『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半

(2)の後半です。

ハーモニーと美しさ

続いて3)目的について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。
前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「自由な遊び」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。
次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」という考えとも関係ないし、条件もないし「美の理想」なんていうものもないんだ、ということです。

感動は邪魔なだけ

「関心」については最前から言われていて分かりますが、「感動」がない、というところには驚きます。我々は「美しい」と言えば、ゾクゾクするような感動をもたらしてくれるものだと思っているからです。カントは言います。
趣味が、適意のために感覚的刺戟感動の混入を必要としたら、(略)かかる趣味はまだ粗野であり、十分な洗練を経ていないわけである。 (上、106頁)
「美しさ」に何を求めてるんだ、カント、お前〜〜という感じですが、あくまでカントはストイックに 純粋な美しさの感覚を追求していきます。カントによれば、まず「あ、美しいな〜」という感じがあり、そのおまけとして感動が付いてくるわけで、感動するから美しい、とは言えないということだそうです。
カントは親切なので、続く第十四項は「実例による説明」に充てられています。それによれば美しさというものは、音楽であれば→純粋な音のレベルで、絵画や建築など造形芸術においては→線描的輪郭(デッサン?)のレベルで判断されるものでなければならず、それ以上のディテールは単におまけ=「装飾」であって、もしその装飾が美しさにとって余計なものであれば「外飾」と呼ばれてしまうのです。つまり、カントはとことんまで「形式」で考えるのです。なんというフォルマリストか。20世紀を待たずともカントがすでにこんなにラディカルなフォルマリストであったのです。(ちなみにカントは同じところで芸術の形式を「形態」的なものと「遊び」的なものに分類しています。「形態」の芸術としては先ほど挙げたような絵画や建築などの造形芸術があるでしょう。「遊び」の芸術の中でもさらに分類があり、「形態の遊び(空間的)」と「感覚の遊び(時間的)」というものがあるとされ、前者は例えばダンス、後者は例えば音楽が想定されます。前者の「美」は線描的輪郭(コレオグラフィのようなものでしょうか)に、後者の「美」は「作曲」に宿るとされています。美は形式だ、輪郭だとはこういうことです。)
また同じところで、「感動」の簡潔な説明がなされています。
感動は、快適が瞬間的に阻止されると、これに続いて生の力がいっそう強烈に溢出するために生じるような感覚である。 (上、111頁)
そしてこの「感動」は、のちに述べる「崇高」には関係があるが「美」とは関係ないと言います。 この「快適が瞬間的に阻止」というところがいやらしいな〜と思います。

ニュージーランド人は人間じゃないから

十五節は、「完全であること」が美しさなのか?という問いからスタートします。今までの議論から考えてみると、意外とすんなり理解できると思います。「完全であること」を考えるには、まず先立って「本来どんなもの(用途)のものなのか? その到着地点=目的はどこか?」という考えからスタートせねばならず、そうである限りは「目的」の議論と同じです(この辺アリストテレスの「徳(アレテー、卓越性)」の議論を思い起こしたりします、「馬の徳(他のものより一番すぐれているところ)は走ることである」みたいなね)。ここまで見てくれば簡単、カントによればそんな「完全であること」は「美しさ」とは関係ないんだ、ということになります。「美しさ」とは「心的能力の遊びにおける調和の感情(内感の)」(上、115頁)であって、到達すべき目標が設定されるような性質のものではない(カント語では「概念」を持たない)のだ、と。美しさはコンセプトではなくエモーションに根拠を持っている。次の節も内容としてはだいたい同じことを言っています。「美しさ」には「自由な美しさ」と「付属的な美しさ」がある。前者には「目的」の考え方がなく、後者にはある。何か達成すべき目的がまずあり、それを満たして初めて美しいならば、その時の「美しさ」は付属的なもの=おまけです。そうではなく(目的を考慮せず)、認識能力において構想力を最大限に遊ばせるところにあるのが純粋な「美しさ」であって、だから「美しさ」には目的があって云々の条件はついてはいけないという話です。
それはいいとして、一箇所ん?と思わせるところがありました。引用します。
しかし人間の美(この種の美には、男女それぞれの美や小児の美が含まれる)、馬の美、建築物(教会、宮殿、兵器廠或は園亭)の美などは、いずれも目的の概念を前提している (上、117頁)
だから人間の美っていうのは付属的な美なのだという主張がされます。この辺にも先述のアリストテレスの 議論が反映されているように思いますが、建築物の美ならまあわかる(例も、ある特定の目的がある建築物の列挙になっています)、百歩譲って馬の美もわかる(早い、つまり馬の役割を果たしている=美しい)。ところで人間の美について我々は目的を意識しているだろうか? すぐ後でカント自身が実例として、「教会だからこそ禁欲的なんであって、教会でなかったら自分たちの心地いいように飾りをどんどん足していい」と述べていて、同じテンションで人間の美に関して、「軍人でなかったらもっと人好きのする柔和な顔立ち(原文ママ)を持っていていい」と言います。この価値判断の元では、軍人→(だから)→強面、男→(だから)→いかつい目鼻、逆にニュージーランド人→(ならば人間じゃないので)→身体を刺青で飾り立てて良いし、女子→(ならば男のような役割を持たぬので)→もっと優雅な目鼻や柔和な顔を持って良いとカントは言うのです。この辺あからさまに差別、ひっでえなあという感じですが、これらはすべてカントのあげた実例です。カント的には、人間の美しさというものは、各人が務める役割に応じて基準があり、それの基準の範囲内で美しいだとか美しくないだとか言われる、らしい。

平均的な男子の、平均的な鼻

さてこの節の最後、「美の理想なんてない」のところです。ここもロジックとしては、「目的」、「概念」、「完全性」と同じで、理想を持つことは、目的を持つことになって、目的を持つようなものは純粋な美しさとは呼べないからということになります。理念と理想という言葉がありますが、理念はより抽象的な概念で、理想というのはその理念を具体化したような個別の存在だとカントは定義しています(上、123頁)。カントによれば理念にも二つあって、「標準的理念」と「理性理念」がある。要するに経験的なものかそうでないかという区分なんですが、後者の「理性理念」に関しては人間の姿かたちを例にとって説明されています。「理性理念」が示す人間性の目的というやつを具現化したのが人間の形態であるという感じで、いささか逆説的に求められるものです(神の模倣としての人間というキリスト教の視座をここで思い出したりします)。さらに言うならこの「理性理念」とは何よりも「道徳」のことであるようで、それは「正しいか正しくないか」なので感覚的な刺戟を引き起こすことがないが、大きな関心を引き起こしてしまう、だから純粋な美しさではないとされます。一方「標準的理念」は、つまるところ「平均」であるという話になります。ここでカントが出してくる実例は、「美しい男子の標準的理念」という話で、ちょっとBLくさくなります。言葉遣いが面白い。
平均的男子に対して平均的な頭部を求め、更にまたこの頭部に対して平均的な鼻その他を求め (上、126頁)
「平均的男子」とは。
ただこの人間の平均値というのは純粋に経験的なものかというとそうではなく、今までに何百人と見てきた男子をざっとアーカイブしてみて、直感的に、そこからのズレを認識するという性質のものであるようです。で、この「標準的理念」に従って私たちが美しさを感じようとも、それは単に「正確」であるからにすぎない、だから純粋な美しさとは言えない、というのがカントの言いたいことです。
結局この3)目的の節では、美しさ、美しいと感じる判断は、「自由な遊び」によって「ハーモニー」を感じ取ろうとする点で、主観的に・形式的に目的と言えそうな何かを持っている。ただこれは目的を達成しているから美しいということではない。ということが言われます。

「わかるわ〜」

一番長いところを抜けました。それでは4)適意の様態について。美しさはどのように感じられるのか? それは必然的なものなのかどうか? というところです。カントの答えは、「美しさは必然的なものである」です。しかし留保つきです。
「美しさ」の必然さは、「正しさ」の必然さに比べたら弱いもので(「正しい」ことに有無などないはず(少なくともカントによれば)で、「美しさ」はぼくの感じかたと君の感じかたに違いは当然ある)、条件付きの必然さに過ぎない。我々が「美しい」と感じるには、それが普遍的に皆から賛同してもらえるということを期待している必要がありました。
「美しさ」は概念のものじゃない、感情=エモーションのものだ、という議論がありました(本記事、「ニュージーランド人」のあたり参照)。たかが感情の生み出した感覚について、どうして私たちは自信を持って他の人にも賛同を要求するようなことができるのでしょうか? カントによるとその根拠、条件は、想定されるべき「共通感」なる感覚です。つまり、「あ、わかるわ〜〜」という共感です。だから西野カナに対して「わかるわ〜〜」というのは、とても正しくて、それは美しさへの第一歩なのだ。
我々がこれらの判断者の判断をすべてこの原理(主観的=普遍的原理)のもとに正しく包摂しているという確信をもつ限り、客観的原理と同じく普遍的同意を要求して差支えないわけである。 (上、136頁)
美しさは感情のもので、その拠って立つところは「共通感」という感覚です。 私から見て、この「あ、美しいな」という判断が「共通感」に照らし合わせてみて他の全員に一致することが期待出来るならば、それは「美しい」と呼んでいいことになります。つまり可能性の問題になります。
この結論はどうなんでしょうか、我々はどこか、哲学者らしくない、というか、全部エモーションの問題になっちゃうんだ??!! というところが腑に落ちない(けれども確かにそう言うしかないような気もする)のですが、カントも自分でこの辺で諦めています。
我々はこれらの問題を、ここではまだ究明する積りはないし、また究明できるものでもない。 (上、136頁)
 逆に潔くていいと思います。これから究明されるんでしょうか?

フリーダム=スープリームでパーフェクト

以上で第一部第一篇第一章というところが終わりました。ところが実は「総注」という節がまだ残っていて、これが結構面白い。いきなり文章がロマンティックになります。ちょっと大事なことを抜き書きします。
・あるものを認識する(というかその前段で直感する=パッと見る)際、構想力に与えられるのは、その「あるもの」の形式に過ぎないけれど、多様なものがわーっと集まっているような形式で与えられる。それを受け取ると構想力は自由に、そして産出的(productive)に(再生的(re-productive)にではなく)はたらいて、調和を図ろうとする。
・美しいかどうかの判断は、「目的を持たない合目的性」に従ってはたらくようだ。
・だから有用だとか目的だとか言ったことは純粋な美しさの判断には余計なものだ。美しいかどうかの判断は、純粋な「観照」(ぱっと見)と結びつく。
・美しいかどうかの判断においては、悟性が構想力に仕えている。
・規則正しさも確かに美しい、だが理が勝ちすぎていて、自由じゃないし、目的を持つっぽい。下手をすると強制を意味してしまう。本来趣味に反してるんじゃない?? だから
規則の課する一切の強制から離脱した場合にこそ、趣味は構想力の自由な構想に関して、最高の完全さを発揮し得るのである。 (上、141頁)
・ 次の文章が非常に「美しい」(この場合の「美しい」はカントの用法を踏まえていますか?????)のでそのまま引用します。
心意識は、眼に触れるところの多様なものによって絶えず喚びさまされつつ創造の所産をもてあそんでみずから楽しむのである、例えば壁付暖炉のなかでちらちら燃える炎の形や、せせらぐ小川の流れてやまぬ水の姿を眺める場合が即ちこれである。炎にせよ小川にせよ、これらの形態そのものはいずれも美であるというわけではないが、しかし自由な遊びを営んでいるので、構想力にとってはやはり一種の魅力になるのである。 (上、143頁)
 こんなふうにこの章は終わりを迎えます。常に新しい感覚をもたらしてくれるもの、不定なもの、揺れ動くもの、遊ぶもの、自由なもの。そうしたものが純粋に趣味に適った「美しさ」を感じさせてくれるのだ、とカントは言います。
こんなガチガチでストイックな論を運んでいきながら、最後に至るや何かポストモダンの気配まで漂わせてしまっています(というより、ポストモダンこそカントへの立ち戻りだったのでしょうか? 知りませんが)。カント、ただものではないな、とやはり思います。
それはそうと、もはや我々は「美しい」という言葉をうっかりと使えなくなってしまった。口に出すたびにイマヌエルが頭の中で「え、お前の『美しい』、その程度??(笑) それは純粋に『美しい』のかな??(笑)」とか言ってくる。うるせえ!

さて、次回、読めるのか?(疲れた・・・) 第二章の「崇高」のところに入っていきたいのですが・・・
大晦日になってしまいました、良いお年を!

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