「BLとしての世界」論

例えばあらゆることが陳腐でかつすべてが当たり前でありすぎるこの社会とその織りなす物語のうちに陥穽を見出すこと。別の語り方の流れによってこの至極当然な「生活」の有様に穴を穿つこと。そういうオルタナティヴな語り方をポストモダンは生み出そうと努力してきた。あらゆる既成のものを否定し、あるいは否定せずに冷笑してみせること。そういった身振りによってポストモダンは「生活」を打破しようとしてきたのではなかったか。その方法論は、しかし2015年に入ろうとするいま、息切れを起こしてしまっている。「生活」の強力で粘着質な罠を取り払うことに集中しすぎたあなたたちポストモダンは、すでに静かに生命を終えようとしている。

ところでわれわれにはBLがある。BLのあまりに軽やかな動きにわれわれという小さな男の子は青ざめるほど驚愕してしまう。BLというあまりに生き生きとしてしなやかな非-物語の作り方に対してポストモダンはもう言葉を失っている。BLという局面において、ポストモダンが言いたかったことはすでにすべてがしかも軽やかな手振りで、言われているからだ。

ここでは「BLからの女子マンガ」家と仮にわたしが名付けた2人の作家について論じたい。すなわちよしながふみと水城せとなである。
水城とよしなががともに1971年生まれであることを考慮すれば、こうした漫画家に代表される世代を「70年世代」と言い立ててもいいだろう。10代のころに80年代を経験して育った世代と総称してもいいはずだ。すなわちダイレクトにニューアカデミズムの波をかぶって育ったマンガ家たちであろうから、ある程度のクレバーさを想定することができる。「24年組」がモダンマンガ文化におけるクレバーな語りのパイオニアであるとするなら、そのポストモダン・アップデートヴァージョンこそがこの「70年世代」の諸マンガ家である。
ここに挙げた作家、あるいは1970年以降に生まれ現在女子マンガの枠を超えて作品を発表している多くの作家(志村貴子、羽海野チカ・・・)が、BL同人誌をオリジンとしていることを忘れてはならない。物語論的に言ってBLとは、少年マンガ的な単一の大きな物語に対する救済の手つきである。少年マンガ的と私が述べるのは、①主人公が存在し ②窮極的な「何か」が求められ ③主人公の仕草が常に「世界」に関わっていく ようなマンガ群のことである。それは基本的に「世界」を、主人公と求められる「何か」によって集約して一つの大きな物語に乗せていく。BLはその物語に間隙を見出す。分かりやすく二次創作的BLを例にとって言うなら、①主人公以外の人物が引き立てられ②「何か」具体的なものよりも関係性が重視され③世界を極小化し、分裂し、相対化する手つき、これこそがBLの強さである。

こういう意味でBLとは現実逃避であって、現実逃避でない。語の最もポジティヴな意味で「現実逃避」でしかないのは、BLがわたしたちの「この」ありふれた・退屈な・どこにも逃げ場のない現実からの逃走線を成すからだ。BLは、単一の・強迫的な「現実」への服従を拒み、新しい・オルタナティヴな生活を提案しさえする。読者は、「萌え」という仕草を通じてこのあたらしい可能性を夢見ることができる。一方語の最も卑小な意味での「現実逃避」でありえないのは、自覚的なBL作家・BL出身作家らは、必ずいまの「この」現実と正面から向き合っているからだ。彼女らの物語には痛みがつきまとう。しかしそれはまた誠実さの謂いなのである。また一つの別の例を挙げるなら、クレバーな作家(よしながや羽海野などを例に挙げればいいだろうか)はしばしば「お金の大切さ」を説く。至極もっともであるが、少年マンガがそこまでのリアルさをもって現実を認識しているか。少年マンガこそ、あるいは現実逃避に過ぎないのではないのか。

以下の論で取り上げる作家は、いずれもそれぞれの意味でクレバーな作家であり、単一の論点でまとめ上げることは暴力にも等しいのだが、この論では仮に彼女らに通底していると思われる「現実の破棄」というテーマをもとに作品を読んでみたらどうなるか、ということを試みる。


*この物語を破棄する  — よしながふみの場合

よしながふみの初期作品『彼は花園の夢を見る』はおそらく彼女がよしながふみという独自のポジションを漫画界で得ることへの布石となった記念碑的な作品である。この作品にはもちろんBLの気配こそ横溢しているものの、あからさまに性描写が描かれることはすでにない。よしなががインタビュー集『あのひととここだけのおしゃべり』で語っていることを参照すれば、BL以前から「耽美系」という別系統の伝統が女子マンガ界には存在している。それは大雑把に言えば、美少年同士の悲愛モノである。「悲愛」モノであるという条件は雑誌JUNEなどが代表する「耽美系」にとって必須条件だった。美しいものは美しいまま死なねばならない。醜い世界に内包されるシェルターとしての美しい世界のなかで。このような世界観が「耽美系」に属するとすれば、よしながはそれを断固として拒絶する。現実とのコミットへ!「生活」へ!それがよしながの基本的な姿勢である。

その身振りがまったく象徴的に現れるのが『彼は花園の夢を見る』のラストシーンである。この中世ヨーロッパという耽美的なファンタジーを忠実に守る舞台設定に則る孤独な貴族の悲愛モノは、「耽美系」の定式を守るならば、貴族と下僕の少年が結びつき、二人は死なねばならなかった。美しさの喪失に胸を痛めること。それが「耽美系」の語りが目指すところである。よしながの物語(回想という語りの次元が2重3重に入り込むことですでに第一義的な「物語」ではあり得ないのだが)は、多少のズレを含みつつもその基本路線を踏襲する。ところがそこに見事なラストが待ち受けている。メインキャラクターである貴族と少年はラストシーンにおいて死を志向しながらも、自殺の実行過程において「飛び降りた地点に、死に別れた貴族の妻が植えた植物が植わっている」ことによって死は回避され、鮮やかに(いささか凡庸な手つきではあるが)生の側に留まるのである。そしてその後の生を生きとおすこと。それは眠りこけて涎を垂らすように平凡で代わり映えなくいささか汚いものである。どうしようもない「生活」を、それでも生き通してしまうこと。それは美しいものを美しいままで終わらせる「耽美系」の語りと比べてみると、よほど誠実でリアルな語り口である。

チェーホフが『かもめ』から『ワーニャおじさん』へ到る道程で見つけ出した語り口にも比せられるよしながのこの語り方を、彼女は続けていく。『西洋骨董洋菓子店』『フラワー・オブ・ライフ』などで語られるのは、「生活」の耐えられなさを笑いながら生きこなすこと、これである。トラウマは克服されないだろう。傷は遺るままだろう。痛みはあり続け、愛は不在であり続ける。この耐えられなさの、どうしようもない誠実さ。この誠実さがよしながふみの作品を独特な位置に置き続けている。


ところが彼女の近作『大奥』において、彼女は新しいステップを踏み始めたようだ。ここではすでに「偽史」が語られ始め、作品には「生活」を強固な意志をもって粉砕しようという作者の野望が満ち満ちている。すでにそれはいまある「この」生活を打ち消す可能性を示唆する所作ではあるが、あくまでもそれは現実の否定ではない。オルタナティヴな現実の可能性の提示である。

『大奥』では、徳川幕府の将軍が女性であったという仮定をもって語られる「SF大河ロマン」(帯より引用)である。すでに設定からして、これまでの取り組みとは規模が違っていることに気づくかもしれない。「歴史改変」モノSFが戦う相手は、「歴史」であり「現実」そして「物語そのもの」の他ない。いくらでも考え付くSFのジャンルのうちここまで相手が巨大なものもそう多くない。異世界・宇宙モノは嫌が応にもわたしたちの「この」現実世界を前提とせざるを得ないし、時間旅行モノでさえも立脚点としての「現代」を必要とし、しばしばわれわれの時代の主人公の目線が決定的にそのオルタナティヴに対して異であることでその「過去」なり「未来」なりは成り立っている。異世界モノの「火星」、時間旅行モノの「過去」「未来」は、あくまでわたしたちの「この」現実「を」異化する作用しか持ち得ないため、副次的な存在にすぎない。ところがよしながは『大奥』を語り始めるにあたって「偽史」という手法を選択した。語り全体の枠は、「御右筆」という役職(将軍が女であるという「現実」を私たちが知る「本当の」歴史(男系の歴史)にコンヴァートして記録する役職)の人物によって決められている。それに加えよしながは『大奥』で語られる「現実」を、多少の改変を加えながらも随所で巧みにわたしたちの知る「本当の」歴史に接続しようとする。この所作が示していることは何か。

よしながふみはわたしたちが思っているよりクレバーで野心的で挑発的な作家であるという事実である。『大奥』で語られる歴史が仮に「偽史」であると言い立てるとして、しかしその「偽史」は「正史」であるわたしたちの知る「この」歴史とほとんど継ぎ目などないままシームレスに接続されている。こうしたよしながの語りは「正史」に間隙を見出し、「正史」と「偽史」の境目が曖昧な状態に落とし込み、その結果としてわたしたちの唯一・単一の「正しい歴史」は相対化される。わたしたちの知る「この」唯一の歴史は、本当のところよしながふみの「偽史」と同じ程度に可能性の一つにすぎない。絶対の「歴史」が、一つの語り方のヴァリアントに過ぎなくなる様を、わたしたちは目の当たりにするだろう。

『フラワー』などのゆるくてふわふわな現実感の先に『大奥』のような作品が待ち受けていることは誰にも想像ができなかったに違いない。誤解を恐れずにいうならば、『大奥』以前の作品はよしながにとって助走にすぎなかったのだ。よしながは絶妙な手つきで「日常」の貌をした現実の品定めをすることだろう。その手には「24年組」というメスが握られている。その結果が『こどもの体温』であり『フラワー・オブ・ライフ』であり『西洋骨董洋菓子店』なのだろう。しかしよしながふみはそこで立ち止まらない。誠実に現実をすくい取った優しい作家は、その誠実さゆえに新しい現実の可能性を模索し始める。そして唯一絶対の「この」現実は、単にあり得たかもしれない語り方の一つのあり様に過ぎなくなる。その時点で「生活」は終わり、生々しく新しい「現実」の片鱗が姿を見せ始めるのである。

*わたし以前の現実を夢みる  — 水城せとなの場合

誠実さ、という点で見るならば、水城(みずしろ)せとな以上に「誠実」な作家を考えつくのは難しい。よしながふみが全的な現実そのものを志向しているのに対し、水城の語りはまったく逆方向を向いているように思える。つまり、われわれとは誰かという問いに答えるかたちで人間の内面をこれ以上になく深く掘り下げる語りを水城は得意としている。だが、徐々に判明していくように、水城もまた別種の(あるいはよりラジカルな?)現実破棄者であることは断言してよい。

その絵の端正さを生かしてBL・耽美的な作品群を多く発表していた水城にとって大きな転換点となったであろう作品が、『放課後保健室』である。ここで私たちに衝撃をもたらすのは、水城の近作『失恋ショコラティエ』さらに『脳内ポイズンベリー』で継承される水城的「枠構造」の鋭さに他ならない。
『放課後』の始まり方からしてすでに戦略的なのであって、物語は学園における青春モノを連想させるかたちでスタートする。そしてあざとくも少年マンガにおける「ダンジョンシステム」を模倣してみせる。水城の書く絵は特色ある端正なもので、この画力が私たちを否応なくこの「擬-物語」的なシステムに導きこむだろう。しかし油断してはいけない。クライマックスが近づくにつれ明らかになっていくのは、作家水城自身のクレバーさであり、そこから発する物語としての「この現実」粉砕の強い意志である。

まず作品が最初の段階でとるダンジョン的な構造からして、そもそも「夢」の中の話という枠が設定された上で成り立っている。物語はほぼ夢の中で進行する。夢の中では生徒一人一人がその心の形に応じた様相をとるのであり、そこには「ほんとうの」リアルなわたししか現れ得ない。いちおうのメインキャラクター一条真白は、両性具有であり、男と女の間で揺れ動いたりする。それがもうラスト近い38話の前後までは、「そういう」物語だと思われることだろう。そういうーつまり一種の自己実現の物語、一般的なビルドゥングスである。

水城が凄みを発揮するのはここからだ。性の帰属に悩む高校生の自己実現の話としてだけみても十分にうまくできているにも関わらず、水城は新たな枠を打ち立てて物語全体をより大きな視点の元で解体する。つまり、物語の舞台は「母親の母体の中であった」という、想像をはるかに凌駕する枠の出現である。つまり全体の構造としてはこうなる。

第1層:一条が「保健室」で見る夢世界
第2層:一条真白を取り巻く学園生活
第3層:「一条」の母親 の/という 外部

となり、第1層は第2層に、第2層は第3層に、それぞれ内包される。つまり、もはやラカンなど読む必要がなくなってしまうのだ(原始体験へのトラウマだとか、自分自身の殺害による「愛」の実現だとか、ラカン好みのテーマが山ほど転がっている)。

こうして整理して読んでみると、物語全てが概念的であることが判明する。第3層が登場することで、一条真白という登場人物は正確には「一条真白に将来なるであろう概念体」であり、「保健室」とは「夢の集団培養機能」であって、「夢」とは実は「『夢』の『夢』」のことであったことがあきらかになってしまう(この事態に含まれて見られる「夢」世界を以後仮に《夢》と表記する)。そこでは「私」の自己実現はおろか「私」は未だ生まれていないのであって、「私」の誕生こそが作品の最終的なテーマとなっている。そう、「私」はこれから生まれることになっている。つまり、よしながふみと強引に接続するなら、そこでは「可能性」の問題がまたもや問題になっているといっていい。オルタナティヴな私の可能性は、誕生というあるひとつの「通過」以前には無限にあるはずだが、「誕生」は「現実の私以外」の殺害でしかないこと。わたしは、あらゆる可能性を殺害した上で可能である存在である、ということを水城は明言している。そのグロテスクさ。飄々と「誕生後」の世界を描きつつも、そこには「2人目の私」の可能性が消去された真白なり蒼が描かれており、彼(女)らは、現実においては出会う可能性をすでに永遠に消去されている。もしかしたらひょんな瞬間に二人の世界は触れ合うことがあるかもしれない(最終章において「真白」(をプロトタイプとして誕生した存在)の落し物を 「蒼」(をプロトタイプとして誕生した存在)が拾う瞬間のように)。しかしそれは第1層の《夢》の世界の中のように、お互いの世界がお互いの世界に内包されつつ包み込むような、またお互いに改変可能であるような、自由で正直な世界とはまったく異なるソリッドな現実なのである。「現実」と最初思えたものはじつは現実ではなく、可能性の一つの現象に過ぎなかった。しかしリアルの、「誕生後」の現実に比べてなんと自由であることか。

水城の攻撃対象となっているのは、この私でしかありえなくなって硬直化してしまった「わたし」である。それはよしながが制度としての「現実」を破棄しようとする手つきによく似ている。冒頭で、水城はよしながよりラジカルかもしれないとほのめかしはしたが、実際にはどちらがラジカルであるとは言えないかもしれない。よしながの現実破棄は範囲が広く、水城は、その攻撃対象が「わたし」というひとつの自我であるため、よしながに比べ深さを志向していると言えそうだ。


前述した「自由で正直な」世界(=《夢》)というものに、水城は明らかに憧れと確信を持っており、以後の作品ではより企てをポップな方面に推し進めながらも同じ方向性を志向し続ける。『失恋ショコラティエ』の舞台は、登場人物がみな正直すぎる世界である。本当のことしかできないから人は傷つけ・傷つかねばならない。『脳内ポイズンベリー』はよりフィクションな設定を加えながら、ある登場人物(いちこ)の思考様態があらかじめすべて開示されている、という点でまたこれも一つの「正直」な世界の可能性に他ならない。

水城の「正直」な《夢》世界に対置されるべきは、当然現実の、わたしたちの「この」世界である。わたしは、あなたの考えていることがわからないからこのように遠回りしてコミュニケートしなければいけない。そのせいでまたあなたにとってわたしも不可能になってしまう。水城が構想する世界とは、『放課後保健室』の《夢》のような、わたしの世界とあなたの世界がダイレクトに接続され、両者にとって両者が相互に改変可能であるような世界である。そこではすべてが許されており正直で誠実であるがために、あらゆる関係はとても痛ましいものとならざるを得ない。その痛みを受け入れること。その上でも他者への配慮を忘れないこと。その先に水城は新しい、「これでない」現実を描いてみせる。

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