あらゆるテクストは読まれないことについて、誤配、その幸福と潜在的可能性
「多文化の海をおよぐ」のディスカッションで、私はバイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』をもとに、「我々は本を読めていないという可能性をいつも念頭におくべきだ」というテーゼを発することに、成り行き上なったのですが、これに対し来場されたNさんから質問があったように、テーゼ自体誤解を招きやすい、誤配されやすい言い方でなされていたことについて、内心ほくそ笑みながらも、それでもことを明らかにしておく必要はあると思った。だからこうして書くことにするのですが、それではことばは読まれることはないということをことばによって一体どう言い表すことができるというのか。一つの逃げ道として、いくぶん楽観的に「あらゆるテクストは明日読まれる」という言い方をしたら、より、なんというか、ポジティヴな誤配を招くことになるのではないかと思う。あらゆるテクストは、明日読まれる。あるいは読まれない。われわれは読書をする。「読んでいる」「読み終わった」と、軽い仕草で言い立てる。どう、それが可能だというのか。私にはあらゆるテクストの、あらゆる細部を記憶することはできない。常にテクストは、いまここにしかないものであって、そのいまここをわれわれが逃すや否やそれは記憶にかすりもしないばかりか、引っかかりなどなおさらせぬまま私の視覚を通過するだけで、テクストは常に読まれないことになる。それは読まれたが、読まれることなどなかったかのようだ。あたかも、私は読んでいる。「読んでいる」という時、私にとってそれは比喩の上での出来事に過ぎない。
「世界文学」が俎上にある時、問いは例えば「翻訳文学」をめぐる問いかけと同義になるのかもしれず、2月27日のパネルディスカッションはまさにそれについて、つまり翻訳という主題にわれわれは立ち入ったのだった。それはあらゆる誤読と誤配、間違い、読まれなさの巣であって、つまり私が読んでいるこの「翻訳されたところのもの」は一体何者なのか。A語からB語に翻訳される際に100%の転移など不可能であるという事実はあえていま言うに及ばないが、仮に例えば短い詩か何かがあったとしよう。それはA語で(a,b,c)という三つの単語からなる。奇妙な偶然で、B語には、それら三つの単語に対応する単語はそれぞれあり、しかもそれはA語由来でB語に取り込まれた単語だ。だからA(a,b,c)→B(a1,b1,c1)という操作は、一見妥当に、外見上は、思われる。しかし語学学習が永遠の辞書引きと同義であるように、ある言語を学習するという経験は、一つ一つの単語に関してその語の「意味圏」とでも言えるようなゾーンを確認し、実践し、策定していく作業に他ならない。自分自身の言語習得の過程から、式A(a,b,c)→B(a1,b1,c1)において両項をつなげる記号が「→」であり「=」でないということは深く頷けることだと思う。A語における単語「a」(例えば英語のmeeting)の意味範疇が、B語における単語「a1」(例えばロシア語のмитинг=míting)のそれとかけ離れている、とは言わぬまでも大小なりともズレてしまっている事態は、ままある。翻訳者は常に誤読される。文章は、言葉を超えて届きはしない。ここにおいて翻訳の良し悪しとか、よく言われる「美女と醜女」問題などほんの技術上の問題に過ぎない。そもそも読まれはしないのだから。
しかしその事情とて、私が単に日本語で日本語を解する人向けに、ひとまずは宛てて書いているあらゆる文章でさえ変わらず、とすればあらゆるテクストは常に誤解され、誤配されているということは可能だ。私の文章としてのテクストは、私の思考としてのテクストを100%再現できるわけでもないし、そもそも思考そのものの茫漠とした掴みどころのなさについて、しばしば言語化すること自体の無謀さが言われる(「語りえぬことについては沈黙しなければならない」)。
だからといって、絶望するにはおよばない。誤読は、常に新しい可能性の招来である。ならば、「不読」=読まないこと、テクストの読まれなさこそは、「可能性」とか「選択」を常に超え出るものであり得る。バイヤールは大学での授業の例を挙げる。そこではしばしば課題図書を読んでいない学生が、より大胆に本質的な問いかけを教師に投げかけることがあるという。そうした言い方はいささかオプティミスティックに過ぎる感はあるにしても、読まれないことの可能性の一つを示す例にはなる。バイヤールが提示する〈内なる書物〉という考え方は、人は誰でも自分の慣習・文化の伝統・歴史の継承などから編纂されたある種の〈書物〉を内に秘めている(仮に〈書物〉の形をしていると想定したとして)という事態を指し示す。人が本を読む(と思い込む)とき、それはテクストと〈内なる書物〉との相互干渉の中で起こる作業なのであり、新しいテクストは〈内なる書物〉との比較の中で読まれる。あるいは、比較の中でしか読まれない。〈内なる書物〉のコンテンツは、ある意味非常に根源的な「生・死」や「愛」、「家族」、「土地」などのテマティカを有していて、それとの比較で読まれる(あるいは読まれない)とき、未知のテクストに関わる問いは必然的に根源的で本質的なものとなる(はずだ)、とバイヤールは言う。テクストをめぐる問いは、私によっていまここで初めて出会われたテクストから発するものではなく、私のうちから、つまりテクストにとって未知のところから投げかけられるものになる。とするならば、いま出会われたテクストは、完全に未知の、〈外の〉経験と対峙することになる。それはテクストから発しはしない経験である以上、すでにそのテクストの「可能性」と「選択」を完全に超え出ている。読まないことは、テクストが拓く可能性やテクストが提示する選択肢の延長線上にあるものではない、2次元を生きる蟻にとって3次元からやってくる人間の足のように、それは予告なしにやってくる。(そして読まれない本について語ることは、つまりあらゆる読書についての会話は、「本」についての会話ではなく、本をめぐる自分自身のことだとか他の人のことになる。それは自然で望ましいことだ。バイヤールは言う:「大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである」そして読まないことは、読むことの受動性に対して能動性を得て、バイヤールによって「創造的行為」とまで称される。)
だから、あらゆるテクストは明日読まれる。少なくとも明日読まれることをテクストは願っている。だがその願いは叶えられることはない。テクストは常に宛先違いで届き(誤配)、遅れて届き(遅配)、そしてついに読まれることはない(不着)。けれども何度でも繰り返すが、それは絶望すべき事態ではない。私たちはいかなる権利を持って、例えば「К***」に宛てられたプーシキンの詩を読むのだろうか。私にとって詩は常に反省的に読まれる。それは読んでいるいまここで効力を持つことばであるというよりは、いつでも遅れて思いがけない時にやってくる。そして私は本当にテクストを読んだことはない。これからもないだろう。だが、これは絶望すべき事態などでは決してない。プーシキンの詩が、宛先通りに「К***」嬢に届いてしまうこと。「読まれること」とは、例えて言うならばそういう事態だ。なんと直線的。なんという単調さだろうか。そこにはそれ以上の事態の進展など何一つ見込むべくもない。作家が発したことばが、遅配され、誤配され、宛先に届かず、思いがけず私に届いてしまう。私はある種の厚顔無恥さでもってそのテクストを読むだろう(あるいは読み過ごし、誤読するだろう)。その宛先も所属も持たない宿無しのことばが、これまた思いがけず私を心底から撃ち抜いてしまうこと。そこに文学がある。
あらゆる作家は、誰かに宛てて書きながら、あるいは誰にも宛てずに書きながら、ある者は意識的に、ある者は無意識に(あるいはそう装って)、常に誤配と誤読を期待している。カフカがブロートに遺稿(となるべきもの)を託す時に、カフカの期待に反して、(あるいは彼の無意識に忠実なことに、)カフカの原稿は燃えなかった。プラハの煙突から出た想像上の煙は、思いがけずも東京の私たちに届いてしまったのだった。その過ちはあらゆるテクストにとって本質的なことであり、幸福な過ちでさえなかっただろうか。
しかしその事情とて、私が単に日本語で日本語を解する人向けに、ひとまずは宛てて書いているあらゆる文章でさえ変わらず、とすればあらゆるテクストは常に誤解され、誤配されているということは可能だ。私の文章としてのテクストは、私の思考としてのテクストを100%再現できるわけでもないし、そもそも思考そのものの茫漠とした掴みどころのなさについて、しばしば言語化すること自体の無謀さが言われる(「語りえぬことについては沈黙しなければならない」)。
だからといって、絶望するにはおよばない。誤読は、常に新しい可能性の招来である。ならば、「不読」=読まないこと、テクストの読まれなさこそは、「可能性」とか「選択」を常に超え出るものであり得る。バイヤールは大学での授業の例を挙げる。そこではしばしば課題図書を読んでいない学生が、より大胆に本質的な問いかけを教師に投げかけることがあるという。そうした言い方はいささかオプティミスティックに過ぎる感はあるにしても、読まれないことの可能性の一つを示す例にはなる。バイヤールが提示する〈内なる書物〉という考え方は、人は誰でも自分の慣習・文化の伝統・歴史の継承などから編纂されたある種の〈書物〉を内に秘めている(仮に〈書物〉の形をしていると想定したとして)という事態を指し示す。人が本を読む(と思い込む)とき、それはテクストと〈内なる書物〉との相互干渉の中で起こる作業なのであり、新しいテクストは〈内なる書物〉との比較の中で読まれる。あるいは、比較の中でしか読まれない。〈内なる書物〉のコンテンツは、ある意味非常に根源的な「生・死」や「愛」、「家族」、「土地」などのテマティカを有していて、それとの比較で読まれる(あるいは読まれない)とき、未知のテクストに関わる問いは必然的に根源的で本質的なものとなる(はずだ)、とバイヤールは言う。テクストをめぐる問いは、私によっていまここで初めて出会われたテクストから発するものではなく、私のうちから、つまりテクストにとって未知のところから投げかけられるものになる。とするならば、いま出会われたテクストは、完全に未知の、〈外の〉経験と対峙することになる。それはテクストから発しはしない経験である以上、すでにそのテクストの「可能性」と「選択」を完全に超え出ている。読まないことは、テクストが拓く可能性やテクストが提示する選択肢の延長線上にあるものではない、2次元を生きる蟻にとって3次元からやってくる人間の足のように、それは予告なしにやってくる。(そして読まれない本について語ることは、つまりあらゆる読書についての会話は、「本」についての会話ではなく、本をめぐる自分自身のことだとか他の人のことになる。それは自然で望ましいことだ。バイヤールは言う:「大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである」そして読まないことは、読むことの受動性に対して能動性を得て、バイヤールによって「創造的行為」とまで称される。)
だから、あらゆるテクストは明日読まれる。少なくとも明日読まれることをテクストは願っている。だがその願いは叶えられることはない。テクストは常に宛先違いで届き(誤配)、遅れて届き(遅配)、そしてついに読まれることはない(不着)。けれども何度でも繰り返すが、それは絶望すべき事態ではない。私たちはいかなる権利を持って、例えば「К***」に宛てられたプーシキンの詩を読むのだろうか。私にとって詩は常に反省的に読まれる。それは読んでいるいまここで効力を持つことばであるというよりは、いつでも遅れて思いがけない時にやってくる。そして私は本当にテクストを読んだことはない。これからもないだろう。だが、これは絶望すべき事態などでは決してない。プーシキンの詩が、宛先通りに「К***」嬢に届いてしまうこと。「読まれること」とは、例えて言うならばそういう事態だ。なんと直線的。なんという単調さだろうか。そこにはそれ以上の事態の進展など何一つ見込むべくもない。作家が発したことばが、遅配され、誤配され、宛先に届かず、思いがけず私に届いてしまう。私はある種の厚顔無恥さでもってそのテクストを読むだろう(あるいは読み過ごし、誤読するだろう)。その宛先も所属も持たない宿無しのことばが、これまた思いがけず私を心底から撃ち抜いてしまうこと。そこに文学がある。
あらゆる作家は、誰かに宛てて書きながら、あるいは誰にも宛てずに書きながら、ある者は意識的に、ある者は無意識に(あるいはそう装って)、常に誤配と誤読を期待している。カフカがブロートに遺稿(となるべきもの)を託す時に、カフカの期待に反して、(あるいは彼の無意識に忠実なことに、)カフカの原稿は燃えなかった。プラハの煙突から出た想像上の煙は、思いがけずも東京の私たちに届いてしまったのだった。その過ちはあらゆるテクストにとって本質的なことであり、幸福な過ちでさえなかっただろうか。
2016年2月27日「多文化の海をおよぐ」、パネルディスカッションの補足として
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