クラースヌイ・ファーケル劇場「三人姉妹」

久しぶりに、これは自分のために感想を書き残しておかねば……という鑑賞経験をしたので、クラースヌイ・ファーケル(レッドトーチ)劇場の来日公演『三人姉妹』(10/18-20@東京芸術劇場)について、感想を書き記したいと思います。あくまで、傍観者として、一観客としての鑑賞記録です。

画像は、東京芸術劇場HPより

チェーホフについていえば、わたしが成長=加齢するのに歩を合わせるように、その年どしでわたしは好きな戯曲に出会われてきました。大学1〜2年生のころは『かもめ』でしたし、大学後半では『ワーニャおじさん』でした。そもそもわたしは実際にすぐれた劇を見ることでしかチェーホフを自らの体験とし得ないできたわけで、『かもめ』についても『ワーニャ』についても、その時どきにある演出と出会うことによってチェーホフは「わたしの劇作家」になってきました(最初にみた『かもめ』はよく覚えていないが、重力/Noteの『かもめ』公演はわたしにとって特別な経験になっているし、『ワーニャ』は青山真治の演出やペテルブルグのMDTで見たことを覚えています)。そのようにして、今年のわたしにとっては、決定的な2本の『三人姉妹』を偶然立て続けに観たことで、2019年は『三人姉妹』の年となったと言うことができます。

チェーホフの劇は、つねに夢、あり得たかもしれない別の現実、ここではないどこかをめぐって展開します。『かもめ』は挫折した夢を前に死を選ぶ劇でした。『ワーニャ』は取り返しのつかない挫折の後に、慰めつつもどうにかして“その後”を生きていく話です。それと比べるなら、『三人姉妹』はどうか? おそらく、話じたいは『ワーニャ』の延長線上にあって、夢の終わりに焦点が当てられていますが、相違点として挙げられることとして、まずは『三人姉妹』のほうがずっと生命に、現実にちかい劇であるということが言えないでしょうか。『ワーニャ』における結論とは、「時が来たら、おとなしく死んで行」くこと、それまではもう少しだけ辛抱することでした。そこにおいては、死後の目線から、現在のやり切れない生が思い出され、救済されます。しかしチェーホフにおいては、『かもめ』から『ワーニャ』を経て、『三人姉妹』・『桜の園』に至ると、死後から今を生きていくことに重点が移ってゆくように思います。「生きて行」くこと、わたしたちの生や苦しみの意味が「わかりさえすればねえ!」(『三人姉妹』)。「行きましょう」、「ここから、出て行きましょうよ」、「さようなら、古い生活」、そして「こんにちは、新しい生活!……」(『桜の園』)。

しかしながら『三人姉妹』において、「その後を生きていくこと」は、両義的な意味合いを持っている。わたしが今年見た2本の『三人姉妹』は、この意味で好対照をなしていると言えます。わたしが見た『三人姉妹』は、9月のモスクワ旅行の際に見たモスクワのオレグ・タバコフ劇場のものと、ノヴォシビルスクのクラースヌイ・ファーケル(レッド・トーチ)劇場の来日公演の2つ。どちらもロシアの演劇らしく、4幕のチェーホフ劇をしっかりと4幕、おおきな省略・解釈抜きで演出しています。タバコフ劇場の演出(アレクサンドル・マーリン演出)は、上演中観客からの笑いが絶えない、非常に愛されるタイプの劇だったと言えます。姉妹3人の造形も、時に可愛らしく、時に切ない。総じて、物語を進行していく楽器のリズムが心地よく(「軍楽はあんなに楽しそうに鳴っている」)、オーソドックスな演出と言えるでしょう。そして最後の「生きていく」ことの決意は、当然シリアスなニュアンスで言われますが、それでも全体としての印象は明るいままであり、暖かい気持ちで見終わることができます。(ところで、チェーホフのこの「軍楽」です。なんと、チェーホフは恐ろしい作家なのでしょうか。まさに希望が断ち切られ、戻ることも先に進むことも許されず、無残に非情な現在のみが立ち現れるあの瞬間に、能天気な軍楽が流されるわけです。「どうだって、同じことさ……」。私たちのあいだには、こんなにもおおきな隔たりがある。)

一方、クラースヌイ・ファーケル劇場(以下「KF劇場」)の『三人姉妹』(チモフェイ・クリャービン演出)は、全体として、非常にシリアスで、緊張感に満ちた舞台でした(とはいえ、笑えるシーンももちろんいくつもあったことは付け加えておきます)。緊張感はいったいどこから醸し出されてくるのでしょうか? まず言っておかねばなりませんが、KF劇場の『三人姉妹』の最も顕著な特徴、それはロシア手話を用いた演劇であるということです。ただし、俳優たちの用いる言語がロシア手話ではあっても、厳密な意味で手話による演劇ではありません。つまり、クリャービンの演出において、手話はきわめて戦略的な表現の手段として用いられており[*註]、耳が聞こえるわたしとしては、音による会話が聞こえない分、その他の音に傾注することになる。すると、手話を用いていて、音とは縁遠いはずのこの演出には、むしろ音が充溢していることに気づかされるはずです。足音、ハンドクラップ、スマホの着信音、音楽、皿のぶつかる音、ハイヒール、笑い声……。ほとんど過剰なまでに音が立ち現れてきます。ですから受ける印象は、手話の演劇であるという先入観とはまったく正反対に、かなり「やかましい」劇であるというものです。時にはそれがインダストリアルなリズムとして感じられてくる瞬間も多くあり、その意味ではタバコフ劇場の演出とも通底したところはありそうです。そして俳優たちの肉体もまた、手先のみならず、動きに動きつづけます。「手話による劇」という条件が、まったく「制限」としては感じられず、むしろ豊かな表現の充溢として感じられてくるわけです。そこには嘘がない、という言い方はあまりに甘く響くにせよ、俳優たちの小手先的「ゆとり」が少なく、直球でぶつかってくるような感触の演劇です。音や肉体的な動き、さらに字幕付き公演ということから目で追うことになる字幕……こうした要素がかなりヘヴィーに五感に訴えかけてくるので、もちろん4時間あまりの演劇そのものは楽しみながらも、観客側もかなり神経を使う劇になっています。

さて、チェーホフ劇で、登場人物たちの会話は常にお互いに通じず、すれ違っています。お互いにどこか疲れていて、自分のことに精一杯で、ほとんど独り言が羅列されているように見えます。つまり、ツイッター的なのですね。KF劇場の演出では、俳優は音声では会話しませんが、それを代弁するかのように、手話があり、あふれんばかりの物音があります。物音たちは、動かされる身体から、物と物の不意の接触から発せられます。音声でのコミュニケーションをあえて制約するコミュニケーションのなかで、それはあたかも、身体や物たちの発する気配・匂いのようなものとして耳で知覚されるのでした。音声がなくても、私たちはこんなにもコミュニケーションを欲している……しかし、それらのほとんどは、受け取られることがないまま消えてゆく(つんつん、という相手への接触がなければ、手話でのコミュニケーションは開始できない)。当然のことながら、溢れるばかりに発せられる物音は、登場人物の誰一人として、耳にすることがない(という設定です)。それらの受け手になれるのは、観客、それも「耳の聞こえる」観客のみ、というわけです。

KF劇場の演出において、あの「わかりさえすればねえ!」は、ディスコミュニケーションの末の断末魔のようにも聞こえ、高まりゆく軍楽をかき消すかのように、ノイズの音声がいや増してゆき、あらゆる音を、つまりあらゆるコミュニケーションへの希望を、飲み込んでいくようにして劇が終わります。この演出は、チェーホフ劇のコミュニケーション(あるいはディスコミュニケーション)の問題をもっとも先鋭的なかたちで問いかけているとわたしには思われました。ぞくぞくするような冷たい興奮を感じながら、幕は閉じ、私たちはディスコミュニケーションの都を横切って帰路についたのでした。

###

(付記1)この演出における字幕を投影しながらのチェーホフ体験は、自分にとってはかなり良かったです。それは、セリフ回しに邪魔されないなかで、実際の劇の進行と俳優の動きを追いながら、逐語的にチェーホフの言葉遣いを吟味できたからです。それが古い神西清訳であったのも、まるで本を片手にした観劇といった趣きで、個人的には嫌いではなかったです(とはいえ、それが邪魔になったという意見も理解できます)。

(付記2)チェーホフをいま、上演することの意味の半分くらいは、おそらく4戯曲のすべてが(強いて言うなれば)「女性をめぐる戯曲」になっているからじゃないかなと思っています。ちょっとそれを説得できる形で展開できないのですが、ニーナやソーニャ、3人の姉妹たち、桜の園の女たち……チェーホフの劇を思い返す時に、常に頭に生き生きと浮かんでくるのは、何よりも劇中の女性たちの姿ではないでしょうか。ついにこの野蛮な国でもフェミニズムが根付きつつあるいま、時代状況に巻き込まれる女性にじっと眼差しを注ぐチェーホフ劇はまだまだしっかりと読み返されてよいと直感しているのですが。

###

*註:「文化の盗用」を指摘する感想には、真摯に向き合わねばならないでしょう。

・文中の引用は、ちくま文庫の松下裕訳を主に参照しています。
・下記HPを参照しました。
東京芸術劇場公演ページ:https://www.geigeki.jp/performance/theater221/
オレグ・タバコフ劇場(Московский театр Олега Табакова):http://www.tabakov.ru/performances/tri_sestry/
クラースヌイ・ファーケル劇場(Новосибирский государственный академический театр «Красный факел»):http://red-torch.ru/program/info/three-sisters/
utikenさんの感想:https://note.mu/utiken/n/nd7404a6a8c7c

コメント

このブログの人気の投稿

ローベルト・ムジール『特性のない男』

父からの手紙

これが死後の世界なのかもしれない@ロシア(2019年09月)