新潟県立近代美術館における会田誠展について
帰省したついでに新潟県立近代美術館で2015年9月から11月まで開催されていた会田誠の個展「ま、Still Aliveってこーゆーこと」に行きましたが、肝っ玉の小さな展覧会でした。彼の展示があれだけ議論を呼んだ直後にやるということは、勇気のある決断なのかと思いきや、単に中止する勇気がなかっただけでは、と穿った見方をさせてしまうのも仕方のないことではないだろうか。
なぜかといえば、各作品の隣に配置された「ヒント」と名付けられたプレート、あるいは館によって展示室前に掲げられた前言などが鑑賞者に一つの見方を強いるからだ。それはつまり会田の「コンセプトを鑑賞者が適切に理解せず」(本当にこういうニュアンスでした)ポリティカルな見方が横行していること、会田が「コンセプチュアルアーティスト」(に過ぎぬの)であり、「ポリティカル」な見方は「誤読」(本当にこう書いてあった)であるということ、こういう主張に他ならない。
コンセプチュアルであることは即ちポリティカルでないことなのか?会田が創作の中心に据えているものは、あくまでもポリティカルなものが中心ではなかったか?
新潟県立近代美術館は、徹底的に会田の政治性を無害化し「コンセプト」としてだけ鑑賞させようとしているふうに思われた。しかし美術館の内部で完結する「コンセプト」になんの意味があるのか? というよりそうした形骸化したコンセプトをこそ会田は批判対象としていたのではなかっただろうか?
それは会田が意図しているであろう自作品の機能とオーバーラップされているが故に非常に巧妙かつ隠密であるが、まず第一に作者会田に失礼であり、そして鑑賞者に対しても失礼な計らいである。
勇気がない、失礼である、事態はおそらくそれだけに留まらない。美術という無限の解釈を可能にするべき領域で一つの見方を強いることは暴力に他ならない。
美術館がある一人の作家と協働することを選択した場合には、作家に寄り添って可能な限り創作を扶けるべきだし、館として開催を決めた限りは展覧会に対する批判に対しては作家と共に共闘するべきではないかとわたしは思う。だから本来なら近代美術館には、こういったエクスキューズなしで勝負してもらいたかった。作家とともに鑑賞者を挑発することを妨げるべきではなかった。ただ同時に、新潟(ごとき)の県立美術館(ごとき)にこんなことを求めるのは無理のある話だとわかっている。新潟県立近代美術館は闘いを放棄して、なあなあにうまくやっていくことを選択した。
こうしたことを踏まえてしかしなお、いま新潟県立近代美術館に足を運ぶのも損ではないと思うのだ。私が述べたこうしたことに疑問を持てるか持てないかというところに、おそらくメタな意味としての鑑賞者としてのあなたが問われていると思うからだ。
新潟の、県立の施設で、現代美術作家の個展を開く、というのは、良くも悪くもこの程度なのだ。親切な「ヒント」、絶え間ない無毒化、言い訳、「誤読」(誰の?)。そしてそれこそ10代の会田が憎悪した"新潟"そのものではなかったか。
よろしい、会田誠の個展を、このタイミングで県立の施設で開催すること。それは一つの果断だし、何はともあれ私たちは新潟に縁のある一人の重要な現代美術作家の代表作を総ざらいできるのだ。
しかしやはりわたしは主張したい。後々の現代美術を考えた時に、このような形式での展示は許してはならない。きっと作品の力と、社会へのレスポンスとしての美術の意味を殺してしまうだろうからだ。
なぜかといえば、各作品の隣に配置された「ヒント」と名付けられたプレート、あるいは館によって展示室前に掲げられた前言などが鑑賞者に一つの見方を強いるからだ。それはつまり会田の「コンセプトを鑑賞者が適切に理解せず」(本当にこういうニュアンスでした)ポリティカルな見方が横行していること、会田が「コンセプチュアルアーティスト」(に過ぎぬの)であり、「ポリティカル」な見方は「誤読」(本当にこう書いてあった)であるということ、こういう主張に他ならない。
コンセプチュアルであることは即ちポリティカルでないことなのか?会田が創作の中心に据えているものは、あくまでもポリティカルなものが中心ではなかったか?
新潟県立近代美術館は、徹底的に会田の政治性を無害化し「コンセプト」としてだけ鑑賞させようとしているふうに思われた。しかし美術館の内部で完結する「コンセプト」になんの意味があるのか? というよりそうした形骸化したコンセプトをこそ会田は批判対象としていたのではなかっただろうか?
それは会田が意図しているであろう自作品の機能とオーバーラップされているが故に非常に巧妙かつ隠密であるが、まず第一に作者会田に失礼であり、そして鑑賞者に対しても失礼な計らいである。
勇気がない、失礼である、事態はおそらくそれだけに留まらない。美術という無限の解釈を可能にするべき領域で一つの見方を強いることは暴力に他ならない。
美術館がある一人の作家と協働することを選択した場合には、作家に寄り添って可能な限り創作を扶けるべきだし、館として開催を決めた限りは展覧会に対する批判に対しては作家と共に共闘するべきではないかとわたしは思う。だから本来なら近代美術館には、こういったエクスキューズなしで勝負してもらいたかった。作家とともに鑑賞者を挑発することを妨げるべきではなかった。ただ同時に、新潟(ごとき)の県立美術館(ごとき)にこんなことを求めるのは無理のある話だとわかっている。新潟県立近代美術館は闘いを放棄して、なあなあにうまくやっていくことを選択した。
こうしたことを踏まえてしかしなお、いま新潟県立近代美術館に足を運ぶのも損ではないと思うのだ。私が述べたこうしたことに疑問を持てるか持てないかというところに、おそらくメタな意味としての鑑賞者としてのあなたが問われていると思うからだ。
新潟の、県立の施設で、現代美術作家の個展を開く、というのは、良くも悪くもこの程度なのだ。親切な「ヒント」、絶え間ない無毒化、言い訳、「誤読」(誰の?)。そしてそれこそ10代の会田が憎悪した"新潟"そのものではなかったか。
よろしい、会田誠の個展を、このタイミングで県立の施設で開催すること。それは一つの果断だし、何はともあれ私たちは新潟に縁のある一人の重要な現代美術作家の代表作を総ざらいできるのだ。
しかしやはりわたしは主張したい。後々の現代美術を考えた時に、このような形式での展示は許してはならない。きっと作品の力と、社会へのレスポンスとしての美術の意味を殺してしまうだろうからだ。
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