『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半

『判断力批判』を読む会、2回目です。
前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。
それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。

ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。

* * *

〜12/23
『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁)

まず目次を読む

とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。
今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。
第一部「美学的判断力の批判」
 第一篇「美学的判断力の分析論」
  第一章「美の分析論」
「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。
今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。
お気づきでしょうか、ここに至るまで我々は「おそらく」「なのでしょう」「だと思います」などの語彙を駆使して、あくまで想像で話を進めているのです。なんて恐ろしい。
これから読み進めていって実態とかけ離れていることが明らかになるかもしれませんが、それも含めて今後が楽しみです(何を言ってるんだ)。

「美」以外のものは何も要らない

中身に入ります。章題から明らかであるように、今回読む箇所ではカントさんと一緒に「美」を分析していきます。ある意味当然で、「美しいか美しくないかを判断する能力」について何事かを知ろうとするならばまずは「美しいとは何か(あるいは何でないのか)? 美しくないとは何か(あるいは何でないのか)?」ということを知らねばなりません。珍しく用意周到にも我々はいま「(あるいは何でないのか)」という言葉を付け足しました。そうです、カントの取る手法はかなり根本に立ち返るもので、この章ではとことん「美とは何でないのか」という問いの下で美が突き詰められて考えられていきます。
前回読んだところでも薄々感じられたかと思いますが、カントは非常に堅実で地道な手つきによって根本のところに立ち返ろうとします。「美とは何か」というある意味で非常にプリミティヴな問いを検討するにあたって、カントは我々が「美だと思っているところのもの」、その漠然とした総体から純粋な「美」そのものを取り出そうとするのです。それはキリスト教神学で言うところの「否定神学」的な手つきと同じで、つまり神というのは言葉でたどり着けないものだから、神でないものを全て取り除いて窮極のところまで神にできるだけ近づいていこうという手つき、それと全く同じことです。「処女厨」的な手つき、といえば通りが良いでしょうか。

4つの条件

この章の中では「美であること」「美であると判断すること」について、4つの様式に分けて分析がなされています。より正確に言うならば、「何が美でないか」「何が美でないと判断できるのか」を決める4つの条件(要素)です。4つの着目点は以下の通りです(だいたい)。

1)性質:美的判断には何が関係「ない」のか?
2)分量:美は誰にとって快いのか?
3)目的:美しいものは何か目的に適っているから美しいのだろうか?
4)適意の様態:美しさはどのように感じられるか?

この章は最初に命題が建てられ、各節の最後に「この様式から論定される美の説明」という親切なまとめがつけられているので、迷子になることはありません。安心して読み進められるところです。

おれには関係のない話だ(?)

まず1)性質についての節では、一言で言って「美は関心とは関係ない」ということが言われます。「関心」というと?という感じですが、英語にするとinterest(ドイツ語だとdas Interesse)で関心・興味、興味をそそるもの、重要性、利害(関係)、利益、需要、利子などという訳が出てきます。どうやら単純に「おもしろ〜い」という意味だけではなく、自分にとって何らかの利益をもたらす→ゆえに興味/関心を持てる・利害関係があるという意味層が含まれています。カントはこんな風に言います。
いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交じるならば、その美学的判断は甚しく不公平になり、決して純粋な趣味判断とは言えない(上、73頁)
(実はこの後に「誰だってこれは賛成だろう?」という一言が付け加えられているので、いやいやほんとかよ笑って感じですが)ここで大事なのは、カントはとにかく「純粋な」趣味判断(何が美しくて何が美しくないのかを判断すること)を求めているということです。 「気持ちよさ(快)」とか「正しさ(善)」には「関心」がある、とカントは言います。カント自身が頑張ってひねり出した感のある例に、「もし無人島に住んだら」という話(73頁)があります。「もし無人島で一生暮らさなきゃいけないとして、美しい建物を現出させるような魔力が自分に備わっていたとしても、雨を避けられるような仮住まいの小屋があるならば美しい建築など別に不必要だ」という話です。美しいということは、自分に役に立つとか利益になるとかそういったレベルの話ではないとカントは言っています。
美しさの感覚、趣味判断について特別な点が2つ挙げられています(81頁〜)。まずは、感覚の方法。快適だとか正しいとかいった感覚は、自分が認識し自分の内側で把握した上で理性が下す判断の結果です。それに反して美しさという感覚は、自分が内側で把握する前、ぱっと見で判断されるような感覚なのだと言われます。そして、自由かどうか。「心地よさ」には抗えませんし、「正しさ」という感覚も、カントによれば「命令」として感得されるので抗えないものですが、ただ「美しさ」だけは、何の命令にも従うことのない自由な感覚だと言います。
最後に一つ、カントの面白い着眼点。それは「美しさ」の感覚だけは、人間のみが有する感覚だということです。カントによれば人間は「理性的存在」なおかつ「動物的存在」なのです。動物的存在の方はよくわかりますが、純粋な「理性的存在」とは何でしょうか。こう書いてあります。
純然たる理性的存在者(例えば精霊)  (上、82頁)
なるほど。

みんなの美しさ

 2)分量のところに移ります。ここの議論も一言にすれば、「美しいものは、みんなにとって普遍的に美しい(はずだ)」ということになります。
「普遍的」という言葉が曲者なのですが、ここでカントはあくまで「普遍的」という言葉を使っており、「一般的」ではないのです。どういうことか。これはuniversalとgeneralとの違いなのだと言います。カントによれば、後者は経験的なものに対して使われますが、前者はそうでない。「美しいかどうかの判断」は、一人ひとりに委ねられたものなのではなく(「ぼくは美しいと思う」という判断が統計的に多く寄せられるから「美しい」のではなく)「普遍」に、全員が「美しいね!」と言うことが想定されるといった性質のものなのです。
「想定される」と言いました。ある意味当然のことで、上に述べたように「美しいかどうかの判断」が普遍になされるものだとするならば、統計的な手法に依らない以上、「期待する」しかないのです。(カントは「主観的普遍妥当的」判断という言葉を使っています。「わたし的には」「普遍に当てはまる」と思われる判断ということです。)
趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる普遍的賛成にほかならない、(略)他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない。 (上、93頁)
美しさは、わたしからしてみれば、他のすべての人が残らず「美しいな〜!」と驚嘆することが期待されるような性質を持ったものなのです。
この節で面白かったポイントはもう一つ。後半の第九項で「自由な遊び」というタームが出てきます。これが今後「美しいかどうかを判断する能力」の議論にとって重要だと思われます。この項において「美しさ」とは何かというと
両つの心的能力(構想力と悟性)が互に調和し合っていきいきとはたらく軽快な遊びにおいて生じる結果の感覚 (上、99頁)
というふうに定義されています。 で、私たちが美のどんなところを普遍的にみんなに当てはまるとおもっているかというと、それがまさにこの認識能力の自由な遊びだ、とカントは言うんですね。この自由な遊びによって「調和」、「均整的調和」、つまりバランスのとれたハーモニーを求める心はみんなに共通しておろうが、というのがカントの主張であり、だからあるものが「美しい」と言っていいのだということになっています。「遊び」という言葉とともに、カントの非常にストイックな文章に突如浮遊感が出てきます。そこが面白かった。

長くなったので、条件3)と4)に関しては記事を改めます!

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