03 9月 2017

ルィ・ニーコノヴァ(アンナ・タルシス)の詩

あまりにも
空に
たくさんの雲 ―― 堪えがたい

1962

◆静物画

ライオン ライオン と ライオン

1964

ネズ ミが
ひと くみ

1965


 ら
  さ
   き
    い
     ろ
      の
む ら さ き

1965

白痴だらけのこの世界ではみな白痴だ
白痴は一人ひとりそれぞれに歩いてゆく

白痴だらけのこの世界ではみな愛国者だ
愛国者は一人ひとりそれぞれに歩いてゆく

白痴はそれぞれ各様に暮らしている

この世界で
この世界では
みな――白痴だ

1965

そこに縄が巻きついているとき
 そこからは引っ張ってくるようなものは何もない

1966

蠅 は い な い

1966

◆“ドキュメンタリー”詩シリーズ『アミン』(1969)より

公園で座っている
足をぶらぶらさせている



背中が凍えそう



テーブルが
覆われた
白いテーブルクロスで

◆シリーズ『トートロギヤ』(1969)より「1917年十月」

十月
十月 と
十月

リズム と鶴の感覚
水牛  と垣根の感覚
感覚  と二月の
感覚
頭飾りがもたらす感覚

1969

◆1970年


いち に
いち に
いち に
いち に

1970

ぐんたい くんくん

1970

静まり まり まり まり
だまり まり じめじめ=しめしめ
そして落ちる 落ちる
そ、それからどっかに どっかにいく

1970


はなして
はなして
   軽やかにはなす

1970

コ ン
バ イ ン

1971

バ ケ
 ツ

1971

◆風景

ストッキング
ストッキング
ストッキング
毛糸玉
毛糸玉
穴あきボートのある川岸
      ボート

1972

おまとりょーな
ちもふぇーゆゔな
あまとりょーしゃ
ちぇみゃふぇーゆちか
うむとりゅーんな
ちみふぃーいちこ
きんぴかーちゃん
こぺーいか銭のように

わたしに尋ねて
ぺーちかから降りるわ
ぺーちかを追って出ていくわ
がちょうを捕るわ

そのがちょうは飛びたたない
開かれないし
ばらばらにはならない、ぺーちかは
ただわたしは出ていくだけ

お、まとりょーにゅしか
ちもふぇーゆしか
あまとりょーなちか
ちゃまふゃーしゅにか

1973

暗やみの中でランプの輪郭が暖まって
重苦しい時の梟が手のひらに降りてくる
手がそっと揺れ 嵌めた腕輪に呼吸が重くなる
心配しないで――穏やかに息をして
呼吸を鍛えて
呼吸は
まだこんなに役だつのだから

1975

◆パリのロシア公爵たちへ

あなたたち
  穢された嘘へ…
苛立ったパリを
包みこむような
織物に捧ぐように
わたしは余暇を捧げよう
至るところ駆けまわる《祖国》の
手のひらで握りしめられた余暇を…

1979


*ルィ・ニーコノヴァ(Ры Никонова)=アンナ・タルシス(Таршис, Анна Александровна. 1942-2014)。

16 8月 2017

セルゲイ・ザヴィヤーロフの詩

破壊の書(1985-86)


秋に
雨を待つ  乾いた落葉
堅いアスファルト  夜の運河の波音
世界の崩壊は  おまえだけに聞こえる  捕えるな
  その退屈させるようなリズムを
  微笑み
と眉墨が腫れ上がった幾世紀のうえに浮かぶ
汚れた軍用衣
未成年者たちが煙草に火を点け  喧しく笑う
  彼らの手は労働者の手
  もう自分自身に耳を傾けるな
彼らとともにいなさい
世界のなか
  すべて言うことなしの世界のなかで

この秋は風がない  かろうじて感じるだろう
  眼に見えぬ肉が触れるのを
触れながらも引き留めることはかくも困難だ  嘆息ならぬ嘆息の
  一どきの喘ぎのうえに
おまえの想像が生んだ母国から  かろうじて気づくほどの徴
  己のものだと思い込んでしまったという、徴

己れの故国を見いだせ
己れの発話の  感覚に耳を傾けよ
鏡のなかの狼男を見つめよ
副詞を探り当てよ そのなかでは
  自分自身との対話におまえは加わるのだろう
石の強度を確かめよ  家へと
  伸びる路の石の

◆サッフォー風詩体

道すがら彼女に会ったか、メルクリウス
早朝に微笑んだだろうか、ウェヌスは
冬に北風の神ボレアスの家に吾らを
  置き去りにせず。
ひたすらに天井は高くなり、そして鮮やかに
輝いたのだ、突然に、物体の角を縁どるように
毛皮を脱ぎ捨て ニンフがみなし児のペナテスに
  笑いかける、その時に。
そして私を、薄汚いスキタイ人の奴隷にでもしてくれ
冬眠もせずぶらつく熊の生贄にでもなろうではないか
もしも私が忘れることがあったなら
  溢れくる涙の喜びを。

眠るとき、人は背を向け壁と向きあう(ヘラクレイトス、断章89から)

一、

  そうしてかくて今でも
下劣にもあなたを忘却している
日々にもいつもそうであるように
  あなたの下僕を赦し給う  支配者よ
荒廃しきった心を持つわたくしは
痛悔の気持ちに駆られることもなく
  罪のなか寝入る
そしてあなたとは言葉を交わさぬ  あなたの
憐みを垂れ、また罰する御手が
  我が両の眼に映りながらも

二、

  私ははじめようと思う
妻(さい)よ  見てほしい
この夜に 雪がいかに月並であるか
  ユリウス暦の降誕節前夜だ
舊約によるゴグとマゴグはどこかへ行ってしまい
出くわすことになる  状況の転換に
  だからもう寝たほうがいい
だっておまえは  もうぜんぶ聞いたのだから
だが私がまだ言ってもいないことを
  おまえが聞くことはどうせないのだ
けれどももう一度  叫び声を届けたい
おまえも解らないわけはあるまい  この、
この夜、分断の夜に
  雪は月並に過ぎるものだと?

三、

  そして終いに
世界と  あなたのロゴスによる
救済 ―強く  弱く―
彼ら一族の殲滅
  壁の染みと化すまでの

◆トビリシへの招待(S.マーギドへ)

そのことばの しずかなよろこび
金の髪した女の子  ひとを従えるしなやかさを
すらりと伸びゆく日焼けを知らぬ脚に すでに具えて
それは極限まで細くなりゆく  優美な指で下へ
上へ撫ぜる  情欲が
  すこしきついほど堅く編まれた巻き毛に
こころ鎮まるようなよろこび
言語ならぬ  それはどこ  この言語の祖先たち
  ことばの
ガスに汚染されたティフリスの盆地
薄汚れた川が流れ
黄色がかった  段地に 技師らしい白い陳腐さがあり
十字架群の定かならぬ崩壊が
  ムタツミンダ山の麓のところに
あのことばの肉感的なよろこびが
和声の決裂は  生存にはなく
音楽的調和のしずかな哀悼のなかにあるのだ
いつだってまるでほんのすこしカヘティ地方の
葡萄の蔓を啜ってしまったかのごとき調和の

Me nec femina nec puer
jam nec spes animi credula mutui
(Horatius. Carm. IV. I 29-30)

[もはや私を満足させぬ] 女も小童も
互いに信ぜらるなどという軽々しい期待も


わが柔弱なる小童  わがローマ人(びと)よ
慰みの葡萄を一のみにするまで  まだ時間はある
おれに教えてくれ  五月のこの重苦しさのわけを
そして鴉の一群が  あらゆる鳥類を妨げ
             歌  緑繁りはじめた
  墓所にて
見えるか?
新たなる墓より  這い出くる  この蛆
  こんなにも脂にまみれ  薄紫色をしている
顔を背けよう、わが少年  わがリグリア人(びと)
かくも絹のごときお前の縮れ毛
お、わが無欲をおれはよろこぶ
わが肉に有難みを感じるごとく
  お前に対して無関心であるのだから



*Завьялов, Сергей Александрович (1958-)

*サッフォー風詩体は、
 ̄ ︶ |  ̄ X |  ̄ ︶ ︶ |  ̄ ︶ |  ̄ X (×3回)
 ̄ ︶ ︶ |  ̄ X
という形をとる詩型(Xはアンケプス)。
原文はこの詩形に忠実である。
встрЕтил лИ еЁ на путИ меркУрий,
... ...
нЕ покидАет.

06 8月 2017

アルカージイ・ドラゴモシェンコ『家と木々のあいだに』(抄)

アルカージイ・ドラゴモシェンコの長編小説『家と木々のあいだに』(1978)からの断章です。難しかった…。
Аркадий Драгомощенко: отрывок из романа "Расположение среди домах и деревьях" (1978)

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時おり明け方に、心臓が痛むことが、私にはある。煙草をよく喫う。明らかに、年を重ねるごとに喫う量は増えている。パイプを吸うのだが、煙草が見当たらない。だから自分なりに煙草を考え出してみたのである。にもかかわらず、必要があれば、この煙草を煙草屋で購うことができる。君は、近寄って、肘で寄りかかった格好で、おしゃべりをするだろう。ああだこうだ、あそこじゃどうした、つまりいま現在世界で何か起きているのかということ、それから静かに話をするのだ……人々は御しやすく、飲み込みが早い、めったにないほど。ほんとうに、こめかみのところで指をぐるぐるしているような頭のおかしい人たちに出会うことは、——そうだ、なにしろよくあることではない、例外なくあらゆる人が君を理解してくれるほどには。見えない針。それは素敵だ。冷えている、まったく氷のようになって、完全に冷たくなる、針は死んでゆく、光沢が失われて、存在しなくなる。息をしろ。日暮れ時、太陽の手で破壊されて、空、だれか。
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こちらからどうぞ↓

Драгомощенко, Аркадий Трофимович. 1946-2012.

12 7月 2017

ワシーリイ・ローザノフ『孤絶して』(抄)

ワシーリイ・ローザノフのエピグラム集『孤絶して』(Уединенное)より。途中で飽きたので、とりあえず。

『孤絶して』(抄)




夜半に風が騒ぎ、葉が運ばれてゆく…。生なるものも同じように、速い時の流れの中で私たちの心から、叫び、嘆息、ぼんやりした思い、漠然とした感覚を奪い去ってゆく…。それらは音の断片でありながら、手を加えられることなく、目的も、意図もなく、——造りあげられた部分など片鱗もなく——心からそのまま「散り落ちてしまった」というところが重要だ。ただ「心は生きている」…すなわち「生きた」のであり「息絶えた」ということなのだ…。長いことわたしはこの「思いがけない叫びたち」が、なぜか好きだった。叫びは、私たちのなかに、絶え間なく流れ込んでくるのだが、それを書きつけることは(手の下に紙などない)できないまま、それらは死んでゆく。そして二度と思い出すことはないのである。それでも、多少は紙に書きつけることができたのだった。書き散らしたものがかなり溜まっていった。それでわたしはこの散ってしまった葉、葉を拾い集めることにしたのである。
何のために? 誰に必要だというのだろう?

ただ——わたしには必要なのだ。あぁ、善良なる読者よ、私はもう長いこと「読み手のないまま」書き連ねてきた。ただわたしはそうするのが好きだから。「読み手なし」でどうして出版などできよう…。ただ単に、そうするのが好きなのだ。もし何かの間違いでこの本を買ってしまった読者が本をゴミ箱に捨てたとしても(おすすめは、ページを破かないようにして目を通したら、ページをまっすぐに揃えて、半額で古本屋に売ってしまうことだ)、わたしは泣きもしないし、腹を立てもしない。
読者よ、わたしはお前には遠慮しない。だからお前もわたしに遠慮しなくていい。
「クソが…」

「クソが!」

そしてau revoir(さようなら)、あの世で再会するその日まで。読者と一緒にいるのは、独りでいるのよりもはるかに退屈なことだ。読者は口を大きく開けて待ちぼうけているのだ。君ならどうする? そういう場合、喚き始める直前に、読者はロバに姿を変えているのである。その光景はとてもきれいだとは言えない…。やりきれない…。どこかの「音信不通の友人」に宛てて、または「誰にも宛てず」書くことにする…。


デカダン派の人々がわたしを訪ねてきたことがあったが、夜の1時ころにわたしは実りを得られぬ輩どもを先に解放してやった。ところがわたしときたら、最後に出ていこうとした善良なヴィクトル・ペトローヴィチ・プロテイキンスキイ(夢見がちな先生だ)を引き留めて、ドアとドアの間で見せてやったのだ…。

人間には、脚が2つある。例えばブーツ(ガロッシュ)を例にとろう。5足あると、ひどく多すぎるな、と考えると思う。ところがそのドアとドアの間には、わたしは自分でもびっくりしてしまうくらいちっちゃなブーツがどっさり並んでいたのである。ざっといくつあるか数えてみることもできないくらいだった。それでわたしとプロテイキンスキイは笑い転げてしまったのである。

「いったいいくつあるんだ!…」
「いくつ必要なんだ!…」
わたしはいつも誇りたかく「civis romanus sum(ラテン語。我はローマ市民なり)」と考えている。わたしの家では、10人で食卓を囲む。それと女中が一人いる。みんなわたしの仕事で食わせているのだ。みな、わたしの仕事の周りで世界での居場所を見つけたのである。まったくの「civis rossicus(ラテン語。ロシア市民)」、「ゲルツェン」ではなく「ローザノフ」である。ゲルツェンなぞ「歩き回って」ただけじゃないか…。

プロテイキンスキイに対して、わたしには深い経年の罪がある。プロテイキンスキイは咎めるようなことはせずに接してくれているが、わたしは、ただ疲れてしまったから言っただけだけれど、プロテイキンスキイについて馬鹿な嘲笑のことばを言ってしまったことが一度ある。彼が「決して話を終えることができない」(一つの話し方ではある)ために、わたしは疲れて、最後までじっと聞いている体力がなかったのだ…。しかもその馬鹿なことばというのは、わたしは陰に隠れて、彼がドアから辞去していったときに口にしたのだった。


世に知られないところから、我々の思考はやってきて、そして世に知られないところへ去ってゆく。

第一に:これこれのことを書くときに、座らないでいることはできない。ところがいざ腰を掛けると、まったく別のことを書くことになる。

「座りたいな」から「座った」のあいだに、1分経っただけなのである。部屋をうろうろしていたときとは違う、まさに書きだそうとして腰をおろしたときとさえも違う、この新しいテーマについてのまったく別の思考というのはいったいどこからやってくるのだろう…。



呪わしいあのグーテンベルクがその銅製の舌ですべての作家を舐め上げた。そして作家はみな「印刷のなかで」高邁な精神を失ってしまい、面目を、性格を、失ってしまった。わたしの「私」は手書きのなかにしかない。他のあらゆる作家の「私」も同じことである。きっとこのために、わたしは手紙やノート(子どものころのものさえも)、手書きの原稿を破り捨てることに迷信的な恐怖を抱いているのだろう。だから何ものも破り捨てることはなく、ギムナジウム時代の同志たちの手紙を最後の一つに至るまで保存することにしたのである。残念ではあるが、大量に積みあがってしまっていることを鑑みて、自分の書いたものだけは破り捨てる。——心の痛みとともに、それもごくたまに。

ロシア人をじっと鋭いまなざしで見つめてみてほしい…。彼はあなたを鋭いまなざしで迎える…。それですべてわかってしまう。ことばは何も要らない。

外国人相手だとこうは行くまい。 (街頭で)


ロシア人を愛するならば——教会を愛さずにいることはできない。民衆と教会は一つのものだから。そしてロシア人には、これ一つしかないのだ。 (1911年、夏)


真実は、太陽より高く、空より高く、神よりも高い。なんとなれば、神が真実から発するのでなければ、神は神でなく、空は沼地、そして太陽は銅製の皿にすぎないから。 (下敷き紙の向こう側に)


わたしは必要ではないのだ。わたしは必要とされていないということ、これをわたしは何よりも確信している。 (下敷き紙の向こう側に)



作家活動の秘密は、心のなかで永遠に強いるように流れる音楽にある。この音楽がなければ、人はただ「自分自身を材料に作家をつくりあげる」ことしかできないのだ。だがそんなものは作家ではない…。

. . . . . . . . . . . . . . .
心のなかを何かが流れているのだ。永遠に。絶え間なく。何が? どうして? なぜそれがわかるんだ? それを一番知らないでいるのが、作家なのである。 (古銭学を越えて)



生きることの苦痛は、生きることへの関心よりもはるかに強大だ。そう、そのために、いつも宗教が哲学を打ち負かすのである。 (古銭学)



永遠に夢みながら、常に一つの考えが頭にある。「どうやって仕事から逃れようか」。 (ロシア人)



あらゆる文学は無駄なおしゃべりだ… ほとんど全部… 例外は殺人的に稀だ。



2人の天使が私の肩の上に座っている。笑いの天使と、涙の天使。かれらの永遠の言い争いのテーマは、我が人生。 (トロイツキー橋で)



文学は、鷲のごとく空へと舞いあがった。すると、死んだ文学が墜ちてくる。今やもう完全にはっきりとしているのだ、文学が「探求さるべき目に見えぬ雹」などではないということは。 (透かし紙の裏側に)



笑いは何ものも殺すことはできない。笑いは、ただ締めつけることができるだけである。

忍耐が、あらゆる笑いに打ち勝つのだ。 (ニヒリズムについて)



ひっきりなしに何かをしている、なにか実行している…。 (ユダヤ人たち)



人生において活躍したいだろうか? 影響力を持ちたいか?

いや、特にそうはおもわない。
「きみたちのお母さん」(子どもたちへ)
そうして私たちは静かに生きてきた。一日、また一日。多くの歳月を。そしてこれが、わたしの人生の最良の部分なのだよ。 (1911年2月23日)



さすらい人、永遠に彷徨う者、そしてどこにいてもただ放浪者である。 (ルーガ~ぺテルブルクの車中、自分自身について)



誰が清らな心をもって地に降りてくることができようか? あぁ、我々にはいかに浄化が必要であることか。 (1911年冬)



運命が栄誉を奪い去った人々を、護ってくれるのもまた運命。 (1911年冬)

自己実現に興味もなく、あらゆる内的なエネルギーも持たず、「生への意志」もない。わたしは、もっとも実在的でない人間だ。

「なんだってお前は自分のことばかり考えているんだ。人のことを考えたらいい。」

「考えたくないなあ。」 (ペテルブルク~キエフの車中で)



何を愛してるっていうんだ、変わり者よ? 自分の夢を。 (電車で、自分自身について)



心が痛む、心が痛む、心が痛む…。

この痛みをどうしたらいいのだろう。わたしにはわからない。

だがこの痛みあってこそ、わたしは生きることを良しとするのだ。

これこそわたしにとって、わたしのなかにある、もっとも大切なもの。 (深夜に)



結婚、結婚、結婚について話しているのに…わたしのもとにやって来るものは死、死、死なのだ。



生きている間ずっと恐ろしいほど孤独だ。子供のころから。孤独な魂たちは、ひそやかな魂。ひそやかでいるのは、疚しいからだ。孤独であることの、恐ろしいほどの重さ。痛むのは、このせいじゃないのか?

これだけのせいではないが。


1年と半年ものあいだ、どうにか生きている。苦しい、悲しい。怖い。何ヶ月かの間、貨幣(古代の、観賞用)を取りだしていなかった。週にたったの50~80ルーブル稼いでいる。それでも書かれたものに対して関心がない。 (1911年12月16日)



終わってゆく、終わってゆく、人生が。止めることはできないし、時期を遅らせてほしいとも思わない。この状況におうじた意味で、すべてがどれだけ変わってきたことか。愉しみも満足もいまやどんなに欲しくないことか。お、どれほど欲しくないことか。気高さが享楽よりも甘くなる時期なのである。考えもしなかった。予想もしていなかった。 (1911年12月21日)



もしも誰かわたしに「開かれた墓陵の上で」賛辞をまくし立てるのなら、わたしは棺桶から這い出て平手打ちをお見舞いしてやろう。 (1911年12月28日)



賞賛に値する人間などいない。すべての人は、憐みに値するのみである。 (1911年12月29)


*ワシーリイ・ローザノフ(Розанов, Василий Васильевич; 1856-1919)。ロシアの批評家、思想家。性愛論でスキャンダラスな名声を博す。現代の作家では、ガルコフスキーが私淑していることが知られる。
日本語訳:『ドストエフスキイ論』(神崎昇訳、彌生書房、1962)

08 6月 2017

レオニード・アロンゾンの詩

あらゆるものの間に沈黙がある。ただそれだけが。
ある沈黙があり、別の沈黙、第三の沈黙がある。
沈黙に満たされて、それぞれの沈黙が——
詩作の網を紡ぐ材料となる。

ことばは、糸だ。ことばを針に通してほしい
このことばの糸で窓をつくるんだ——
すると沈黙はこの枠にはまって
ソネットのなかの網の目となる。

網目が大きいほど 中に絡み取られた
魂も拡がってゆく。
どんなに大漁だとて平気となる

どうやって漁師は 網に目が一つしかないような
巨大な網を
つくることができるだろうか!

1968

すべては顔——顔は顔
埃は顔、ことばは顔
すべてが顔。あの方の。創造主の。
「あの方」ご自身にだけ 顔がない。

1969

まだ朝の霧のなかにうかぶ
あなたのうら若き口唇。
あなたの體は神が投げ落としたもの
庭やその果実のように。

あなたの前に立ちつくす
頂上に横たわるように。
久しく青色が空色へと
変わってゆくあの山の。

これ以上の幸福があるだろうか、庭として
庭にあることより? 朝に朝としてあることより?
なんと嬉しいことだろう
一日と永遠を取り違えることは!

夜 橋と橋とがお互いに歩み寄る
庭も教会も色褪せてしまう 最良の金のおかげで
風景を通りぬけてベッドへときみは向かう きみだったのか
ぼくの生に 蝶のように 死んでしまうまで磔にされているのは 

1968

やれやれ、生きている。死人みたいに死に体で。
ことばは沈黙で充ち満ちた。
天が与えたもうた自然の絨毯
原初の絨毯は ぼくが丸めてしまった。

皆のまえにすべてが揃っている 夜ごとに
横になり それを凝っと見つめる
グレン・グールド――わが運命のピアノ弾きが
音楽記号を引き連れて演奏する。

ほら、悲しみのなかに慰めがある
だがその慰めはいっそう恐ろしい。
思考が湧き起こるが出くわすことはない。

大気の花、根はなく、
ほらほら、ぼくのおとなしい蝶。
こうして生が贈られた、だがその生をどうしたらよいのだろう?

1969年11月

なんと気分がよいのだろう、荒地にいることは!
神々でなく、人びとに見捨てられた場所。
雨が降る、美が濡れそぼつ
丘状に盛り上がった古い林の、美が。

雨が降る、美が濡れそぼつ
丘状に盛り上がった古い林の、美が。
ぼくらだけがそこにいて、他の人とは違う感じ。
あ、霧のなか一杯やることの幸せ!

ぼくらだけがそこにいて、他の人とは違う感じ。
あ、霧のなか一杯やることの幸せ!
飛んでいった葉の描く軌道を、
ぼくらはその葉を追いかけているのだという思いつきを、覚えておいてくれ

飛んでいった葉の描く軌道を、
ぼくらはその葉を追いかけているのだという思いつきを、覚えておいてくれ
誰がぼくらに褒美を与えてくれるのか、友よ、どんな夢の褒美を?
それとも褒美はぼくら自身が自分に与えるのだろうか?

誰がぼくらに褒美を与えてくれるのか、友よ、どんな夢の褒美を?
それとも褒美はぼくら自身が自分に与えるのだろうか?
そこで銃で自分を撃ち抜くには 何も要らない
心の重荷も レボルバーに火薬も要らない。

レボルバーさえ要らないのだ。神さまが見ておられる
そこで銃で自分を撃ち抜くには、何も要らないのだ。

1970年9月

空っぽソネット

誰が私よりも有頂天になって、君たちを愛しただろうか?
神が、君たちを、神が君たちを、お護りくださいますよう、神よ。
庭がたたずむ 庭はたたずむ たたずんでいる、夜な夜な
君たちも庭にいて 君たちもまた庭にたたずんでいる

してほしかった、そうしてほしかったよ、ぼくの悲しみを
あなたたちにこんなふうに、こんなふうに悟ってほしかった、手間をかけることなく。
夜の雑草の姿をした君たち その小川の姿をした君たち
この悲しみが この雑草がぼくらにとっては嘘となった

夜に侵入する 庭に侵入する 君たちのなかに侵入すること
眼を上げる 目線を上げること 空、空と
庭の夜を 夜の庭を 庭を 天秤にかけるため
君たちの夜の声が庭を満たす

ぼくはそちらのほうへ行く。顔は眼だらけ…
そのなかに君たちがたたずむために 庭はたたずんでいる。

1969


きみではないのか、柔さの上で気がふれて
駱駝の弛まぬ歩みをもって
すべての海をその岸となり通り抜け
夜の思考に吹雪かれたのは?

あれはきみのところにではなかったのか、一糸纏わず
武器も持たぬ天使が降りてきて
ユートピックな希望を携え
陶酔的な友誼をもとめてきたのは?

まさか海の知が
風のみ、潮騒のみであったわけではあるまい?
わたしはこの目でみたのだ。きみの天使が身を隠しもせず

ゆっくりともの想いに耽りつつ
自分の曠野、自分の分与地へ飛んでいったのを
きみの背信に顔を曇らせながら。

1969or70


*Леонид Львович Аронзон(1939-1970)。
V.クリヴーリンは、アロンゾンについて、「ヨシフ・ブロツキーのライバル」と言っている。

31 5月 2017

ボリス・グロイス「モスクワのロマンチック・コンセプチュアリズム」(1978)

抄訳です。以下のリンクからどうぞ。
訳の誤り等、ご指摘くだされば幸いです。(メールは、junk.dough@gメールドットコム)

https://note.mu/pokayanie/n/n3ba2266396fc



ボリス・グロイス「モスクワのロマンチック・コンセプチュアリズム」
初出は、サミズダート誌『37』第15号(レニングラード、1978)にB. G.名義で掲載された同論文。
Борис Гройс (под именем Б. Г.). Московкий романтический концептуализм. // Журнал «ТРИДЦАТЬ-СЕМЬ (37)», №.15, 1978. Л.:(самиздат).

『37』は、トロント大学Soviet Samizdat Periodicalsアーカイブにて閲覧可能。

29 5月 2017

モスクワ現代建築・アート事情(リンク集)

『10+1』web版の記事など。

・世界建築レポート7「The Old and New: Mosaic City, Moscow──モザイクとして彩られた都市モスクワ」(鈴木祐也氏;2008年1月)
http://10plus1.jp/monthly/2008/01/31152124.php
→2000年代後半、モスクワ建築事情。

・「Photo Archives 94 モスクワ」(Janko Radojević)
http://10plus1.jp/photo-archives/94/
→構成主義の遺産、など。

・鈴木祐也氏@Tokyo Art Beat
「モスクワのアートシーンについて」(2007年12月)http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/vik-munis.html
「モスクワのアートを支える「地下」という作品・展示形態」(2008年3月)http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/03/moscow2.html
「『かくして社会主義は勝利したのです!』」(2008年4月)http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/04/moscow3.html
「『アーカイヴ写真』の可能性について」(2008年5月)http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/05/archive-photo.html
「『“ 国際 ”という名において 』 広まるモスクワコンテンポラリー・アート」(2008年6月)http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/06/moscowcomtemporary.html

13 5月 2017

関竹三郎「ソロヴィヨフ『神人論』の翻訳の批評に就いて」(1918)

岩下の『神人論』翻訳批評(1917)に、翻訳者である関が反論した1918年の論文。

文字起こしにあたり、パンクチュエイションや旧仮名遣い・旧字体に適宜修正を施した。また固有名詞については、必要に応じて現在通用される表記に改めている。

★PDF版をこちらからダウンロードできます。→リンク(Google Driveが開きます)

12 5月 2017

岩下壮一「ソロヴィヨフと公教会(『神人論』の翻訳を読みて)」(1917)

日本における最初期のソロヴィヨフ論。文字起こしにあたり、パンクチュエイションや旧仮名遣い・旧字体に適宜修正を施した。また固有名詞については、必要に応じて現在通用される表記に改めている。

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18 4月 2017

谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』

谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』(理想社、1990)

 ソロヴィヨフ思想(とりわけ初期)をめぐる論考として、非常にレベルの高いものを読みました。谷寿美『ソロヴィヨフの哲学』です。そのレベルの高さには、大きく3つの側面があると考えられます。①初期ソロヴィヨフ思想の包括的論考になっていること。②誠実さ。③圧倒的な原典根拠。

 ①について。論はソロヴィヨフの思想形成から認識論的側面・存在論的側面、さらには宗教をめぐる議論へと、ソロヴィヨフの思考を追いかけていくように、無駄なくかつ漏れなく丹念に語られるように思われます。②について。誠実さといういささか誠実でない言葉で私が言おうとするのは、むしろ谷からソロヴィヨフに向けられた敬意と言い換えるのが適当でしょう。谷は、ソロヴィヨフの一見「矛盾」と思われる言説をこまやかな手つきで取りだします。谷の誠意を私が感じるのは、彼女自身言明しているように、その際に独断的な価値判断でその「矛盾」らしきものを片付けまいとする姿勢です。「矛盾」らしきものを、まずはいったんそのまま取りだしてみること。「矛盾」には「矛盾」であるだけの理由があると仮定してみること。そこには谷の、ソロヴィヨフに向けられた信頼と敬意があります。文体に耽溺する批評=エッセイがありあまるほど世の中に存在する中で、この「敬意」がどれほど稀少なものか。そして驚くべきことに、その「矛盾」からこそソロヴィヨフという思想家の本質が露わになってゆくのです。③については、これは本文を読んでいただくしかありませんが、多いところでは誇張ではなく本当に一行一行に引用があり、出典表記が附されています。これも称賛されてしかるべきことでしょう。①③に関しては、確かにアカデミックな論文であれば、そうあって当然の事柄かもしれません。ただ②に関しては、著者の素質としか言いようのない優れた点だと言えます。

◆1。◆

『ソロヴィヨフの哲学』という単純といえば単純に過ぎる題をもつこの初期ソロヴィヨフ論は、1853年から1900年までのロシアを生きた哲学者の、1881年までの思想を扱う。だから、ソロヴィヨフの全思索のほぼ半分と言っていい。E.トルベツコイの区分によれば、ソロヴィヨフの「準備期」にあたり、ラドロフの区分では「修行時代」「遍歴時代」と呼ばれていて[I-5]、谷はこの時期こそソロヴィヨフがその思想を確立したという意味で重要であり、後半生は(再び回帰する時期はあるとはいえ)学問的著作から離れ実践的な批評活動に身を捧げていくという。

 さて、論を始めるにあたり谷が引用する文章がある。

人間が神性を受容し得る(感得し得る)のは、ただ自らが真に欠けることがない時のみ、全てのものとの内的な統一性にある時のみである。[『人生の霊的基礎』あるいは『神人論』で同意の文、Ⅱ-1]
 この一文が冒頭に置かれる問題提起であり、論はここに始まりここに回帰していく。人が神性を受容するとはどういうことか。自らに欠けることがないとはどういうことか。全てとはなにか。全てのものとの統一性とはどういう事態か。ソロヴィヨフに、あるいはソロヴィヨフ思想の難所にまつわる問いかけはすべてこの一文から発しているように思われる。

 ソロヴィヨフの難所といえば、谷がいみじくも指摘しているように、「矛盾」の問題がある。本論でソロヴィヨフの(一見)「矛盾」(と思われるもの)として例示されるものはおおまかに2つある[*以後「(一見)「矛盾」(と思われるもの)」を単に「矛盾」と表記することについて諒解いただきたい]。「三位一体」の矛盾(矛盾①とする)と、そして後に述べる「一元論と二元論」の矛盾(矛盾②とする)だ。「三位一体」に関わる矛盾①については、第二章でソフィアとの関わりの中で述べられようし、矛盾②については追って第四章から第五章にかけて論じられることになると思う。前述した通り、この矛盾こそが、論を追うに連れむしろソロヴィヨフの本質的理解に欠かせないポイントになっていく。

 歩みは長く、しかし着実だ。二章から三章にかけて、谷はロシア思想史と西洋哲学史を縦横無尽に駆け抜けてゆくだろう。そうでなければならなかった。ソロヴィヨフの思考自体がそういう道のりを歩んできたわけで、そこに忠実に寄り添うならばこのルートは通られなければならなかった。

◆2。◆

第二章「思想形成を促したもの」では、ロシア精神史が語られる。共苦(同苦)の精神、ユロージヴィ(佯狂)、フョードロフ、ドストエフスキー、ロシアにおけるキリスト教、メシアニズム、西欧派/スラヴ派、ホミャコフと「ソボールノスチ」、神秘主義。ロシア思想を考える上で欠かせない名前をほとんど挙げてゆくその道のりの果てにたどり着くのが、ソロヴィヨフの中心的なイデヤ「ソフィア」だ。

 まずは「ソフィア」にまつわる「三位一体の矛盾」(矛盾①)だが、この矛盾について、谷は第二章で論じている。この矛盾はソフィア(智、ヘブライ語のhokhmahが元で、そのギリシャ語訳sophiaからロシア語化)の位置付けに関わるもので、ソロヴィヨフの著作中には同じ「ソフィア」の語が、異なる位階の内に認められるという。第一には神の内にあるソフィア、三位一体の一を成すソフィアであり、第二には「流出論的」と谷のいう世界像のなかの世界霊魂としてのソフィアである。神を形づくるものとしてのソフィアと、「神的統一と現実の有象無象の中間者」「神的統一から離れて(…)バラバラの諸要素のカオス」[Ⅱ-8]といわれる世界霊魂としてのソフィアに隔たりがあることは一見して自明のことだ。この矛盾を、独断にも拠らず、はたまた単に論外として切り捨てることもせず、ソロヴィヨフに忠実に寄り添う形でどのように解決できようか? 谷の示す解決策が、「2つの三位一体性」論だ。第一の(と便宜的にするが)三位一体性は、絶対的本源とされる神を形づくるもので、霊と智と魂の3要素からなりつつも一体である謂わば「神の三位一体性」と谷がいうものだ。このなかで「智」(ソフィア)と呼ばれる女性的原理は、男性的原理であるロゴスを調停し均衡させ統一を生み出すものであり、神に内在している。(便宜上)第二のそれは現実的・存在的三位一体性と呼ばれるが、プロティノス的な世界像のなかに現れてくる。プロティノスは「一」から段階的に「智」、そして「徳」が生じる世界像を提示したが、ソロヴィヨフはそのモデルを踏襲するように、「純粋霊」から発し「神的な智」、「魂」へと至るモデルを提起した。このモデルにおいては、神的な純粋霊から人間各人の魂へと向かうベクトルは下降的で、神的な統一から個人主義的離散へといたる道筋となっている。ここにおいてソフィアは、個々の人間やなんやかやの存在の雑多な集まりである離散した「魂」と神的統一との間にあって、「世界霊魂」と同一視される(ちなみに世界霊魂とは、「人類であり、キリストの身体もしくはソフィア」[Ⅱ-8]と言われる。「キリストの身体」については後述)。類的・集合的なものとしての「人類」を抱握するものとしての存在だろうか。

 谷は、この矛盾が単に混乱したソロヴィヨフの誤謬でないとするならば(そしてソロヴィヨフ青年の明晰にとって誤謬であることなどおそらくないのだが)、第二の三位一体性は、ソロヴィヨフのうっかり出てしまった裏の顔=本音なのではないか? と述べている。ソロヴィヨフの問題意識の根源的なところには、西欧近代化の果てに個人主義に走り離散してしまった人類の姿がある。佯狂者的な「共苦」の思想や、フョードロフの主張を自分のものとして考えるに至ったソロヴィヨフにとって、人類の再統一の原理(復活が欠かせない)の模索は早急の課題だった。世界霊魂としてのソフィアが、神的統一と個々人の魂との間にあるものであるならば、近代化によって下降のベクトルをたどる一方であった我々が、どうにかして上昇の道のりを——個人主義から再び統一へと——歩むことができるのではないか。理論的に厳密とは言い難いながら、そうした祈りにも似たソロヴィヨフの本音、詩の中でしか垣間みえなかったといわれる彼の「夜の顔」が滲み出ることになる。

◆3。◆

「認識論的諸観点」と題される第三部では、ソロヴィヨフの『西欧哲学の危機』などのテクストを元に新しい知のあり方について論じられていく。『西欧哲学の危機』は、哲学徒には自信をもっておすすめしたい一冊だが、この学位請求論文でソロヴィヨフは当時流行していたハルトマンらの実証主義を槍玉に、カントをその首領とする西欧的な分析的な思考方法に批判をくわえていき、その中でソロヴィヨフ自身の立ち位置が明らかになっていく。批判対象となるのは前述のカント、ハルトマンに加え、ヘーゲル、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ショーペンハウアーと、ほとんど西欧哲学史に名を残すスターたち全員にソロヴィヨフの考察は及ぶ。それだけで若い哲学者の意気込みと射程の広さがわかろうというものだ。彼の言い分は、西欧哲学的な思考の、悟性的、分析的、抽象的、分断的性質を批判するものだが、それではいったい彼の側から主張されるものとはいったいどういった思考のあり様だったのか? それについてソロヴィヨフは『全的知識の哲学原理』や『抽象原理批判』のなかで論じることになるが、そのあり様こそ「自由神智学」とよばれるものになる。彼に言わせればこれは人類的有機体のアクティヴな発展を可能にするものだというが、形式的と悟ったからか、構想は中絶されている。それでも彼が書き残したところから読み解けるのは、社会:(に対し)「経済」・「政治」→(を経て)「教会」=自由神政制、芸術:「技芸術」・「美芸術」→「ミスチカ」=自由テウルギーへ、知:「実証科学」・「哲学」→「神学」=自由神智学という人間生活の社会・芸術・知という3つのフィールドにおける新しいあり方の構想であり、そこでは理念の直感(ホミャコフの「内的経験」を彷彿とさせる)が形式となるという。それぞれ→のあとに置かれたものがソロヴィヨフによれば、目的の状態(使命にしたがって結びつき、支え補う理想的状態)なのだが、ただしどれもあまり具体的に論じられているものではない。しかしながら、それでもここに、分析的思考から「生ける総体」(キレーエフスキー)的なあり方を目指すソロヴィヨフの方向性が、前章から引き続いて浮き彫りにされる。

◆4。◆

予告されたとおり、第四章からは「矛盾②」とした「一元論と二元論」の矛盾についての論となる。ソロヴィヨフの世界抱握のしかたには、おおまかに二通りあるように思われる。一方は、真実在(сущее)と実在(бытие)の二元を立てる観点[Ⅳ-1]と、「全ては私の表象」「全てはそれ自体としてある本質存在」として、現実の究極要因を「同時にアトムであり、モナドであり、イデヤである」と規定する観点[Ⅳ-2]の二つだ。この二つは明らかに齟齬をきたす。ここにある現実とその原因たる別の真なるものを想定する一方で、全てが本質的であり、現実の構成要素(アトム、モナド)が同時にその永遠不変の理念(イデヤ)でもあるとする言い方は、論理的な世界では通用しない。

 この矛盾に対しては、いま仮に「現実態」と「可能態」とを措定してみることにしよう。現状として考えると、私たちの現実世界は、永遠不滅の真実とは遠く隔たっているようにみえる。しかし人間は神になることができる(東方正教会の公式「神が人になったのは、人が神になるためである」を思い出そう)。その果てに、全てが一つになった総合的な世界が可能的に思考されて然るべきなのではないか?

 ソロヴィヨフはここで「絶対的なるもの(абсолютное)」という言葉を使っているが、彼はこの「絶対的なるもの」には2つの極があるとしている[『全的知識』、Ⅳ-4]。第一に、「満ち満ちたもの、完全無欠なもの」としてのポジティヴな志向性での(本質的に)「絶対的なるもの」であり、もう一方は「”あらゆる(現実的な)もの”以外のもの」としての「絶対的なるもの(過程を追って絶対に成っていくもの)」だ。第一に挙げたものが、ソロヴィヨフに言わせれば「絶対者」であり、第二の「絶対的なるもの」はその「絶対者」の他者である。人が神になってゆく過程で目指されるものは、後者、絶対者の他者としての「絶対的なるもの」の第二極であって、ソロヴィヨフによってその境地は「世界霊魂」と呼ばれることになり[Ⅳ-6]、それは第二章でみてきたように、集合的な「人類」のことである。そうした理想的な人類像を、谷は全的有機的全一体と言い表し、ソロヴィヨフの表現によれば、「一つの宇宙的神人有機体」「キリストの身体」「”教会”」あるいは「全地普遍教会」であって…ソフィアである[Ⅳ-8]

 はじめに「現実態」と「可能態」を仮に措定したが、ソロヴィヨフにとってこの隔絶——現実と理念、区別と一致、地と天、絶対に成りゆくものと絶対、つまりは人と神の隔絶——は否定されねばならない。そこに隔絶はない。ソロヴィヨフはいう。「君は中道を行け」[Ⅳ-9]。つまり、実在と真実在を峻別する二元論的な観点も、その区別されたものが実は一体であると明らかにする一元論的な観点も、実は同じ「全一(全かつ一なるもの)」から発しているのではないか。一元論と二元論を総合するような中道を行け。それはいったいどのような道だったか。

◆5。◆

「全一」「全て」。それはいったい何ものか。ここで谷はもう一つ手がかりとなる引用を与える。
人間の絶対的なるものへの志向、つまり、統一において全てであろうとする志向、もしくは全一であろうとする志向は、疑う余地のない事実である。この志向において、人間は潜在的に、或いは、主観的に絶対なるものである。一方、現実的に、また客観的に絶対なるものは、専ら、全てもしくは全一であることを志向することはなく、現実的に自らの統一の内に(全ての)全てを包摂している。或いは、現実として全一なるものである。そのような現実的な絶対性が人間の真の目的である。しかし、実際には、自らに与えられた条件下で有限存在である人間は、全一ではなく、ただ無限に小さな一単位であり、自らの外に一切の他者を有する。が故に、彼が全てとなり得るのは、ただ、次の場合のみである。即ち、自己の孤立性を捨てて、全ての他者とのポジティヴな相互作用の内にあり、他の全ての人々の生の内容を感受して、それを自らのものとしつつ、他の全ての人々と自己の自由の限界として関わるのではなく、自己の内容もしくは対象として関わることによってである。このようなポジティヴな関係においては、それぞれの存在は、(…)他の全てによって限界付けられるのではなく、全ての他者によって補われるのである。人間にあって絶対的ないし神的原理によって規定され、心理的にはの感覚に基づき、普遍的道徳の公式の積極的な部分を実現しているそうした諸々の存在の結びつきが、神秘的もしくは宗教的な社会、即ち、教会を形成する。[『抽象原理批判』160頁、Ⅴ-1]
長く引用したが、これがソロヴィヨフの中心的な思考といっても言い過ぎではあるまい。谷はこの言明から4つの要素を取り出す。①全一、②神化・神人性、③自己と自己の他者との関わりとしての全て、④愛に基づく有機的統一体=教会 の4点である。

 ①と④の関係性は、第四章のところで述べたことを踏襲する。①の全一とは、絶対的な実在、つまり本質的「絶対者」のことであって、④の教会は、人類が可能的に有する「絶対なるもの」(絶対に成ってゆくもの)のことである。前述したように、ソロヴィヨフの考えるところでは、ここで①と④はまったく同じもの(一元論)でもなければ、お互いに排除しあう別のもの(二元論)でもない。中道とでもいうべき関係性が間をとり結ぶのであって、2つの要素は相補的であり、お互いがお互いを果てしなく生み出しあう。それは相互補完的な総合原理としての一種の弁証法的な関係にあるといえる。そしてその動力は、愛である。[Ⅴ-2]

 ②と③を述べるときにソロヴィヨフが論じているのは、人間には神となるポテンシャルが備わっているとして、それでは神化が可能になる条件とはなにかということだ。冒頭の引用では「ただ自らが真に欠けることがない時のみ、全てのものとの内的な統一性にある時のみ」とあったが、ここで谷はドストエフスキーとフョードロフを引き合いに出しながら論じる。「全てのものとの内的な統一性にある」——それは、自己以外のあらゆる他者を自分のことのように感受すること。あたかも自分に対する時のように他者に対すること。ポジティヴな共感関係にあること。お互いに補い合うこと。あらゆるものに対して責任を有すること。それがソロヴィヨフにとって「全てになる」ことである。そして「全一」としての神=絶対者からはじまった思索は、離散状態を経て、また「全一」へと回帰していく…。帰着するところは同じでも、それはしかし始まりの全一、離散を経た上での「中道」としての「全一」である点に、ソロヴィヨフの独創がある。そしてその全一の原理とは、ソロヴィヨフにとってはなによりも「愛」なのである。

◆6。◆

ソロヴィヨフの単純でない思索の足取りを追ってきたこの論は、『愛の意味』などを論じるこの第六章で幕を閉じる。ここで中心的なテーマになるのは、ソロヴィヨフにおける「中道」そして「愛」の意味である。

 ソロヴィヨフは、新しい人間の有機的共同性を「教会」と名付けたが、それは従来のカトリックのいう「教会」でも正教会の「教会」でもない。彼自身が「聖霊の宗教」と呼ぶところの「教会」である。離散し孤絶している人間たちがもう一度集い、お互いに配慮しあい、相互に補い合う中で人と人との有機的なつながりとして現れてくる「教会」。だとするならば、人と人を、人と神を結びあわせ、この教会を形づくるところの力とは、「愛」の他ない。それは、まずいったんは自己を否定することを通して、その上で他者を全肯定するような愛である。その時この愛は、単なる一致した愛でもましてや区別する愛でもない。中道の、無差別の、肯定も否定も総合的に包み込むような「新しい愛」である[Ⅵ-2]。フョードロフやドストエフスキーからの思考を響かせながら、ソロヴィヨフは言う。真の愛は、死に対して生命を復活させる。それは肉体の再生、救済、復活を含まねばならぬ。あらゆる他者と共感の関係に入り、他に対して無条件に責任を負うことで、「個」の変貌は、「全て」「世界全体」の変貌となる。なぜか? 「いのちは無名だからである。」[谷、454頁]。いのちは一人の人間に属するような小さなものではない、そうではなく全体のいのちである。「新しい愛」「真の愛」を実践できる人間(いや、それ以上のものかもしれないが)を、ソロヴィヨフは「フセレンスキー・チェロヴェーク(Вселенский человек)」とする。この愛は、人を神の高みにまで連れてゆき、また逆に神の恩寵を地に降り注がしむる。そこでは道徳的悪のみならず、その物理的帰結としての病や死も打ち砕かれることになる。
この愛の事態が究極の復活である。[『ロシアと全地普遍教会』348頁、Ⅵ-3]


これが、やさしく、しかし圧倒的な強度で紡がれるソロヴィヨフ初期思想の道のりの、いちおうの帰結である。谷の議論の妥当性は、私には判断できないということは付言しておこう。原典にあたっていないし、そもそもアカデミックな意味での研究者ではないのだから。しかし谷とソロヴィヨフを結びつけるものは紛れもなく「愛」であり、愛の思想たるソロヴィヨフの思想をここまで見守ってきた私には、それを信頼するべきだ、その義務があるという声がきこえる。この本の名はかくも単純にも『ソロヴィヨフの哲学』と名付けられており、読後に反芻してみれば、そうだ、これはごくラディカルな意味での「哲学=愛智(philo-sophia)」の書であった…と心から納得できるのであれば、なおさらのことである。


◆附記。

Соловьев, Владимир Сергеевич (1853-1900)
本稿中で触れられたソロヴィヨフの著作。
- Кризис западной философии (против позитивистов). 1874. :『ソロヴィヨフ選集』第1巻所収「西欧哲学の危機」(御子柴道夫訳)、東宣出版、1973。
- Философские начала цельного знания. 1877.(『全的知識の哲学原理』)
- Чтение о богочеловечестве. 1878. :『神人論』(関竹三郎訳)、洛陽堂、1916。『選集』第2巻所収「神人論」(御子柴訳)、1972。
- Критика отвлеченных начал. 1880.(『抽象原理批判』)
- Духовные основы жизни. 1882-84. :『選集』第3巻所収「人生の霊的基礎」(御子柴訳)、1973。
- Россия и Вселенская церковь. 1889.(『ロシアと全地普遍教会』)
- Смысл любви. 1894. :『愛の意味・ドストエフスキー論』(御子柴訳)、東宣出版、1970。

17 4月 2017

セルゲイ・ロズニーツァ(インタビュー)

20170511追記:表記を「ロズニーツァ」に改めました。

セルゲイ・ロズニーツァ(Сергей Лозница, Sergei Loznitsa;表記はローズニッツァ、ロズニッツァ、ロズニツァなど)はベラルーシ生まれ、現在はドイツ在住の映画監督。

作品については、詳しく書いてらっしゃる方がいるので、こちらを一読すると良いと思います。
http://d.hatena.ne.jp/pop1280/20140617/1403011444
劇映画としては『わたしの幸福』(Счастье мое、2010)や『霧のなか』(В тумане、2012)などを撮っていて、カンヌに出品されている。

2016年作『アウステルリッツ』を中心としたインタビューを翻訳しました。『アウステルリッツ』は、ナチスの強制収容所があった土地を訪れる観光客をテーマにしたドキュメンタリー作品。
2017年カンヌに正式出品された『やさしい女』についてもちょっとだけ触れています。

以下からどうぞ。

https://note.mu/pokayanie/n/n257d85b1dc32

16 4月 2017

文字26

私たちは、人間であることにひどく疲れてしまったのではないだろうか、ということを最近特に思う。知とは、個的な経験を抽象化・普遍化する挙措だと思うのだけれど、これはとても労力がいる。とてもめんどくさいのだ。

民衆からしてみれば、目の前にある聖像を神に見立ててひたむきに祈ってみせることは簡単で、それ以上のことは必要ないように思う。あとこれは別の話だけれど、星を見上げれば普通は天のほうが動いているように見える。しかし知が拡散する、知が人類というレベルで共有されるためには、「三位一体」とか「地動説」とかいうわけのわからない複雑怪奇な論説が必要とされたのだった。知は論争だったから、相手を言い負かすために論理を組み立てておく必要があった。

だから知は、異質なものとの遭遇の準備でもあった。もちろん、その結果として歴史上ではしばしば武力をもって衝突が起きてしまったわけだけれど、少なくとも異質なものと交渉せずにいることは不可能に近いことだったし、そのための準備は武力とともに知がおこなっていた。

知に飽きてしまった。知の要求するレベルに息切れを起こしてしまった。そんなところではないだろうか。知を維持していく気力も、気概もなければ、外に出ていく勇気もない。あくまでこのまま個であって、個のうちで理解されていればいい。その結末は、歴史が示す通り、共同体の死であり、それが全人類規模で起こるのだとすれば、ひとの死に他ならない。

隕石でも、火山の大噴火でもなく、大地震でもなく、まさかこんなに静かに、人間が人間でなくなることで、ひとはなくなってゆく。だって学問を失った人間が、いったい何ものでありえるだろう。
人間であることを要求することがこんなに困難になってしまったときに、いったいどうやって人間であり続けていけばよいのだろう。

02 3月 2017

ゲンリフ・サプギールの詩

声、声

ほらあそこで人が殺された
ほらあそこで人が殺された
ほらあそこで人が殺された
下の方で 人が殺された

行ってみようぜ、そいつを見てみよう
行ってみようぜ、そいつを見てみよう
行ってみようぜ、そいつを見てみよう
行こうぜ。そいつを見てみよう

死人だぜ—死人みたいな恰好してさ
いやあいつは寝てるんじゃないか、死人みたいに飲みやがってさ!
そうだな、死んでない、けど死人みたいな成りでさ…
なにが死人だよ、死人みたいに酔っぱらっただけだろ—

ゲロまみれで寝てるぜ…
ゲロまみれで寝てるぜ…
ゲロまみれで寝てるぜ…
...........................................

手と足を持ってくれ
手と足を持ってくれ
手と足を持ってくれ
手と足を持ってくれ

こいつを中庭に運んでいけ
こいつを中庭に引きずっていけ
そいつを中庭に放り出せ!
そいつを中庭に追い出せ!—

そしたら入口の扉を閉めろ
もっとしっかり扉を閉めてくれ!
すばやく扉を閉めてくれ!
錠をぜんぶ下して扉を閉めてくれ!

やつはどうだ、喚いてるか、黙ってるか?
やつはどうだ、喚いてるか、黙ってるか?
やつはどうだ、喚いてるか、黙ってるか?
やつはどうだ? 喚いてるのか、黙ってるのか?…



      入口のランプがチカチカしてるぞ!

独りぼっち

そこ 床のうえに 倉庫の棚のうえに
屋根用の厚紙、釘と ―いったい誰に必要なのか―
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

瓶とコップを 樽の上に!
ウォトカを飲む もの言わず 独りぼっちで。
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

眼鏡は額に。見えづらそうに
目を凝らす。妻だって? 昔はいたっけな。
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

目を凝らす―目が細くなる
歪んだ歯が剥き出しになる
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

とつぜん工具が2倍に増えた…
すべてが跳ねてぐるぐる回る:
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

もういい!たくさんだ!うんざりした。
おとなしく横になってろ。頃合いを待て。
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

起き上がった。納屋から出る。
錠前を掛け、扉を閉じる
シャベル、のこぎり、斧、
ハンマー、つるはし、それからバール。

月。森。巨大な建築現場。
バラック。老いぼれは寝台で寝いる。
シャベル…のこぎり…斧…
ハンマー…つるはし…それからバール…




知らないものが 知った様子で
そっと触れた。気だるさが
戦慄が 熱狂が
罪の意識が
何らかの機関が。

廊下は
殺風景だ。
執務室は
ぜんぶ
開け放してある。
女は部屋に入るが
誰もいない。
寄木細工の床。
境目の向こうへ
そして空虚へと飛びたつ。
大気のなか肉体が滅んでゆく。
あ、あ、あ!
接吻したのは
やわらかい卵形の
お腹。
あ、あ、あ!

地下ホールで遠く反響する。
眠っている、座っている、駅にいるように
人びとが。
隣の人は包帯でぐるぐる巻き。
顔に巻かれた包帯は、白いフレームのよう
怖いほど彼女を知っている。
注意深いまなざしが見つめている!

耳のなかで金属の音がする
口のなかは金属の味が…
あ、あ、あ!
彼女は飛びたった。
大気のなか肉体が滅んでゆき
雲が広がる。
遠くの方から:
あ、あ、あ!

しずかだ。
暗闇。
心臓の鼓動。
とつぜん
貪欲な聴覚が聞きつける:
地下深く 玄関で
ざわめく音。
急な階段には
足音が。
闇にまぎれて近づいてくる
足音が
大きくなる 敵のような
足音。
ほら歩調が乱れた 確信がなくなった―
闇のなかで足音たちは扉を探し求めている。
扉が開け放たれた:誰もいない―
霧、そして雲の繊維―
空っぽだ-あ!―

(機関には100の扉
罪をつくりだすこと
フレームのように 顔は包帯でぐるぐる巻き
雲のうえを飛んでゆくこと…)

あ、あ!

ベッドが壊れる
ベッドが壊れる
ベッドが壊れる
ベッドが壊れる!



未来の戦争

ドーン!
...
...............................................
...........................................
.........
......
................................
.......................
...........................
.........
.......
...
......
....
...
...
....................
.....................
...................
...............
............
.........................................
.........................
無事か!?!



ナイフをどけて、どけてください…
あいつはいい人間だよ、いいやつだが…
たった一つの欠陥は、頭に穴があることだな…
出撃だ、野郎ども
バンザーイ
ワーシャ?
え?
叫ばないでよ
いびきもやめて。
寝ろよ…
かわいいね、愛してるよ
きみのすべてを…。
やめて、放してよ、もういいわ…
よくない!
よくない、よくない、よくないだろ!
ヴェーラ、イーラ、リーダ、アーダ…
弾が弾けて角(ウーゴル)に―
ゴール!
みんな、空に昇れ!
蛙のような女め…
お願いだ、ゆるしてくれ。
愛してるよ…
無限からなる根は
ゼロに等しい…
いびきをやめて またいびきしてる!
寝ろよ。
寝たの?


*Сапгир, Генрих Вениаминович (1928-1999). Из сборника стихотворений «Голоса» (1993).



26 2月 2017

Zineを出版しました


このたび、コレクティヴ「ゆめみるけんり」の一員としてzineを出版しました。私は、ロシアの思想家ニコライ・フョードロフのエッセイ(附・解説)と、アレクサンドル・ブロークの詩を訳しています。

まずは、Kindle Storeにて電子書籍版を販売しています。100円です。
こちらからご覧ください。立ち読みもできます。☞http://amzn.asia/5gSfZkJ

紙版も出版準備中です。詳細については、「ゆめみるけんり」ブログ☞https://droitdeyumemir.blogspot.jpをご覧ください。

12 2月 2017

NER:新しい居住エレメント

noteに新しい記事を公開しました。
雪解け期ソ連の都市計画プロジェクトNER(НЭР=Новый Элемент Расселения、New Element of Habitation)に関するエッセイの翻訳です。


NERグループのプロジェクトは、消費に依らないポスト工業化社会[原語では消費社会の対義語としてのポスト工業化「非-消費社会」]のための、ソ連全土規模の、そしてより広くは惑星規模の居住システムを提起する試みである。この意味でNERは、現代ロシアの都市計画(アーバニズム)に対してはもちろん、消費文化と個人所有といった根底部分に対してめったに疑問を呈することのない世界的な主流に対しても十分にラディカルなオルタナティヴである。NERグループは、「各々みなに属する世界、ロジックとひとに対する敬意に満たされた世界」(『NER』、116頁)をつくることを可能にするような居住構造を見出すことをその課題としていた。NERメンバーは考察を進めるなかで、個人の土地所有というレアリヤに制限を受けることなく、「限定された」大きさの「均一な」住居のネットワークをつくることを提起し、そこでは居住者が10万人以内で、可能性の「平等」が最大限に保証されるとした。NERメンバーは、まさにこのように共産主義の根底的長所をとらえていたのである。


続きは

02 2月 2017

レフ・ルビンシュテインの詩

『AUTOCODEX-74』(1974)より「3つのコンポジション」

コンポジション-1

1. 本質的思考の気ぜわしい徴
2. 本質的疑念の大いなる複数性
3. 本質的意義の不正確な解釈
4. 生者の内に残った途方に暮れる人影
5. 遠方の胸騒ぎの凍ったままの稜線
6. 偽りの賢さの不快な色調
7. 産出する印の不定的可能性
8. 雷雨の頃に遺された恵み
9. 晩の悲しみのあたたかな接触
10. 花咲ける歳月の花咲ける遺産
11. 極限的思考なる過酷な労働
12. 人けない説教にひどく歯の浮く
13. 歯抜けの老年への病的な恐怖
14. 他人のことに厚顔無恥にも鼻を突っ込むことの具体的理由
15. 懲罰のないまま偽証する奴らのいる環境下において法の外で存在することの必然的災厄
16. 出口のない状況といういつもの状態
17. 気の狂った歳月の失われゆく慰み
18. 計り知れぬ歓喜の薔薇色の色調
19. 大いなる可能性の大いなる複数性
20. 本質的思考に忠実な方向性


21. 多様な活動の知られざる帰結


コンポジション-2

1. 夢うつつでの飛行はみじめだ
2. 真理のタッチは甘美だ
3. ことばの隠れ家へ帰ることは3重にも甘美だ
4. 内部に向けられる眼差しは断固たるものだ
5. 予知能力の徴は川の力のなかでは辛うじて判別される
6. 道は打ち明けられない- - -
7. 昔の興味は忘れられた
8. 懲罰のないまま偽証する奴らのいる環境下で存在することは、不法だ
9. ワイングラスにワインは満たされていない
10. 草に注意を払うことは楽しい
11. 面白いことは楽しい
12. 現実での飛行はみじめだ
13. 不当な判断は不快だ
14. 正当な瞬間はよいものだ
15. 容認しがたいものはよくない
16. 現実での飛行はみじめだ
17. よく照らされた中での観照の対象物は不思議だ
18. 提起されるモデルの普遍性を求めるある人の要求は恐ろしい
19. コミュニケーションの多様化なあり方の再生に対して多くの人が準備できていないことはひどいことだ
20. 晩は今でも退屈だ
21. 現実の出来事によって紀念される一日は大いなるものだ
22. 現実での飛行はみじめだ
23. ロマンチックな気分になった政治家の道はもの悲しげだ
24. 都市環境における雪は孤独だ
25. 4年ごとにうるう年がある


コンポジション-3

1. 歌いましょう


2. 息を吐いて吸いこみましょう、名づけの全き権利によって


3. 歌いましょう


4. さまざまな場所に身を置いてみましょう
5. 息を吐いて吸いこみましょう、肉体的親睦の再び多産される自然力によって
6. さまざまな状況に身を置いてみましょう
7. 息を吐いて吸ってみましょう
8. よい頃合いで停まってみましょう
9. 歌いましょう


10. そう行動すべきように行動しましょう

11. 最終的な帰結を避けましょう
12. お互いに喜びあいましょう
13. お互いのことを悲しみあいましょう
14. それぞれの功績に応じて報奨を与えましょう
15. 組み立てられた空白を満たしましょう


16. 悲しみましょう、謳い讃えましょう、そして泣きましょう、むかし熱情の緊密さであって今は消え失せ弱くなってしまったそれのために
17. 報酬を受け取るべき人に報酬を与えましょう
18. 無から生じましょう
19. 運動を先導しましょう


20. 悲しみましょう、謳い讃えましょう、そして泣きましょう、期待の仮面の下に隠された、全般的賛同の深淵を前にした現在の悲哀のために


21. ある共通の瞬間たちを再生しましょう


22. シーンを再生しましょう:
             全般的同意の、
             期待の、
             現在の、
             未来の、
             もの言わぬ非難の、
             抑えがたい歓喜の、
             エロティックな誘導の、
             死んでしまいそうな憂いの、
             清廉潔白な参加の、
             魅惑的な幸福の、
             田舎の火事の、
             馬上の小旅行を、
             中産階級の日常を、
             全般的賛同の、
             期待の、
             その他なんでも、

23. 悲しみましょう謳い讃えましょうそして泣きましょう
24. 歌いましょう
25. できることをすべてやりましょう
26. 約束の時の暗示する力に場所を譲りましょう
27. ある物ごとについて申し合わせましょう
28. 息を吐き吸いこみましょう
29. よい頃合いで停まりましょう
30. 歌いましょう


31. そう行動すべきように行動しましょう


*Лев Рубинштейн (1947-)



08 1月 2017

ヴィクトル・クリヴーリンの詩

ロシヤのイデヤ

灰色の雪のなか死んだ木々
それから2羽の孤独なカラス…
ロシヤのイデヤ、たぶん敵にさえ
平等でオープンな
刈りそろえられた刑罰の丘 そんなことをできる限り
意識に染み渡らせる
ロシヤのイデヤは頭のなかにあるものでも
何らかの精神的な領域にあるのでもない
それはここにある、顕現している、果てなき茂みにある
魂との危険な隣りあわせだ
魂の境界がどこにあるのか
どこまで己でどこまで他なのか、魂は知らない。

1月9日の庭

ここは埃まみれの庭、印が捺された
書類に似ている 庭は
こんなにも悲しげで... おれは出てゆく。通り抜けてゆこう
錆びた柵に沿って 
いつだったか5ヶ年計画のある年に
なぜかしら冬宮から
労働者村へ ペテルブルグから
レニングラードの心臓部へ 移されて
この柵はこんなレベルの貧窮と
荒廃にまで至ってしまった
瞬く間に過ぎ去るヴィジョンのように
清らな美しさそのもののように
隣に工場の空気が寄り添っていたので。

よい刻にテレビが点いて

黄昏れて。カラスが一声カァと
別れを告げる。そして静まりかえる。それで今は
気体のドアがため息を吐き
トラムの車輌は隠されている
林の木々のあいだに。すべての
郊外へ向かう道路からたったの一人も
無傷では帰ってくるまい!左からくるこの
寝室でさえも… 昏くなった。おれにはむずむずするような
静寂がもっとよく聞こえる。不意の、燃えるような…
いいタイミングでテレビが点いたものだ!
そうだ、その声は救いだ、眠りのように
何千回も繰り返された眠り。 

時間のフルート

通りすがりの者が後悔するのは
生きとおした時間ではなく 眼もくれずやり過ごした時間のこと
音楽は静寂(しじま)に似ているが
静寂の心臓は 悲しみにも打ち負かされない

はっきりしない平坦な 足音のざわめきにも…
雑草生い繁る広場の上に、
近衛宮殿がすっくと立つ
気狂いフルートがこだまする。

山羊に似た軍隊が走りゆく。
ほら、准尉のマルシュアースが
  ぴょんぴょん跳んで笛を吹く
ほら、音楽だ。息抜きじゃない、息切れさ
ほら、擦り切れた毛皮。旗のひらめき
  のなかに!

通りすがりの人が、軍人じゃないのに
パレードの傍に忍び込む…
だが音楽は 静寂(しじま)に満たされ
凝固した琥珀のなかの虫のように

脆いうごめきをあたかも保っているかのよう
身動きは奪われているのではあるけれど…
通りがかりのものに ベルトと刻を
こっちでは貴なるフルートが飛び去ってゆく!

ほとんどあの世から聞こえてくるような
その叫び刺々しく耳を貫く
その叫びは蝶と蠅の音なき海のなか
縦列を組む新兵の
  一群のなかで

満ち咽び 咽び満ちる…
そして音楽の苔むした黒い幹が
棘となって通りがかりのものの内に入りこんでしまった
メロディといううごめく蛇に巻きつかれたまま。

(1972)


Виктор Кривулин. (1944-2001)