投稿

モスクワ現代建築・アート事情(リンク集)

『10+1』web版の記事など。 ・世界建築レポート7「The Old and New: Mosaic City, Moscow──モザイクとして彩られた都市モスクワ」(鈴木祐也氏;2008年1月) http://10plus1.jp/monthly/2008/01/31152124.php →2000年代後半、モスクワ建築事情。 ・「Photo Archives 94 モスクワ」(Janko Radojević) http://10plus1.jp/photo-archives/94/ →構成主義の遺産、など。 ・鈴木祐也氏@Tokyo Art Beat 「モスクワのアートシーンについて」(2007年12月) http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/vik-munis.html 「モスクワのアートを支える「地下」という作品・展示形態」(2008年3月) http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/03/moscow2.html 「『かくして社会主義は勝利したのです!』」(2008年4月) http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/04/moscow3.html 「『アーカイヴ写真』の可能性について」(2008年5月) http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/05/archive-photo.html 「『“ 国際 ”という名において 』 広まるモスクワコンテンポラリー・アート」(2008年6月) http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2008/06/moscowcomtemporary.html

文字26

私たちは、人間であることにひどく疲れてしまったのではないだろうか、ということを最近特に思う。知とは、個的な経験を抽象化・普遍化する挙措だと思うのだけれど、これはとても労力がいる。とてもめんどくさいのだ。 民衆からしてみれば、目の前にある聖像を神に見立ててひたむきに祈ってみせることは簡単で、それ以上のことは必要ないように思う。あとこれは別の話だけれど、星を見上げれば普通は天のほうが動いているように見える。しかし知が拡散する、知が人類というレベルで共有されるためには、「三位一体」とか「地動説」とかいうわけのわからない複雑怪奇な論説が必要とされたのだった。知は論争だったから、相手を言い負かすために論理を組み立てておく必要があった。 だから知は、異質なものとの遭遇の準備でもあった。もちろん、その結果として歴史上ではしばしば武力をもって衝突が起きてしまったわけだけれど、少なくとも異質なものと交渉せずにいることは不可能に近いことだったし、そのための準備は武力とともに知がおこなっていた。 知に飽きてしまった。知の要求するレベルに息切れを起こしてしまった。そんなところではないだろうか。知を維持していく気力も、気概もなければ、外に出ていく勇気もない。あくまでこのまま個であって、個のうちで理解されていればいい。その結末は、歴史が示す通り、共同体の死であり、それが全人類規模で起こるのだとすれば、ひとの死に他ならない。 隕石でも、火山の大噴火でもなく、大地震でもなく、まさかこんなに静かに、人間が人間でなくなることで、ひとはなくなってゆく。だって学問を失った人間が、いったい何ものでありえるだろう。 人間であることを要求することがこんなに困難になってしまったときに、いったいどうやって人間であり続けていけばよいのだろう。

Zineを出版しました

イメージ
このたび、コレクティヴ「ゆめみるけんり」の一員としてzineを出版しました。私は、ロシアの思想家ニコライ・フョードロフのエッセイ(附・解説)と、アレクサンドル・ブロークの詩を訳しています。 まずは、Kindle Storeにて電子書籍版を販売しています。100円です。 こちらからご覧ください。立ち読みもできます。☞ http://amzn.asia/5gSfZkJ 紙版も出版準備中です。詳細については、「ゆめみるけんり」ブログ☞ https://droitdeyumemir.blogspot.jp をご覧ください。

あらゆるテクストは読まれないことについて、誤配、その幸福と潜在的可能性

「多文化の海をおよぐ」のディスカッションで、私はバイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をもとに、「我々は本を読めていないという可能性をいつも念頭におくべきだ」というテーゼを発することに、成り行き上なったのですが、これに対し来場されたNさんから質問があったように、テーゼ自体誤解を招きやすい、誤配されやすい言い方でなされていたことについて、内心ほくそ笑みながらも、それでもことを明らかにしておく必要はあると思った。だからこうして書くことにするのですが、それではことばは読まれることはないということをことばによって一体どう言い表すことができるというのか。一つの逃げ道として、いくぶん楽観的に「あらゆるテクストは明日読まれる」という言い方をしたら、より、なんというか、ポジティヴな誤配を招くことになるのではないかと思う。あらゆるテクストは、明日読まれる。あるいは読まれない。われわれは読書をする。「読んでいる」「読み終わった」と、軽い仕草で言い立てる。どう、それが可能だというのか。私にはあらゆるテクストの、あらゆる細部を記憶することはできない。常にテクストは、いまここにしかないものであって、そのいまここをわれわれが逃すや否やそれは記憶にかすりもしないばかりか、引っかかりなどなおさらせぬまま私の視覚を通過するだけで、テクストは常に読まれないことになる。それは読まれたが、読まれることなどなかったかのようだ。あたかも、私は読んでいる。「読んでいる」という時、私にとってそれは比喩の上での出来事に過ぎない。 「世界文学」が俎上にある時、問いは例えば「翻訳文学」をめぐる問いかけと同義になるのかもしれず、2月27日のパネルディスカッションはまさにそれについて、つまり翻訳という主題にわれわれは立ち入ったのだった。それはあらゆる誤読と誤配、間違い、読まれなさの巣であって、つまり私が読んでいるこの「翻訳されたところのもの」は一体何者なのか。A語からB語に翻訳される際に100%の転移など不可能であるという事実はあえていま言うに及ばないが、仮に例えば短い詩か何かがあったとしよう。それはA語で(a,b,c)という三つの単語からなる。奇妙な偶然で、B語には、それら三つの単語に対応する単語はそれぞれあり、しかもそれはA語由来でB語に取り込まれた単語だ。だからA(a,b,c)→B(a1,b1,c...

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半

(2)の後半です。 ハーモニーと美しさ 続いて3) 目的 について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。 前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「 自由な遊び 」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。 次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」とい...

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半

『判断力批判』を読む会、2回目です。 前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。 それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。 ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。 * * * 〜12/23 『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁) まず目次を読む とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。 今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。 第一部「美学的判断力の批判」  第一篇「美学的判断力の分析論」   第一章「美の分析論」 「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。 今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。 お気づきでしょうか、ここに...

文字25(現代語の現代語訳シリーズ)

会いたさ、会いたさこそが、わたしを震わせるのでした あなたを遠く感じるのは、わたしがあなたを想うからでしょうか もう一度わたしとあなたであるわたしでいたいのですが わたしの気持ちはいつも不着のままなのです こころ、きもち、わたしの (小池昌代訳「会いたくて 会いたくて」) * 恋をしてしまったのです あなたはたぶん気づいてはいないのでしょうけれど 星の夜にわたしは願います 櫻桃です ― わたしの指があなたに送る便りは (小池昌代訳「CHE.R.RY」)