で、もうそれはポスト=アイドルのアイドルグループであるという一点に尽きるのですが。

清竜人といえば、あの凡庸な歌詞と非凡な自己プロデュースのミクスチュアである「痛いよ」みたいな楽曲(PV)でそもそもから名はあったわけで、プロデュースのされかた/しかたは、どこか中村一義とか初期七尾旅人風の、「触れると切れるような」系・サブカル/左に親和性のある天才・非凡さをフィーチャーする感じだったと思うのですが、歌詞をよく読んでみると、どちらかというと実は西野カナ系であり、十分にメインカルチャーである素地をもった人ではなかったでしょうか。

アルバムを出すたびに化けていって化けていって、ついに「アイドルグループ」に辿り着くわけですが、これは彼自身の「非凡な凡庸さ」とでもいうべきそういった素養を、うまく自己言及的で・いかにも際どいアイドルグループ、というかたちでうまく昇華し得た結果だと思います。というか彼の素質がそこまで導いた・そこに辿り至らざるを得なかった、という言い方が正確かもしれません。

清竜人本人をセンターとして、彼を「夫」、その他6人のメンバーを「妻(第○夫人)」とする発想は最高にイカれています。それをフェミニズムの視点から批判することは、例えばライバッハをシオニズム団体が批判するくらいセンスがないことです。だって最高にバカらしいじゃないですか。

観客はねじれた位置に置かれます。なぜならすでに最初から「恋愛可能性」が去勢されているからです。
アイドルグループ中興の祖AKBグループが、私的恋愛を禁ずるところにプロデュースの要を置くことで、オーディエンスとの「恋愛可能性」を措定し、「誰のものでもない女の子」を演じていたのと、それは正確に対応しています。
清竜人25という場で「逢いたい気持ちがあふれてるの」と歌われる時、逢いたさの対象とは、オーディエンスではあり得ず、ただ清竜人ひとりなのです。

そうしたねじれた関係性の劇場としてのアイドル、関係性の極北としてのアイドルである清竜人25なわけですが、アイドルについてこうしてことばを費やすことほど野暮で非生産的なことはないので、いい加減にしますが、要約を許していただけるなら、それはやはり、「かわいい」と、この一言に尽きるでしょう。

10 6月 2015

セルゲイ・エセーニンの詩

シャガネ、ぼくの、シャガネ
ぼくが北から来たせいでしょうか
きみに野原のことを話そうと思うのです
月夜に波打つライ麦について
シャガネ、ぼくの、シャガネ

ぼくが北から来たせいなのでしょうか
あそこでは百倍も月が大きくて
シーラーズもかくやというほどです
リャザンの曠野ほどよいものはありません
そう思うのは ぼくが北から来たせいなのでしょうか

きみに野原のことを話そうと思っています
ぼくの髪はライ麦からもらってきたのです
もしよければ 指にとって編んでください
まったく痛くなどありませんから
きみに野原のことを話そうと思うのです

月夜に波打つライ麦について
ぼくの縮毛で占ってくれませんか
大切なひと、からかって、笑って
でもぼくの中の思い出だけは呼び起こさないで
月夜に波打つライ麦の思い出だけは

シャガネ、ぼくの、シャガネ
あそこ 北のほうにも 女の子がいるんです
怖いほどきみに似た女の子が
もしかしたらぼくのことを想っているのかもしれません
シャガネ、ぼくの、シャガネ

*シャガネはグルジア女性の名前



*(ある女性への手紙)

覚えていますよね
もちろん全部 あなたは覚えている
ぼくがどんなふうに
壁に張りついて 立ちすくんでいたか
いらいらしてあなたは部屋中歩き回って
で なんだか尖ったものを ぼくに
ぼくの顔にぶつけてきたのでした。
あなたは言っていましたね
「もう別れる頃合いだわ」と
ぼくの気狂いじみた生き方が
あなたをへとへとにしてしまうと
あなたは仕事に取りかかる頃合いだと
でも 遠く 下に
転がっていくのがぼくの宿命
愛しいひと!
ぼくを愛してはくれませんでしたね。
知らなかったでしょうね、大衆の群れのなかじゃ
ぼくは馬のよう 汗まみれでへとへとにさせられていたなんて
容赦ない馬乗りの 鞭を喰らって。
知らなかったでしょうね、
ぼくが 一面の靄のなか
嵐でばらばらになった日々のなかにいて
出来事の宿命がぼくらをどこに連れて行くか
それがわからず 苦しんでいたことなんて。
顔と顔を突きあわせるのに
お互いの顔を見ることができませんでした。

大きなものが 遠くに見えます。
真っ平らな海が 沸き立つときには
船は悲惨な状態に置かれるのです。
この世は船です!
でも誰かがいきなり
新しくて生き方のため 新しい栄光のため
嵐と吹雪のど真ん中に
堂々と この世という船を進めていったのです。

さて ぼくらのうち 大きなデッキの上で
落ちもせず げろも吐かず 悪態も吐かなかったのは誰だったでしょう?
精神が経験豊富で 揺れる中でもしっかりしていられる
そういうひとは少ないのです。

そのとき ぼくも
荒れる騒音を聞きながら
それでもやるべきことを知っているひとに見えた
ひとのげろを見なくて済むように
船倉へと降りていったのでした。

その船倉こそが
ロシア場末の居酒屋だったというわけです。
コップにかがみ込んで
誰のことにも 心を痛めないで
酒に乱れて
自分をめちゃくちゃにしたのです。

愛しいひと!
ぼくはあなたを苦しませてしまいました
あなたの疲れ果てたその眼に
憂いが宿っていましたね。
あなたの前で見せびらかすように
ぼくが騒ぎに飛び込んで自分を無駄遣いしたから。
でも知らなかったでしょうね、
ぼくが 一面の靄のなか
嵐でばらばらになった日々のなかにいて
出来事の宿命がぼくらをどこに連れて行くか
それがわからず 苦しんでいたことなんて。

いまはもう年月が経ちました。
もうそんな年齢(とし)ではなくなりました。
感じ方も考え方も違います。
祝いのワインを手に こういうのです。
「操舵手(*)に誉れあれ!栄光あれ!」と
いまではぼくは
優しい気持ちで意気揚々としています。
あなたの悲しい疲れを思い出していました。
ぼくは全力疾走してあなたに伝えたい
ぼくが昔どんなで
ぼくに何が起こったか!

愛しいひと!
喜んでこう言わせてください。
ぼくはすんでのところで崖から落ちずに済みました、と。
いまじゃぼくは ソヴィエトで
一番熱烈な同伴作家ですよ、と。
ぼくは あの頃そうだったような人間では
いまはもうないんですよ、と。
ぼくが前からこうであったなら
あなたを苦しめることもなかったのですが、と。
自由の そして
明るい労働の旗のためならば
ラ・マンチャにでも行く準備はできているんです、と。
ぼくを許してください・・・
知ってはいるんです あなたがそんなひとではなくて
生真面目で賢い夫と
暮らしているってことを。
あなたには ぼくらの厄介ごとなんて要らないんだってことを。
ぼくだってあなたから
一銭だって必要ではないのです。
星があなたを導くがまま
生きていってください
新しい住処の天幕の下で。

敬具
あなたをいつまでも覚えています。
あなたの知人
セルゲイ・エセーニン。


(*)この二枚舌的な詩から、ロシア革命下の生活も伺い知ることができよう。「操舵手(рулевой)」という単語は、ソ連時代にはそのまま「共産党」を指した。

*(1925年11月30日)

なんて夜! だめだ。
眠れない。月がこんなに明るい!
まるでぼくがまだ大切に持っているようだ
喪った若さを 心のなかに。

冷めきった歳月の 女ともだち、
遊びを愛と呼ばないでほしい
それよりこの月の光が
ぼくのほうへ 枕元に流れ込むにまかせたほうがずっといい

引き攣った顔の輪郭を
無遠慮に 月の光がなぞるにまかせておこう——
だってきみは愛情を冷ますことなんてできっこない
ちょうどきみが愛することもできなかったように

愛することができるのは、ただの一度だけ
だからきみはぼくに他所よそしいんでしょう
どうして菩提樹は徒(いたず)らにぼくらを手招きするのだろう
その脚を雪だまりに埋めて。

だってぼくも知っているし きみもわかるだろう
月のこの照射のなか 青く
木の脚のうえでひかっているのは 花びらでなく——
雪と霜だということを。

なぜ長いことぼくらは愛することを忘れていたのだろうか
きみはぼくでなく ぼくも他の女(ひと)を
ぼくらはどっちにしたって 別に構わない
安っぽい愛で遊んだって。

でもやっぱり撫ぜてほしい 抱きしめてほしい
ずる賢い情欲にまかせてキスをしながら
心臓に 永遠に 5月の夢をみさせておこう
そして永遠にぼくが愛するあの娘の夢を

(*)2行目の「月がこんなに明るい」は下手な意訳。原文は「Такая лунность!」、「このような月-性(月が月であること?)」が直訳になるだろうか。センスに痺れる。


*(1923)

こんなに疲れたことはかつてなかった。
この灰色の寒さと粘り気のなかで
ぼくは夢にみた リャザンの空を
そしてぼくの気狂いじみた人生を。

たくさんの女のひとが ぼくを愛した
ぼく自身 一人の女だけ愛したわけじゃない
このせいじゃなかろうか 昏いちからが
ぼくを 罪つくりに慣れさせるのは。

果てしない泥酔の夜々
バカ騒ぎのなかで愁いを打棄ってしまえ!
このせいじゃなかろうか ぼくの眼を
青い葉のようにうじが流れていくのは?

だれが裏切ろうと 痛みはない
たやすい勝利も嬉しくはない——
金の干し草色だったあの髪の毛が
灰色にかわってしまった。

灰と水に姿を変えるのだ
秋の沈殿物がそろそろと濾しだされてくる時には。
過ぎ去った歳月たち 君たちを惜しむまい——
何ものも元に戻らないでほしい。

徒らに自分を痛めつけるのに疲れてしまった
奇妙な笑みを貼りつけた顔で
わたしはこの軽い身体にまとうのが好きだった
しずかな光と死人の安寧を。

今ではもう辛くはない
巣窟から巣窟へふらふらと歩いていくことも
拘束衣に包むように
世界をコンクリートのなかに入れてしまおう。

そしてぼくの中では 同じ掟にしたがって
狂ったような熱情が静まっていく。
ところが結局礼節を尽くして向き合うことになる
いつだったか愛した あの野はらと

楓の下でぼくが育った あの地方
ぼくは色褪せた芝生のうえはしゃぎ回ったものだが——
雀たち カラスたちに 挨拶をおくろう
夜にすすり泣く梟にも。

ぼくは彼らに 春の隔たりのなかこう叫ぼう
「愛しい鳥たち 青い戦慄に身を震わせて
伝えてほしい ぼくはもう喧嘩はやめたんだ、と——
風でも吹きつけて ライ麦の
下腹を殴りつけはじめておけばいいさ。」


*(1925。最後の詩)

さよなら 友だち さよなら。
素敵な人 きみはぼくの胸のなかにいます。
定めだったこの別れは
この先での再会を約すもの。

さよなら 友だち 手も振らず 別れも告げませんが
悲しまないでください 悲しみに眉を曇らせないで——
この生のなかで 死ぬことは別に目新しくもない
だが生きることも 当然だが より目新しいということはない。


*Есенин, Сергей Александрович (1895-1925)

07 1月 2015

オシープ・マンデリシュタームの詩



ただ 子どもの本だけを 読むこと

ただ 子どものもの思いだけを 慈しむこと

大きなものは すべて 遠くに吹き飛んでしまうこと

深い悲しみから 立ち上がること



わたしは人生に 死ぬほど 疲れてしまった

人生からは なにも 受け取らないだろうが

わたしのかわいそうな大地を 愛してしまっているのだ

他のものを 見たことがないから



遠くの庭で わたしは 揺られている

簡単な 木の ブランコの上

そして 高く 暗い 松の林を

ぼんやりとした うわ言のなかで 思い出している





やさしいものより やさしい

あなたの かお

しろいものより しろい

あなたの て

せかいの すべてから

あなたは とおくはなれたところに

あなたの すべては

にげられぬものから はなれてとおく。



にげられぬものから

あなたの かなしみは とおく

そして まだ ひえきっていないことばの

ての ゆび

そして まだ ふさぎこんでいない

ことばの

しづかな おと

そして あなたの ひとみは

とおくへだたり。


Два стихотворения из сборника стихотворений О. Мандельштама «Камня»
*Мандельштам, Осип Эмильевич (1891-1938)