文字15「ねむられ」(マシュマロウズ)

ねむられ


一度「ねむる」と決心した者が、実際に眠りに辿り至るまでに50の歳月を過ごした。男は50の年月を、ここ、の現実からそちら、へと移行する段階に、確実にいたのだが、その実そのどちらにもたどり着くことのないあいだの場所にいたのだった。しかし50年を経た今日、男は何かを得る一方、その代価として何かを失い、その失われの過程の中で眠りを経験していたに違いない。ここ、乾燥した地面のどこかしらから水分を得て生き延びる植物らの赤茶けた土地で、男は初めの眠りを経験していた。
男は夢を見ていたのだった。男はいまや男であることをやめているらしかった。夢の空気は至るところ甘く、男であった者はすでにそれを存分に吸い込み、そうすることで夢を深くまた濃く見ることにしたようだった。
男であった者は、白い服を身につけ、白い夢を泳いでいる。自分は少女であるらしかった。そのきれいに磨き上げられた小さい爪の手を口元にやると、金属製の矯正具の冷たい硬さに触れた。
甘い空気はどこから漂っているのか。男であった少女が、いまはじめてゆっくりと目を開けることを決めたのちに、長い睫毛は律動をはじめたのだった。
そこはトイレだ。甘い匂いは手に持ったマシュマロの袋から漂っているらしいが、微かに混じる化学薬品の匂いはどこから来ているのか、彼女は不思議に思うふりを、ひとしきり演じてみる。マシュマロから漂っている気もする。しかし目の前にある洗浄用の緑の液体から彼女の鼻に到達していた可能性もいまいち捨てきれないのだった。あるいは、わたしの鼻がなにか化学的な製法によるのかもしれない。そう思うと彼女は下で口を開けて待ち受ける便器に向かって体のどこか奥の方から静かな笑い声をくつくつと吐き出すのだった。
どこか遠いとこらから他の少女らの軽やかで残酷な、あの特有の笑い声が静かに反響して聞こえてくる。反復運動をする靴と床の摩擦の音。運動する彼女たちのユニフォームの中で伝う汗の匂いが、トイレのなかに微かに残っていた。
少女はそういったもろもろの漂うものをひとしきり小さい鼻腔で吸ってみたのち、ひとりそこでマシュマロを頬張ることにした。緑か、白か、うすいピンクか、黄色か、青らしいものか。選択肢は多くあった。腰と肩のちょうど中間あたりまで伸びた黒い髪を細い指でくるくるしながら、彼女は大きめな目を潤ませ口を歪めることにした。選択肢なんてなければ良かったのに。まだ小さい頃に失なった選択肢たちへの哀悼の感情が、最近になって彼女の中で繁殖し、その静かだが限界を強要する仕草が、すでに彼女を脅かすようになっていた。半開きになった口から、矯正具の尖りが、ニュッと生えた。
ふっと彼女は立ち上がる。目を閉じて。そしてマシュマロの袋に手を入れると、一つつまみ出した。男にはそれは白いマシュマロだ、ということがなぜかわかった。
彼女は舌だけを少し出して、マシュマロに舌を近づけた。だが彼女の中で何かが突然倦怠し疲弊し、死んでしまったようだった。ふと気づくとマシュマロは落下の途上にあった。我々は、すなわち、男と少女は、何らかの行動の禁止を自らに強いて、動く眼球で、マシュマロが落下する光景を眺めていた。
最初に着水する面が洋式便所の溜まった水に触れた。
その時だった。マシュマロは膨らみはじめたようだった。最初は少しずつ。次第に2倍、3倍に。貯められた水の中で、マシュマロは成長していく。便器を、いつの間にかむくむく膨らんだマシュマロが占拠していた。しかしまだ膨張はやまない。その個室全体を埋めつくそうとするかのようだった。マシュマロは、彼女のワンピースの襞に触れ、か細い腕に触れた。彼女は目を開け、すべてをみて、鼻から空気を食べて、笑った。天国みたいだ、と彼女は思った。すこしめまいがした。
マシュマロは膨張していく。洗剤のボトルが倒れ、中の緑の液体がマシュマロの一部分を緑に染めた。つんと鼻をつく匂い。すでにマシュマロは彼女の背丈を越し、個室のドアを内側から押すまでになった。金属質な音をたてて便器が欠け壊れ、水が漏れ出て、彼女の白い靴を濡らす。彼女はますます大きな声で笑うことにした。
ふとマシュマロのなかに、なにか荒涼とした山地の茶色い風景を、彼女は見た気がした。手を伸ばすと、乾燥した空気に触れた。遠くに聞こえていた少女たちの声が、心なしか近づいてきたように思えた。彼女はそこから逃げるように、マシュマロの中に入っていった。

男は目を覚ました。男は男だった。痛む腰をおして起き上がると、さっきとなんの変化もないロッキー山脈の光景を、男は見た。手元の麻の袋をゴソゴソやって、男は、「ロッキー・マウンテン・マシュマロウズ」を取りだした。今夜のために火を起こすことからはじめよう、今夜はマシュマロを焼くのだ、と男は考えた。
男は、眠るために外した、右目の方に少しヒビの入ったメガネを取り上げて、かけた。立ち上がると、少しめまいがした。眠るのになれていない身は、これだから困る、とひとり呟く。そして男は粘った口から痰を吐き出し、衣服についた埃を手でさっと2回払うと、赤くそまりつつある夕暮れの山地を、今夜の薪を求めて、歩いて行った。


03.05.2013
マシュマロウズのために

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