文字7(ロシア語) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 6月 15, 2013 ロシア語には、Частных, Крученых, Белыхといった形容詞の複数生(前置)格をもって主格単数名詞とする姓があるのだが、近ごろそれらの姓たちのことを思いつめるあまり、-ым, -ам, -ыхのごとき語尾が蝶のように乱舞し交配し、挙句無限に無茶苦茶に連なった語尾のその鎖がわたしの首を絞めてあげていくような苦しい悪夢をみつづけていたのだが、正解は「変化しない」とのことで、わたしは久方ぶりに安眠を取り戻したのだった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
ローベルト・ムジール『特性のない男』 5月 07, 2011 だからなんだよ。 まるまる一ヶ月ほどかけて読み通した。 この本を手にする者の最初の関門であるところの第一部第1章からしてもう閉口しそうになるのを押さえながら読み始めた。 この本ほど読むのがきつかった小説は今までに読んだことがなかった。大西巨人「神聖喜劇」は高一の時に「入学記念」として図書館で読んだ経験があるが、しかし話自体が非常に面白かったので、高校生であってもさほど苦労はなく読めた気がする。 しかしムジール ( 表記は手元の訳書に従う ) は。晦渋な文章、日常のあらゆることに対する偏執、子細なことに何百もの単語を費やす律儀さ、実感がわかないこと、などすべての要素が相まってこの本を読みにくくしている。 まず「特性のなさ」を把握するのに苦労する。 ( 一応の ) 主人公ウルリヒには、我々が今、現代的意味において認識しうる「特性」というものを持っているように、一見して思われる。しかし我々の言うそれはいわば「個性」として認識しなければならないのであって、「特性 (Eigenschaft; 英語で言う qualities) 」とは、また別物であるようだ、ということがだんだんにわかってくる。 「・・・特性をもつということは、その特性のもつ現実性へのある歓びを前提とする以上、自分に対してさえ何の現実感覚も感じない人間が、ある日突然に、自分は特性のない男なのだと自覚する・・・」 (<Ⅰ 巻 > 第一部第 4 章 ) 「現実感覚」に対しては「可能性感覚」が語られる。 「・・・それは可能な現実 [= まだ生まれない現実 ] にたいする感覚なのであって、たいていの人間に属している現実的な可能性にたいする感覚よりも、はるかにゆっくりと目標に到達する。」 ( 同 ;[] 内は工藤による挿入 ) つまり、要約を許してもらえるならば、現実問題よりも可能性の問題 ( 現実から乖離した問題でなく、現実の延長線上にありうべき問題 ) について重きを置くある種の ( 「優性」の )” 理想家”が、この場合ムジールのいう「特性のなさ」なのではないだろうか。「 ( 現実的 ; 社会的 ) 特性」と補ってもいいかもしれない。 ( 複数形になっているのが気になるが。 ) ムジールの難解さは、私がこ... 続きを読む
【移転します】ブログの移転について 11月 23, 2019 工藤順のウェブサイトを以下に開設しました。今後はこちらをメインに使っていきますので、フォローをお願いします。 https://junkdough.wordpress.com このbloggerも、大学時代に考えていたことの記録として、当分のあいだ残しておく予定ですが、更新はしません。 ### 2011年から使っていたツイッターをやめることに決めたことがきっかけとなり、いいタイミングかなと思い、ブログも一区切りしてみることにしました。 ツイッターに関しては、人とくらべたらかなり距離を置き、依存しない程度に使っていたつもりですが、特に最近、ツイッターというメディアの悪いところばかりが目につくようになり、実際の使用時間とは関係なく、結局「ツイッターについて考えている時間」が多くなっていました。これが非常に不毛であり、精神的にも悪い状況であると考え、ツイッターを離脱することを決めました。そもそも何かwebサービスをやめることに関しては、まったくなんの躊躇も要らないはずなのに、ネットワーキングができてしまっていることで、どうにもやめづらい状況をつくっているというのがまた、SNSの特徴でもあるのですね。 ツイッターをやめるにあたっては、印象的な2つの出来事がありました。 まず、戸田真琴さんの以下のnoteの記事です。特に補足はしませんので、一読していただきたいと思います。 https://note.mu/toda_makoto/n/n7f9eaf91302e もう一つは、マルセル・プルーストという小説家の『失われた時を求めて』を読みはじめたことです。学生のころに、「読まねばならない」という強迫観念に追われるように冒頭を一読し、そしてすぐ放棄したのち、きっと一生読まないのだろうなと思ってさえいたのですが、先日本当に偶然のことでしたが、高遠弘美さんの光文社古典新訳文庫での翻訳の第1巻を読みはじめたところ、ページを繰る手が止められなくなってしまいました。こういうタイミングが、人生にはやってくるものなのですね。この本を読むにあたり、プロットは本当にどうでも良い。むしろ、文章そのものの色香…匂い出てくるとしか表現のしようがない、あまりにも豊かな表現の数かずを追っていくことの愉悦に、わたしは「文学」とその力を再発見でき、... 続きを読む
クラースヌイ・ファーケル劇場「三人姉妹」 11月 07, 2019 久しぶりに、これは自分のために感想を書き残しておかねば……という鑑賞経験をしたので、クラースヌイ・ファーケル(レッドトーチ)劇場の来日公演『三人姉妹』(10/18-20@東京芸術劇場)について、感想を書き記したいと思います。あくまで、傍観者として、一観客としての鑑賞記録です。 画像は、東京芸術劇場HPより チェーホフについていえば、わたしが成長=加齢するのに歩を合わせるように、その年どしでわたしは好きな戯曲に出会われてきました。大学1〜2年生のころは『かもめ』でしたし、大学後半では『ワーニャおじさん』でした。そもそもわたしは実際にすぐれた劇を見ることでしかチェーホフを自らの体験とし得ないできたわけで、『かもめ』についても『ワーニャ』についても、その時どきにある演出と出会うことによってチェーホフは「わたしの劇作家」になってきました(最初にみた『かもめ』はよく覚えていないが、重力/Noteの『かもめ』公演はわたしにとって特別な経験になっているし、『ワーニャ』は青山真治の演出やペテルブルグのMDTで見たことを覚えています)。そのようにして、今年のわたしにとっては、決定的な2本の『三人姉妹』を偶然立て続けに観たことで、2019年は『三人姉妹』の年となったと言うことができます。 チェーホフの劇は、つねに夢、あり得たかもしれない別の現実、ここではないどこかをめぐって展開します。『かもめ』は挫折した夢を前に死を選ぶ劇でした。『ワーニャ』は取り返しのつかない挫折の後に、慰めつつもどうにかして“その後”を生きていく話です。それと比べるなら、『三人姉妹』はどうか? おそらく、話じたいは『ワーニャ』の延長線上にあって、夢の終わりに焦点が当てられていますが、相違点として挙げられることとして、まずは『三人姉妹』のほうがずっと生命に、現実にちかい劇であるということが言えないでしょうか。『ワーニャ』における結論とは、「時が来たら、おとなしく死んで行」くこと、それまではもう少しだけ辛抱することでした。そこにおいては、死後の目線から、現在のやり切れない生が思い出され、救済されます。しかしチェーホフにおいては、『かもめ』から『ワーニャ』を経て、『三人姉妹』・『桜の園』に至ると、死後から今を生きていくことに重点が移ってゆくように思います。「生きて行」くこと、わたしたちの生や苦し... 続きを読む
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