カタルシツ『地下室の手記』

守護天使の死


わたしがいままで完全に自分とシンクロできた主人公が2人いる。ブレッソンの『白夜』とカタルシツ『地下室の手記』の主人公だ。見終わったあとに思わず「これは俺だ!」と叫んだ作品はいままでにこの2つだけだ。

この際実際に主人公が「わたし」であるかは重要ではなく、むしろ見終わったあとに「これは俺だ!」と思わせてしまうだけの強さ・俗に言って説得力が、確かにドストエフスキーの物語には備わっていることこそがわたしにとっては唯一重要なことなのだ。だからわたしが決してドストエフスキーを客観視できないことには、正当な理由がある。いやが応にも主人公がわたしだと感じさせてしまう強制力がある、その強さのせいでそもそも読む段階から主人公をわたしと同定して読むしかないのだ。

この劇は、観客に二重の枠構造を強烈に認識させることから始まる。2つの枠とはつまり「前口上」によって成る枠、そして「ニコ生」によって成る枠だ。
開演前のアナウンス終了後2分くらいして、ピンスポットに照らされて男の顔がこちらを伺い見る。ここがすでに劇の始まりなのだが、果たして本当にそうなのか。「駆け込み乗車」の話から、「これから始まる『地下室の手記』とかいう話」の話、演出家の話、口を指して「これセリフだからね?」というなど。またこの前口上の中でこの語りが「ニコ生」配信されるトークであることが明かされる。この枠の設定は劇全篇に渡り有効であり、物語に没頭しその枠を忘れそうになるたび上のほうにコメントが流れることによって枠を再び現前する。
こうしてこの2つの枠を設定することは、「見ること」「観客であること」を強烈に認識させてしまうのだ。わたしはただ「観る者」に過ぎない、劇は透明なディスプレイの向こうに存在する。

この劇で一番誠実なのは、基本的に男の妄想一人語りがのみに成るこの劇のなかで、唯一の大事件である「女」の話のパートだ。
風俗の女が、男に救ってもらいたくて男の部屋にやって来る。女は言う。「わたしを救いなさい!そうしたら2人こういう生活から抜け出せる」と。男は受け入れる。女を押し倒す。暗転。
再び明るくなった舞台は、どこか空気が違う。セックス後の倦怠感とかいう生易しいものではない。何かがおかしい。女が服を着るなか男は虚脱した様子で椅子に座っている。「なんかごめん」と男。観客のほうも女とともに、何かが変わってしまったと感じ取るだろう。何かがおかしい、と。
このパートの最後はまさに戦慄すべきものだ。去り際に女が感極まって男に抱きつき号泣する。男はそれに戸惑い、避けるように身体を引き離してしまう。そしてタンスの上にあった金を女に押し付けるのだ。
金...!ここで観客の側から「えっ!」という声が上がったのを覚えている。風俗店で金を払ってセックスをしなかった男を頼って来た女との関係を、金に集約してしまう!
この男の行動を「ひどい」といって指弾することは簡単だろう。だが少なくとも私にはそうする権利はない。なぜなら男はわたしだからだ。
金を介在さえさせなければ、本当に2人は救われたかもしれない、新しい生活のほうへ歩き出せたかもしれない。
だがリアルにはそんな希望など存在しない。救済の物語は嘘ばっかりだ。どうせ存在しない希望ならば、持ち上げられて叩き付けられる前に、自分ですみやかに救済を粉砕すべきだ。
ここには「守護天使」などいない。男がわたしたちの目の前で殺すのだ。
「救済」の安逸な物語を目の前で粉砕することに、この作品の誠実さがある。

...だがより根深い問題、それはこうして述べたこと自体、劇中で男の口から述べられてしまっているということだ。もはやエクスキューズにならないエクスキューズ。エクスキューズのエクスキューズ。男の語りは混迷をきたす。もはやこの次元では、わたしがこうして「クソブログ」に文章を載せるということ自体、エクスキューズにしかならないだろう。こうして男=わたしは、全方位を批判しながら、その全方位に自分がいることを発見してしまう。その果てにあるのは死だろうが、男は死にさえもしない。永遠に自分の傲慢な怒りの矛先に自分をおきながら自意識の中で、わたしと一緒に腐っていくだろう。


27.07.2013
カタルシツ『地下室の手記』
@赤坂RED/THEATER

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