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「ゆめみるけんり」vol.2を出版しました

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「ゆめみるけんり」vol.2を出版しました。今回の特集は「わたしと、はたらくこと」。
わたしは、パーヴェル・フロレンスキーの手紙と、Kindle版限定でセルゲイ・エセーニンの詩を訳しています。また、前号から引き続きニコライ・フョードロフのエッセイも掲載しました。「著作者の義務と、博物館=図書館の権利」というタイトルで、博物館・図書館論の前半です。

その他今号のコンテンツはこちらをご覧ください。
https://droitdeyumemir.blogspot.jp/2017/09/new-issue-coming.html

書籍版は書店で細々と展開を開始したところですが、もし欲しい方がいらっしゃいましたらわたしまで直接お問い合わせください。
Kindle版はこちらです→http://amzn.asia/eJpuau0

詳細は、「ゆめみるけんり」ブログまで。https://droitdeyumemir.blogspot.jp/

ロシア宇宙主義2017

最終更新:2018年1月7日

2017年、われわれ(誰)は紛れもない「ロシア宇宙主義」イヤーを目撃しました。疑いもなく、いま全世界規模でロシア宇宙主義がキています。この全人類的なプロジェクト=事業をただ静観していることはできません。そういうわけで、私なりにこの記事を書くことで、宇宙主義に燃料を投下することにしました。この記事を書く目的としては、乖離してしまっているロシア界隈における宇宙主義と、アート界における宇宙主義の橋渡しをしたいということがあります。
文中「★」印部はリンクになっています。

 #ロシア宇宙主義イヤーとしての2017@日本 日本でも遅滞なく、宇宙主義に関係するイベントが何回か行われました。

*ボリス・グロイス「ロシア宇宙主義」翻訳(上田洋子訳、『ゲンロン』〈2〉所収、2016)
+ ★ボリス・グロイス氏来日レクチャー(2017年1月20-21日)
+ MADレクチャー「★無限を探して―ロシア宇宙主義と美術館」(講師:ロジャー・マクドナルド氏、11月16日)
+ アントン・ヴィドクル「ロシア宇宙主義:三部作」上映@★ASAKUSA
+ アントン・ヴィドクル氏座談会(12月17日)
などなど、以上はわたしが参加したもののみ挙げてみましたが、5つのうち3つ(グロイスとヴィドクル)は浅草のギャラリー「ASAKUSA」の周りのプロジェクトのようですから、この熱意に本当に頭の下がる思いです。

 #ロシア宇宙主義リヴァイヴァル さて、このアート界における宇宙主義ブームの端緒はどこにあるのでしょうか。

2人のキーパーソンがいます。ボリス・グロイス(Boris Groys;1947-、ロシア出身のアートクリティーク)とアントン・ヴィドクル(Anton Vidokle;1965-、ロシア出身のアーティスト)です。
(いま出生年を調べていて、この二人にはほとんど一世代ほどの開きがあるということを知りました。ヴィドクルが宇宙主義について知ったのは、グロイスから聞いたのが最初だったそうです。)

グロイスは、もともとソ連後期のコンセプチュアリズム(コンツェプトゥアリズム)を同時代的に批評することで名が知られるようになりました。そもそも“コンセプチュアリズム”なる用語も、彼の「ロシアのロマンチック・コンセプチュアリズム」(★拙訳;1978)という論文によって広…

アンナ・アリチュークの詩

十二のリズミカルな休止 1984-85

一、(G.Ts.に) 雨、彷徨い
ぽつねんと、鏡の岸辺佇み
海の羽毛をもつ鴎たちの歔欷のなか
動きを止める
  砂のうえに浪はなだれ落ちない
そして赤い筆のなか太陽が砕け散る

百回ほども筆跡の波が打ち寄せ
遠くへ 悲しみになってこぼれ散った
          黙りこんで散歩する悲しみに

二、 時間の蜘蛛の巣に捕えられた焔の野つつじ
びっしり走ったこの葉脈の虜
大気の刺すような眩いばかりの戦慄のなか
花輪の衣服の、風との戯れ

このように手をかたどった陶器は消える
掌のなか遠方の貝殻となって……

三、 スカラベたち
  それぞれの体中に渓流ながれ
彼らだったろうか 身体のまわりで
腕を流れていったのは
砂のうえに立ちながら 目にしなかったわけはあるまい
波なす髪の房が顔に打ち寄せるのを

風がつくりあげた紋理をもつ
砂丘のような花弁を

四、 エルフの身体 そしてことば
砂のうえに 蝶の耳殻

大気のなかに 泉あり
青のうえ 枝の起源に脈うつ
(根のほうに向かわぬ川)

木々が飛んでゆく……

五、ミニュアースの娘たち こだまによって嚇しつける蒼穹
          すっと貫く葦笛
草叢=広間で
眼のなかの琥珀の豹の
           そして
壁がこんなにも薄くなってゆく
          鳥たちが飛びくる
葡萄の蔓を振りはらい
夜明けにディオニュソスを根づかせ

諸空間の大気を熨しつつ……

六、 橡色のひと群の葉のところ
硝子の後宮で
月の梯子を長く わたしは伸びる
息づまりの水晶
空たかく砕け散り

《落陽の瓦のあいだにあって
エルフは笑いながら溶け消えさることができた》
だが月の蜂巣のなかへと陥りながら……
青みの上の天使的な? 友情、それは――
(神話にいう
  すもものような
   天国の樹の溶岩)
目を釘付けにする物ものの発光へと連れ去ってゆくこと

七、雨 石のうす煙り…
葡萄のなす穹窿が照らしだされる
アーチの切り立った調べに

八、 燈明の大伽藍
昏い枝を鴨が揺らした
湖水上の空で

九、 幼時の紙片の
    翼をひろげた
船はしおれた蝶のほうへ

ただ今より

熱心さ と 雨
野ばらの大好きなひと滴

空から落ち……

十、 誘われるような草の海
生命樹Thujaの孤独

陶器のカタツムリは灰まみれだ
部屋の植物を這いのぼる
伸びゆくバイオリンのような
フルートの

澄みわたる空

十一、 硝子で触れつ
何十億もの月の飛沫
腐敗の
   その瞬間
去っ…

ルィ・ニーコノヴァ(アンナ・タルシス)の詩

◆ あまりにも
空に
たくさんの雲 ―― 堪えがたい

1962

◆静物画 ライオン ライオン と ライオン

1964

◆ ネズ ミが
ひと くみ

1965

◆ む
 ら
  さ
   き
    い
     ろ
      の
む ら さ き

1965

◆ 白痴だらけのこの世界ではみな白痴だ
白痴は一人ひとりそれぞれに歩いてゆく

白痴だらけのこの世界ではみな愛国者だ
愛国者は一人ひとりそれぞれに歩いてゆく

白痴はそれぞれ各様に暮らしている

この世界で
この世界では
みな――白痴だ

1965

◆ そこに縄が巻きついているとき
 そこからは引っ張ってくるようなものは何もない

1966

◆ 蠅 は い な い

1966

◆“ドキュメンタリー”詩シリーズ『アミン』(1969)より 公園で座っている
足をぶらぶらさせている



背中が凍えそう



テーブルが
覆われた
白いテーブルクロスで

◆シリーズ『トートロギヤ』(1969)より「1917年十月」 十月
十月 と
十月

◆ リズム と鶴の感覚
水牛  と垣根の感覚
感覚  と二月の
感覚
頭飾りがもたらす感覚

1969

◆1970年
いち に
いち に
いち に
いち に

1970

◆ ぐんたい くんくん

1970

◆ 静まり まり まり まり
だまり まり じめじめ=しめしめ
そして落ちる 落ちる
そ、それからどっかに どっかにいく

1970

◆ ね
はなして
はなして
   軽やかにはなす

1970

◆ コ ン
バ イ ン

1971

◆ バ ケ
 ツ

1971

◆風景 ストッキング
ストッキング
ストッキング
毛糸玉
毛糸玉
穴あきボートのある川岸
      ボート

1972

◆ おまとりょーな
ちもふぇーゆゔな
あまとりょーしゃ
ちぇみゃふぇーゆちか
うむとりゅーんな
ちみふぃーいちこ
きんぴかーちゃん
こぺーいか銭のように

わたしに尋ねて
ぺーちかから降りるわ
ぺーちかを追って出ていくわ
がちょうを捕るわ

そのがちょうは飛びたたない
開かれないし
ばらばらにはならない、ぺーちかは
ただわたしは出ていくだけ

お、まとりょーにゅしか
ちもふぇーゆしか
あまとりょーなちか
ちゃまふゃーしゅにか

1973

◆ 暗やみの中でランプの輪郭が暖まって
重苦しい時の梟が手のひらに降りてくる
手がそっと揺れ 嵌めた腕輪に呼吸…

セルゲイ・ザヴィヤーロフの詩

破壊の書(1985-86)
◆ 秋に
雨を待つ  乾いた落葉
堅いアスファルト  夜の運河の波音
世界の崩壊は  おまえだけに聞こえる  捕えるな
  その退屈させるようなリズムを
  微笑み
と眉墨が腫れ上がった幾世紀のうえに浮かぶ
汚れた軍用衣
未成年者たちが煙草に火を点け  喧しく笑う
  彼らの手は労働者の手
  もう自分自身に耳を傾けるな
彼らとともにいなさい
世界のなか
  すべて言うことなしの世界のなかで

◆ この秋は風がない  かろうじて感じるだろう
  眼に見えぬ肉が触れるのを
触れながらも引き留めることはかくも困難だ  嘆息ならぬ嘆息の
  一どきの喘ぎのうえに
おまえの想像が生んだ母国から  かろうじて気づくほどの徴
  己のものだと思い込んでしまったという、徴

◆ 己れの故国を見いだせ
己れの発話の  感覚に耳を傾けよ
鏡のなかの狼男を見つめよ
副詞を探り当てよ そのなかでは
  自分自身との対話におまえは加わるのだろう
石の強度を確かめよ  家へと
  伸びる路の石の

◆サッフォー風詩体 道すがら彼女に会ったか、メルクリウス
早朝に微笑んだだろうか、ウェヌスは
冬に北風の神ボレアスの家に吾らを
  置き去りにせず。
ひたすらに天井は高くなり、そして鮮やかに
輝いたのだ、突然に、物体の角を縁どるように
毛皮を脱ぎ捨て ニンフがみなし児のペナテスに
  笑いかける、その時に。
そして私を、薄汚いスキタイ人の奴隷にでもしてくれ
冬眠もせずぶらつく熊の生贄にでもなろうではないか
もしも私が忘れることがあったなら
  溢れくる涙の喜びを。

眠るとき、人は背を向け壁と向きあう(ヘラクレイトス、断章89から)

一、

  そうしてかくて今でも
下劣にもあなたを忘却している
日々にもいつもそうであるように
  あなたの下僕を赦し給う  支配者よ
荒廃しきった心を持つわたくしは
痛悔の気持ちに駆られることもなく
  罪のなか寝入る
そしてあなたとは言葉を交わさぬ  あなたの
憐みを垂れ、また罰する御手が
  我が両の眼に映りながらも

二、

  私ははじめようと思う
妻(さい)よ  見てほしい
この夜に 雪がいかに月並であるか
  ユリウス暦の降誕節前夜だ
舊約によるゴグとマゴグはどこかへ行ってしまい
出くわすことになる  状況の転換に
  だからもう寝た…

アルカージイ・ドラゴモシェンコ『家と木々のあいだに』(抄)

アルカージイ・ドラゴモシェンコの長編小説『家と木々のあいだに』(1978)からの断章です。難しかった…。 Аркадий Драгомощенко: отрывок из романа "Расположение среди домах и деревьях" (1978)

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時おり明け方に、心臓が痛むことが、私にはある。煙草をよく喫う。明らかに、年を重ねるごとに喫う量は増えている。パイプを吸うのだが、煙草が見当たらない。だから自分なりに煙草を考え出してみたのである。にもかかわらず、必要があれば、この煙草を煙草屋で購うことができる。君は、近寄って、肘で寄りかかった格好で、おしゃべりをするだろう。ああだこうだ、あそこじゃどうした、つまりいま現在世界で何か起きているのかということ、それから静かに話をするのだ……人々は御しやすく、飲み込みが早い、めったにないほど。ほんとうに、こめかみのところで指をぐるぐるしているような頭のおかしい人たちに出会うことは、——そうだ、なにしろよくあることではない、例外なくあらゆる人が君を理解してくれるほどには。見えない針。それは素敵だ。冷えている、まったく氷のようになって、完全に冷たくなる、針は死んでゆく、光沢が失われて、存在しなくなる。息をしろ。日暮れ時、太陽の手で破壊されて、空、だれか。
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こちらからどうぞ↓ https://note.mu/pokayanie/n/nfbac217f1d5e
Драгомощенко, Аркадий Трофимович. 1946-2012.

ワシーリイ・ローザノフ『孤絶して』(抄)

ワシーリイ・ローザノフのエピグラム集『孤絶して』(Уединенное)より。途中で飽きたので、とりあえず。

『孤絶して』(抄)


夜半に風が騒ぎ、葉が運ばれてゆく…。生なるものも同じように、速い時の流れの中で私たちの心から、叫び、嘆息、ぼんやりした思い、漠然とした感覚を奪い去ってゆく…。それらは音の断片でありながら、手を加えられることなく、目的も、意図もなく、——造りあげられた部分など片鱗もなく——心からそのまま「散り落ちてしまった」というところが重要だ。ただ「心は生きている」…すなわち「生きた」のであり「息絶えた」ということなのだ…。長いことわたしはこの「思いがけない叫びたち」が、なぜか好きだった。叫びは、私たちのなかに、絶え間なく流れ込んでくるのだが、それを書きつけることは(手の下に紙などない)できないまま、それらは死んでゆく。そして二度と思い出すことはないのである。それでも、多少は紙に書きつけることができたのだった。書き散らしたものがかなり溜まっていった。それでわたしはこの散ってしまった葉、葉を拾い集めることにしたのである。 何のために? 誰に必要だというのだろう?

ただ——わたしには必要なのだ。あぁ、善良なる読者よ、私はもう長いこと「読み手のないまま」書き連ねてきた。ただわたしはそうするのが好きだから。「読み手なし」でどうして出版などできよう…。ただ単に、そうするのが好きなのだ。もし何かの間違いでこの本を買ってしまった読者が本をゴミ箱に捨てたとしても(おすすめは、ページを破かないようにして目を通したら、ページをまっすぐに揃えて、半額で古本屋に売ってしまうことだ)、わたしは泣きもしないし、腹を立てもしない。 読者よ、わたしはお前には遠慮しない。だからお前もわたしに遠慮しなくていい。 「クソが…」
「クソが!」

そしてau revoir(さようなら)、あの世で再会するその日まで。読者と一緒にいるのは、独りでいるのよりもはるかに退屈なことだ。読者は口を大きく開けて待ちぼうけているのだ。君ならどうする? そういう場合、喚き始める直前に、読者はロバに姿を変えているのである。その光景はとてもきれいだとは言えない…。やりきれない…。どこかの「音信不通の友人」に宛てて、または「誰にも宛てず」書くことにする…。 ◆

デカダン派の人々がわたしを訪ねてきたことがあったが、夜…