文字24(生活についてのマニフェスト)
あなたの生活は、あまりに凡庸になりすぎてしまった。イヤホンで塞がれたあなたの耳には、わかりきったものしか入ってこないし、テレビが視界を奪い流れていくのは見慣れきった風景だ、目の前の知らない女から漂ってくる甘さ半分/海の匂い半分のこの香りさえどこかで嗅いだことがある気がする、橙色の電車に乗り込み、並走しながらわたしは半分眠りながらこんなことを考える。目の前の男が固く握りしめる鬼ころしを見つめることにも慣れて、わたしはもう危機感を持つことさえ忘れてしまった。
これに危機感を覚える事態があり得るとしたらそれはあなたの部屋で起こる。隣の誰かしらがあなたの耳元で「愛してる?」かと尋ねることがあるかもしれない。「愛している」、そのはずだ、あなたはその都度たえず自分に言い聞かせなくてはならない。その実、この感覚、胸の左のほうの奥にある「この」感覚と、そのことばはどこかどうしようもなくずれてしまっている、そういう感触を、その不気味さをあなたは鋭敏に感じ取っているはずなのだ。この温度差を埋めるために必死になること。痛ましいことだが、それを繰り返すことしかできない。「愛してる」「愛してる」「愛してる」。わたしたちは懸命に同じ言葉を繰り返す。ただ、その度にわたしの気持ちの「ここの」ものは薄れ消えていってしまうこと。
「まただ」。退屈な容姿をあざとさと容量の良さとでカバーすること。高校3年間を使ってアンニュイであることだけを覚え、少女を終えた女がつぶやくことになる。またわたしは何も与えられぬまま残される。セックスはインターネットが言い募るほど美しいものでも心地いいものでもなかった。頭のなかに止めていたほうが、あるいは気持ちよかったのかもしれない。裸であくびをしながらあなたはうっかり後悔をしてしまう。そしてこの後悔を打ち消すために手を伸ばし、生身の皮膚に触れる。しかしそのじっとりとした感触は、思いのほかあなたをぞっとさせる。「確かに愛している」。自分自身をそのことばで暗示にかけながら、自分の「この」感触をキャンセルする。
あいつが残していった消しゴム(及び消しかす)。布団に擦りつけられた匂い。3つだけのこった2箱目の避妊具。こんなところにある毛髪。借りられていった『百閒短編集』の気配。息の感じ。
それは「生活」だ。「生活」の子どもである。そういったものすべてがわたしを凡庸にさせる。わたしは限りなくわたしであろうとする生活の中で日常に身をやつし、日常はわたしから(そのあまりにもわたしであるその一点において) わたしであることを剥奪する。
それは「制度」だ。日常化した生活は制度であって、その制度の中でわたしは生活を放棄しあまりに快楽に満ち満ちた日常に体を委ねる。日常は心地がいいのだ。なににも気づかないで制度の上に乗っていさえすればいい。そうすれば20歳の現在は20年30年のギャップなどすぐに飛び越し、気づいた時にはうず高く積まれた生活の塵芥の間でもって幸福のあまり窒息して息絶えることとなる。なにも考えないことは美しく、何より気持ちいい。
私ならざるものへと押し流してゆく流れとしての生活、この絶えざる私でないもの、私でなさ、私でなくさせるもの、に抵抗せねばならぬ。これは「わたしではない」のだが、一般的な「わたしでなさ」よりも生活がおそろしいのは、なにしろ生活とはあくまでわたしがわたしであろうとする日常の延長線上に位置するものだからだ。わたしは「なりたいわたし」であろうとするあまり、生活を希求する。しかしその生活こそが腐りゆく。あるいはすでにその夢にまでみたその生活そのものが不可能であることを運命付けられているがために生活は私のものでなくなってしまう。それに気づいたとき、どのようにして生活がただ日常でなくあざらかで鋭いものに再び回帰し得るだろうか。生活は忘れよと命ずるにせよ。見ること・聞くこと・嗅ぐこと・触ることをもっても(違和感こそ持つにせよ)生活がすでに堕落しきってしまっていることに気付けないとしたら、なにが最後に拠り所になり得るか。
ブランショは言う。「詩のことばだ」。詩? それは役に立たないことの代名詞ではなかっただろうか。しかし、ところで生活とは絶えることを知らぬ有用さの謂いである。わたしが、わたしの生活が、有用さの果てに堕落を余儀なくされるのであれば、そこに「無用さ」を継ぎ挿すことは、有用さのサイクルのストッパーとなり得る。そもそも詩とはレトリック=雄弁術から派生したのだった。雄弁術とは高踏な手段を用いことばを生活から切り離す所作ではなかったか。それは絶え間なく下り行く生活のスパイラルに投じられる最初の変化の兆し、異化である。「詩」であることを忌避すべきでない。「愛」があなたの「その」愛を指示しない今、日常の言語にこだわる必然性などどこにもない。むしろこの「生活の言語」の対照ネットワークを一度全て解除すべきなのだ。胃を裏返すまでに嘔吐すること。0から始めること。いまわたしのことばがわたしのなかの「ほんとうである」何ものとも対応しないならば、「0状態」と現状とは、変わる何ものもない。その現状を吐き尽くしてしまうこと。
そこには沈黙が訪れる。それはことばというよりもむしろ啞状態に近い。生活のことばと新しくもたらされた「0」状態との違いは、わたしの生活再生へかける意志である。そこでは生活が終わり生活が始まる。
(2014年外語祭ピンク・フロイドのための没原稿)
これに危機感を覚える事態があり得るとしたらそれはあなたの部屋で起こる。隣の誰かしらがあなたの耳元で「愛してる?」かと尋ねることがあるかもしれない。「愛している」、そのはずだ、あなたはその都度たえず自分に言い聞かせなくてはならない。その実、この感覚、胸の左のほうの奥にある「この」感覚と、そのことばはどこかどうしようもなくずれてしまっている、そういう感触を、その不気味さをあなたは鋭敏に感じ取っているはずなのだ。この温度差を埋めるために必死になること。痛ましいことだが、それを繰り返すことしかできない。「愛してる」「愛してる」「愛してる」。わたしたちは懸命に同じ言葉を繰り返す。ただ、その度にわたしの気持ちの「ここの」ものは薄れ消えていってしまうこと。
「まただ」。退屈な容姿をあざとさと容量の良さとでカバーすること。高校3年間を使ってアンニュイであることだけを覚え、少女を終えた女がつぶやくことになる。またわたしは何も与えられぬまま残される。セックスはインターネットが言い募るほど美しいものでも心地いいものでもなかった。頭のなかに止めていたほうが、あるいは気持ちよかったのかもしれない。裸であくびをしながらあなたはうっかり後悔をしてしまう。そしてこの後悔を打ち消すために手を伸ばし、生身の皮膚に触れる。しかしそのじっとりとした感触は、思いのほかあなたをぞっとさせる。「確かに愛している」。自分自身をそのことばで暗示にかけながら、自分の「この」感触をキャンセルする。
あいつが残していった消しゴム(及び消しかす)。布団に擦りつけられた匂い。3つだけのこった2箱目の避妊具。こんなところにある毛髪。借りられていった『百閒短編集』の気配。息の感じ。
それは「生活」だ。「生活」の子どもである。そういったものすべてがわたしを凡庸にさせる。わたしは限りなくわたしであろうとする生活の中で日常に身をやつし、日常はわたしから(そのあまりにもわたしであるその一点において) わたしであることを剥奪する。
それは「制度」だ。日常化した生活は制度であって、その制度の中でわたしは生活を放棄しあまりに快楽に満ち満ちた日常に体を委ねる。日常は心地がいいのだ。なににも気づかないで制度の上に乗っていさえすればいい。そうすれば20歳の現在は20年30年のギャップなどすぐに飛び越し、気づいた時にはうず高く積まれた生活の塵芥の間でもって幸福のあまり窒息して息絶えることとなる。なにも考えないことは美しく、何より気持ちいい。
私ならざるものへと押し流してゆく流れとしての生活、この絶えざる私でないもの、私でなさ、私でなくさせるもの、に抵抗せねばならぬ。これは「わたしではない」のだが、一般的な「わたしでなさ」よりも生活がおそろしいのは、なにしろ生活とはあくまでわたしがわたしであろうとする日常の延長線上に位置するものだからだ。わたしは「なりたいわたし」であろうとするあまり、生活を希求する。しかしその生活こそが腐りゆく。あるいはすでにその夢にまでみたその生活そのものが不可能であることを運命付けられているがために生活は私のものでなくなってしまう。それに気づいたとき、どのようにして生活がただ日常でなくあざらかで鋭いものに再び回帰し得るだろうか。生活は忘れよと命ずるにせよ。見ること・聞くこと・嗅ぐこと・触ることをもっても(違和感こそ持つにせよ)生活がすでに堕落しきってしまっていることに気付けないとしたら、なにが最後に拠り所になり得るか。
ブランショは言う。「詩のことばだ」。詩? それは役に立たないことの代名詞ではなかっただろうか。しかし、ところで生活とは絶えることを知らぬ有用さの謂いである。わたしが、わたしの生活が、有用さの果てに堕落を余儀なくされるのであれば、そこに「無用さ」を継ぎ挿すことは、有用さのサイクルのストッパーとなり得る。そもそも詩とはレトリック=雄弁術から派生したのだった。雄弁術とは高踏な手段を用いことばを生活から切り離す所作ではなかったか。それは絶え間なく下り行く生活のスパイラルに投じられる最初の変化の兆し、異化である。「詩」であることを忌避すべきでない。「愛」があなたの「その」愛を指示しない今、日常の言語にこだわる必然性などどこにもない。むしろこの「生活の言語」の対照ネットワークを一度全て解除すべきなのだ。胃を裏返すまでに嘔吐すること。0から始めること。いまわたしのことばがわたしのなかの「ほんとうである」何ものとも対応しないならば、「0状態」と現状とは、変わる何ものもない。その現状を吐き尽くしてしまうこと。
そこには沈黙が訪れる。それはことばというよりもむしろ啞状態に近い。生活のことばと新しくもたらされた「0」状態との違いは、わたしの生活再生へかける意志である。そこでは生活が終わり生活が始まる。
(2014年外語祭ピンク・フロイドのための没原稿)
コメント
コメントを投稿