いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想
東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: http://raftweb.info/chekhov)。
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。
7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くところです。相手がいなくても、なんと自然に聞こえることでしょうか。チェーホフのセリフ作りの巧妙さと恐ろしさをいま一度確認できた気がしました。
カンパニー自体昨年結成されたばかりのようで、今後が楽しみです。
7/27 shelfによる『三人姉妹』をモチーフにした公演『三人(姉妹)』
まず冒頭で「カチューシャ」が流れるところから、期待外れな感じを抱いてしまいました。チェーホフの戯曲ほど軍歌(というか戦時歌謡)の合わない演劇はありません。そういった熱から一番遠いところで成立しているのがチェーホフだとわたしは思っているので。
この演出の肝は、おそらくそういった的外れかつ時宜を得ない歌曲の使用と、俳優たちによるグロテスクに引きつった過剰なセリフ回しの2点でしょう。そして自信を持って、二つとも成功していないと言えます。
俳優たちはわざとセリフを調子外れかつグロテスクな喋り方で表に出していくわけです。それはおそらくシリアスさの方面(例えばそれによって劇自体を解体してしまうような「うまくいかなさ」の表象を目すなど)を志向しているのではなく、ファニー・ユーモアの方向を目していることは明らかです。セリフを過剰なエモーションと表情によって出すことで、チェーホフのセリフを絶対化しないで笑ってみせる、そうした試みは理解できます。しかし欠点は、それがまったく面白くないという点です。おそらく俳優たちはベストを尽くしているでしょう。直前に一人降板した事情を鑑みても、俳優たちの演技に特に不足はないように思えました。どうしてなのか、わたしにはうまく言えませんが、チェーホフを笑う試みが、この演出ではまったく成功していない。そのせいで劇中に生まれるはずだった面白さが、まったく面白くないという意味で別次元のグロテスクに陥ってしまっており、結論としては退屈でした。そもそもこれがチェーホフの演劇、しかも「三人姉妹」である必要はあったのでしょうか。
チェーホフを笑うことは非常に困難です。笑ってみるならば底なしにやってみるがいいでしょう。今回の場合はどこか不徹底な印象を受けました。チェーホフは強い劇作家です。真剣にやるにせよやらぬにせよ凡百の演出はチェーホフと戦っても惨敗するのがオチでしょうが、百に1つくらいはその勝負において勝ちとは言わないまでも引き分け程度の成果を収めることができる演出があるという可能性に、わたしはこれからも賭けていきたいのです。今回の演出はそうした百に1つの演出ではなかった、と、それだけの話ではあるのですが。おそらくわたしはたった1時間の演劇に求めすぎなのでしょう。
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。
7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くところです。相手がいなくても、なんと自然に聞こえることでしょうか。チェーホフのセリフ作りの巧妙さと恐ろしさをいま一度確認できた気がしました。
カンパニー自体昨年結成されたばかりのようで、今後が楽しみです。
7/27 shelfによる『三人姉妹』をモチーフにした公演『三人(姉妹)』
まず冒頭で「カチューシャ」が流れるところから、期待外れな感じを抱いてしまいました。チェーホフの戯曲ほど軍歌(というか戦時歌謡)の合わない演劇はありません。そういった熱から一番遠いところで成立しているのがチェーホフだとわたしは思っているので。
この演出の肝は、おそらくそういった的外れかつ時宜を得ない歌曲の使用と、俳優たちによるグロテスクに引きつった過剰なセリフ回しの2点でしょう。そして自信を持って、二つとも成功していないと言えます。
俳優たちはわざとセリフを調子外れかつグロテスクな喋り方で表に出していくわけです。それはおそらくシリアスさの方面(例えばそれによって劇自体を解体してしまうような「うまくいかなさ」の表象を目すなど)を志向しているのではなく、ファニー・ユーモアの方向を目していることは明らかです。セリフを過剰なエモーションと表情によって出すことで、チェーホフのセリフを絶対化しないで笑ってみせる、そうした試みは理解できます。しかし欠点は、それがまったく面白くないという点です。おそらく俳優たちはベストを尽くしているでしょう。直前に一人降板した事情を鑑みても、俳優たちの演技に特に不足はないように思えました。どうしてなのか、わたしにはうまく言えませんが、チェーホフを笑う試みが、この演出ではまったく成功していない。そのせいで劇中に生まれるはずだった面白さが、まったく面白くないという意味で別次元のグロテスクに陥ってしまっており、結論としては退屈でした。そもそもこれがチェーホフの演劇、しかも「三人姉妹」である必要はあったのでしょうか。
チェーホフを笑うことは非常に困難です。笑ってみるならば底なしにやってみるがいいでしょう。今回の場合はどこか不徹底な印象を受けました。チェーホフは強い劇作家です。真剣にやるにせよやらぬにせよ凡百の演出はチェーホフと戦っても惨敗するのがオチでしょうが、百に1つくらいはその勝負において勝ちとは言わないまでも引き分け程度の成果を収めることができる演出があるという可能性に、わたしはこれからも賭けていきたいのです。今回の演出はそうした百に1つの演出ではなかった、と、それだけの話ではあるのですが。おそらくわたしはたった1時間の演劇に求めすぎなのでしょう。
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