文字11


【引用】
......でもそのあとかっと目を見開いたんだ、で、鏡を見たら、そこには、目を見開いて、おびえきった顔の男が映ってて、そいつの後ろには、二十歳くらいなのに見かけはあと十は上の男がいて、髭もじゃで、目の下には隈、がりがりに痩せてて、鏡に映った二人の顔を俺の肩越しに見てるんだ。実はそう見えたかもはっきりとは言えないが、無数の顔が見えたんだ、まるで鏡が割れてたみたいに、もちろん割れてなんかいないのはよく分かってたけど。......

【コメント】
一枚の鏡がある。その銀の光沢を眺めれば、必ずや「ぼく」の顔が見つめ返してくるだろう。その像はいかなる意味においても「ぼく」であるはずだ。なぜならその像が「ぼく」であると認識するとき、その認識の始原ではやはり鏡の中の「ぼく」が見つめ返しており、ぼくの人生で初めて鏡を見た時のその像に拠って、ぼくは「ぼく」を自称し得るからだ。少なくとも写真や映画が発明されるまではそれが唯一ぼくが「ぼく」であることを確認する手段であったし、しかしそれでも写真などの映像メディアにはタイムラグがあるがゆえに、リアルタイムメディアである鏡のその地位は揺るがないだろう。「ぼく」は鏡に向かって視線を放つ。鏡はそれを左右逆転させてぼくの瞳孔に「ぼく」を投げ返してくる。ぼくが頭の中でそれを処理する段階で、ぼくが変らず「ぼく」であることを確認できるとしたら、それは「ぼく」の一番最初の鏡像が存在しているからだ。ぼくはその意味で相対的に「ぼく」であるに過ぎない。ぼくは自分の顔を見ることが出来ないからだ。
だが、ある日をきっかけに、あるいは何のきっかけもなく、その参照関係が崩れたとしたら、いったいぼくはどうなってしまうのだろう。ぼくがふと何気なく鏡を見る。すると鏡から見つめ返してくるのはまったくの別人なのだ。

 
ここではまさにそういう事態が描かれている。だがここでもっと不気味なのは、その「別人」具合が明らかにされないからだ。この文章は、2人の男の会話の中で、一方の男が回想して語る台詞の一部だ。そういう枠構造がある以上、語り手の男の造形が第三者の視点から客観的に語られることがない。だから「目を見開いて、おびえきった顔の男」と書いてあっても、まずいつも通りの「男」の造形が分からないため、どの程度違うのか分からない。鏡に映し出されているもう一方の男、アルトゥーロ・ベラーノにしてもその状況は同じだ。どこが「別人」なのか、分かったところで別人の像であることは変らないにしても、「どう違うのか」がわかれば少しは分析的な目を持つことも可能になろう。だがここでは読者の目にまるで一枚ベールが掛けられたかのようだ。「よく見えない」ことは「見えないこと」よりも不安だ。「見えない」とき、わたしたちは存在を感じることさえない。だが「よく見えない」ときには不定形で曖昧だがしかししっかりとした形のある「存在」がたしかにあるのだ。それは恐ろしい事態だ。その存在がわたしにとって善いものなのか悪いものなのか分からないうちは、わたしのほうでもどう接触したらいいのかわからないからだ。存在と存在の間を薄気味悪さが支配する。
さらに恐ろしい事態は続く。無数の顔が見えてしまう。文章からは誰の顔だか分からない。もしかしたら鏡を覗く2人の男の顔が増殖しているのかもしれない。しかしここで無人称の「無数の顔」が表しているのは、恐らくそういうことではない。映し出されているのは誰ともつかぬ無限の顔だ。ここで少し開示することにすると、この物語の語り手はチリで左翼勢力の弾圧に関わった刑事たちであり、ベラーノはその弾圧の対象になった男だ。鏡を覗く1人は、その刑事の片方だ。その刑事が、鏡を見た時にみる無数の顔とはなんだろうか。
おそらく、弾圧の犠牲になった人々の顔であるはずだ。いままで刑事たちはリストに従って、尋問をこなしてきただろう。そうして一人一人「処理」していく過程で、尋問される一人一人の顔は消え失せ、数値化されたデータになるだろう。ある程度は仕事だから。しかしある程度は自分の精神の状態を安定させておくために。そうでもしなければ人の顔・顔が語りかけ、弾圧する者は狂ってしまうだろう。
それが、鏡の中で起こる。当然自分の顔が映し出されるはずだった鏡の中から、こころのなかに隠しておいた犠牲者の顔・顔・顔が無数に浮かび上がってくる。
男は度を失ってしまう。それがこの男の語る物語の結末だ。男が過去に向き合う原因となったベラーノを、男は射殺しようとする。無数の顔たちと同じように。それは当然のことだ。所詮一の者である人間は、無数の者には勝てないからだ。男は、自分にはどうしようもない「無数」を消し去るためピストルを手にするだろう。それは一時しのぎにしかならないが、せめて自分の慰みにはなるはずだった。
 
ピストルの引き金を引くのは簡単なことだ。狙いを定めて頭に一発撃ち込むだけでいい

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