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ローベルト・ムジール『特性のない男』

だからなんだよ。 まるまる一ヶ月ほどかけて読み通した。 この本を手にする者の最初の関門であるところの第一部第1章からしてもう閉口しそうになるのを押さえながら読み始めた。 この本ほど読むのがきつかった小説は今までに読んだことがなかった。大西巨人「神聖喜劇」は高一の時に「入学記念」として図書館で読んだ経験があるが、しかし話自体が非常に面白かったので、高校生であってもさほど苦労はなく読めた気がする。 しかしムジール ( 表記は手元の訳書に従う ) は。晦渋な文章、日常のあらゆることに対する偏執、子細なことに何百もの単語を費やす律儀さ、実感がわかないこと、などすべての要素が相まってこの本を読みにくくしている。 まず「特性のなさ」を把握するのに苦労する。 ( 一応の ) 主人公ウルリヒには、我々が今、現代的意味において認識しうる「特性」というものを持っているように、一見して思われる。しかし我々の言うそれはいわば「個性」として認識しなければならないのであって、「特性 (Eigenschaft; 英語で言う qualities) 」とは、また別物であるようだ、ということがだんだんにわかってくる。 「・・・特性をもつということは、その特性のもつ現実性へのある歓びを前提とする以上、自分に対してさえ何の現実感覚も感じない人間が、ある日突然に、自分は特性のない男なのだと自覚する・・・」 (<Ⅰ 巻 > 第一部第 4 章 ) 「現実感覚」に対しては「可能性感覚」が語られる。 「・・・それは可能な現実 [= まだ生まれない現実 ] にたいする感覚なのであって、たいていの人間に属している現実的な可能性にたいする感覚よりも、はるかにゆっくりと目標に到達する。」 ( 同 ;[] 内は工藤による挿入 )   つまり、要約を許してもらえるならば、現実問題よりも可能性の問題 ( 現実から乖離した問題でなく、現実の延長線上にありうべき問題 ) について重きを置くある種の ( 「優性」の )” 理想家”が、この場合ムジールのいう「特性のなさ」なのではないだろうか。「 ( 現実的 ; 社会的 ) 特性」と補ってもいいかもしれない。 ( 複数形になっているのが気になるが。 ) ムジールの難解さは、私がここまで書