清竜人についてのメモランダム

友人に誘われて1/30、渋谷のO-EASTにて、グループイノウ、 the band apart、清竜人25が出演するイベントをみました。

グループイノウは最近はまっていて、もちろんすごく良かったのですが、それ以上に強い印象を残したのが清竜人25で、もうそれはポスト=アイドルのアイドルグループであるという一点に尽きるのですが。

清竜人といえば、あの凡庸な歌詞と非凡な自己プロデュースのミクスチュアである「痛いよ」みたいな楽曲(PV)でそもそもから名はあったわけで、プロデュースのされかた/しかたは、どこか中村一義とか初期七尾旅人風の、「触れると切れるような」系・サブカル/左に親和性のある天才・非凡さをフィーチャーする感じだったと思うのですが、歌詞をよく読んでみると、どちらかというと実は西野カナ系であり、十分にメインカルチャーである素地をもった人ではなかったでしょうか。

アルバムを出すたびに化けていって化けていって、ついに「アイドルグループ」に辿り着くわけですが、これは彼自身の「非凡な凡庸さ」とでもいうべきそういった素養を、うまく自己言及的で・いかにも際どいアイドルグループ、というかたちでうまく昇華し得た結果だと思います。というか彼の素質がそこまで導いた・そこに辿り至らざるを得なかった、という言い方が正確かもしれません。

清竜人本人をセンターとして、彼を「夫」、その他6人のメンバーを「妻(第○夫人)」とする発想は最高にイカれています。それをフェミニズムの視点から批判することは、例えばライバッハをシオニズム団体が批判するくらいセンスがないことです。だって最高にバカらしいじゃないですか。

観客はねじれた位置に置かれます。なぜならすでに最初から「恋愛可能性」が去勢されているからです。
アイドルグループ中興の祖AKBグループが、私的恋愛を禁ずるところにプロデュースの要を置くことで、オーディエンスとの「恋愛可能性」を措定し、「誰のものでもない女の子」を演じていたのと、それは正確に対応しています。
清竜人25という場で「逢いたい気持ちがあふれてるの」と歌われる時、逢いたさの対象とは、オーディエンスではあり得ず、ただ清竜人ひとりなのです。

そうしたねじれた関係性の劇場としてのアイドル、関係性の極北としてのアイドルである清竜人25なわけですが、アイドルについてこうしてことばを費やすことほど野暮で非生産的なことはないので、いい加減にしますが、要約を許していただけるなら、それはやはり、「かわいい」と、この一言に尽きるでしょう。

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