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イーゴリ・セヴェリャーニンの詩

シャンパン漬けのパイナップル!シャンパン漬けのパイナップル!
驚くほどおいしくて、シュワシュワでパチパチ!
ぼくはどっぷりノルウェー産のシャンパンに!はたまたスペインのシャンパンに!
プツっと湧くインスピレーション!で、筆を執る!

ヒコーキはアブ!クルマは疾走!
特急が風笛を吹く!ヨットは翼で飛ぶ!
こっちじゃ誰かがキスされて!あっちじゃ誰かがぶん殴られた!
シャンパン漬けのパイナップルは パーティの脈動さ!

神経質なお嬢さんのグループに、ご婦人連の刺激的な集まりに
ぼくは人生の悲劇というやつを見せてやる、夢まぼろしの茶番劇でね!
シャンパン漬けのパイナップル!シャンパン漬けのパイナップル!
モスクワから ナガサキへ! ニューヨークから 火星へ!

1915


*イーゴリ・セヴェリャーニン(Игорь Северянин、1887–1941)は「自我未来派(エゴフトゥリズム)」に数えられるアヴァンギャルド期の詩人。『シャンパン漬けのパイナップル』は彼の代表的な詩。他に、「俺は、天才イーゴリ・セヴェリャーニンさ!」から始まる『エピローグ』の詩も有名。革命前ロシアでデカダン的な生活を送り、革命後早い段階で亡命。
マヤコフスキーは『ズボンをはいた雲』などで揶揄。

文字13(上映会のために)

以下に載せるのは、21.11.2012-25.11.2012の期間中、東京外国語大学「外語祭」のなかで工藤が企画した上映会のレジュメからの抜粋です 企画について詳細はこちらを参照してください→ http://tweetvite.com/event/tufsrus2012
(1)ヴェルトフ「と」"カメラ" – "映画眼киноглаз"概説
 革命前後のロシアで「ロシア・アヴァンギャルド」という潮流がロシア芸術界を席巻する。その波は文学・絵画・演劇・写真・建築・音楽など文化のあらゆる側面に浸透し、文字通り芸術のあり方を全く変えてしまった。その波は、登場したてのメディアであった映画の分野にも浸透した。むしろ、新しい、無垢なメディアであるからこそ、芸術の新時代を夢見た同時代の芸術家たちを刺激した。そして現在、映画が、リュミエール兄弟やメリエスを脱し、”芸術”(*ヴェルトフ自身は「芸術」という呼称を嫌っていたが)の一形態となるきっかけが、先行するグリフィスや同時代のドイツ表現主義に並び、この時代に潜んでいる。
ヴェルトフは、エイゼンシュテインとともに、モンタージュ理論形成のパイオニアである。両者の考え方をあえて単純化するならば、エイゼンシュテインが、事実の、フィクションの次元での「再構成」を図ったとすれば、ヴェルトフの目指したものは、「事実そのもの」を、”映画眼”を通して組織化(秩序化)し把握することである(*ここで一定の留保をつけるなら、「事実そのもの」など今も昔も存在しないということであって、恐らくヴェルトフの限界はここにある)。
ヴェルトフにとって”カメラ”とは人間には認識不可能な「いまそこにある現実そのもの」を知覚可能にするものである。彼によれば、人間の眼が一元的(知覚即認識ないしは知覚→認識の線がかなり短い)である一方、カメラの認識段階は多元的である。そして、認識の段階一つ一つにモンタージュが伴う。観察時/観察後のモンタージュ、撮影時/撮影後のモンタージュ、目測、最終的モンタージュ。ヴェルトフらキノキの考えによればこの6段階のモンタージュがカメラに伴っている。そしてそれぞれのモンタージュは、「可視世界の組織化」の役割を果たす。この「組織化」とは、ヴェルトフにとっては、世界をマルクス主義的に文脈づけることを意味する。
従ってヴェルトフに…

文字12

無数の悪意がわたしを押しつぶすようであればいい

カタルシツ『地下室の手記』

守護天使の死
わたしがいままで完全に自分とシンクロできた主人公が2人いる。ブレッソンの『白夜』とカタルシツ『地下室の手記』の主人公だ。見終わったあとに思わず「これは俺だ!」と叫んだ作品はいままでにこの2つだけだ。

この際実際に主人公が「わたし」であるかは重要ではなく、むしろ見終わったあとに「これは俺だ!」と思わせてしまうだけの強さ・俗に言って説得力が、確かにドストエフスキーの物語には備わっていることこそがわたしにとっては唯一重要なことなのだ。だからわたしが決してドストエフスキーを客観視できないことには、正当な理由がある。いやが応にも主人公がわたしだと感じさせてしまう強制力がある、その強さのせいでそもそも読む段階から主人公をわたしと同定して読むしかないのだ。

この劇は、観客に二重の枠構造を強烈に認識させることから始まる。2つの枠とはつまり「前口上」によって成る枠、そして「ニコ生」によって成る枠だ。
開演前のアナウンス終了後2分くらいして、ピンスポットに照らされて男の顔がこちらを伺い見る。ここがすでに劇の始まりなのだが、果たして本当にそうなのか。「駆け込み乗車」の話から、「これから始まる『地下室の手記』とかいう話」の話、演出家の話、口を指して「これセリフだからね?」というなど。またこの前口上の中でこの語りが「ニコ生」配信されるトークであることが明かされる。この枠の設定は劇全篇に渡り有効であり、物語に没頭しその枠を忘れそうになるたび上のほうにコメントが流れることによって枠を再び現前する。
こうしてこの2つの枠を設定することは、「見ること」「観客であること」を強烈に認識させてしまうのだ。わたしはただ「観る者」に過ぎない、劇は透明なディスプレイの向こうに存在する。

この劇で一番誠実なのは、基本的に男の妄想一人語りがのみに成るこの劇のなかで、唯一の大事件である「女」の話のパートだ。
風俗の女が、男に救ってもらいたくて男の部屋にやって来る。女は言う。「わたしを救いなさい!そうしたら2人こういう生活から抜け出せる」と。男は受け入れる。女を押し倒す。暗転。
再び明るくなった舞台は、どこか空気が違う。セックス後の倦怠感とかいう生易しいものではない。何かがおかしい。女が服を着るなか男は虚脱した様子で椅子に座っている。「なんかごめん」と男。観客のほうも女とともに、何かが変わってしまったと感じ取るだろう。…

文字11

【引用】 「......でもそのあとかっと目を見開いたんだ、で、鏡を見たら、そこには、目を見開いて、おびえきった顔の男が映ってて、そいつの後ろには、二十歳くらいなのに見かけはあと十は上の男がいて、髭もじゃで、目の下には隈、がりがりに痩せてて、鏡に映った二人の顔を俺の肩越しに見てるんだ。実はそう見えたかもはっきりとは言えないが、無数の顔が見えたんだ、まるで鏡が割れてたみたいに、もちろん割れてなんかいないのはよく分かってたけど。......」
【コメント】 一枚の鏡がある。その銀の光沢を眺めれば、必ずや「ぼく」の顔が見つめ返してくるだろう。その像はいかなる意味においても「ぼく」であるはずだ。なぜならその像が「ぼく」であると認識するとき、その認識の始原ではやはり鏡の中の「ぼく」が見つめ返しており、ぼくの人生で初めて鏡を見た時のその像に拠って、ぼくは「ぼく」を自称し得るからだ。少なくとも写真や映画が発明されるまではそれが唯一ぼくが「ぼく」であることを確認する手段であったし、しかしそれでも写真などの映像メディアにはタイムラグがあるがゆえに、リアルタイムメディアである鏡のその地位は揺るがないだろう。「ぼく」は鏡に向かって視線を放つ。鏡はそれを左右逆転させてぼくの瞳孔に「ぼく」を投げ返してくる。ぼくが頭の中でそれを処理する段階で、ぼくが変らず「ぼく」であることを確認できるとしたら、それは「ぼく」の一番最初の鏡像が存在しているからだ。ぼくはその意味で相対的に「ぼく」であるに過ぎない。ぼくは自分の顔を見ることが出来ないからだ。 だが、ある日をきっかけに、あるいは何のきっかけもなく、その参照関係が崩れたとしたら、いったいぼくはどうなってしまうのだろう。ぼくがふと何気なく鏡を見る。すると鏡から見つめ返してくるのはまったくの別人なのだ。


ここではまさにそういう事態が描かれている。だがここでもっと不気味なのは、その「別人」具合が明らかにされないからだ。この文章は、2人の男の会話の中で、一方の男が回想して語る台詞の一部だ。そういう枠構造がある以上、語り手の男の造形が第三者の視点から客観的に語られることがない。だから「目を見開いて、おびえきった顔の男」と書いてあっても、まずいつも通りの「男」の造形が分からないため、どの程度違うのか分からない。鏡に映し出されているもう一方の男、アルトゥーロ・ベラーノにし…

文字10

スケジュール帳のKがまた別のKに変わる

文字9

きさまらが仮装をしている間に
わたしは人間のふりをしてニヤリと笑ってみせた

31.10.2012