投稿

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(1)

私事ですが、うまくいけば9月に大学を卒業し、来年4月の就業までニートとして研鑽を積むことになっています。 そこで卒業前に何か一冊、自分だけでは読めない本を読もうじゃないか、と最愛の友人N(イタリア語専攻)に話を持ちかけ、何を読むかとなったときに、我々の頭に浮かんできたのが当然(でもないか)イマヌエル・カントとその著作だったというわけです。彼についてほとんど何も知らない我々にも当然彼の著作の名前は刷り込まれていました。ご存知の通りそれが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の3著作です。我々は哲学プロパーではありません。二人とも文学専攻(私はロシア現代詩、Nはイタリア現代文学)です。そうしたことを考慮すると、やはり我々が話題として身近に感じる、ひいては理解しやすいのは何より『判断力批判』であろうという結論に至りました。それは9月2日の夜、紀伊国屋書店新宿本店での出来事でした(ちなみに書店に行く前に飽きるまで焼肉を食い、新宿に行き、そこから渋谷まで歩いて渋谷wwwでのトーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映会に参加しました、そしてそれは最高だったのです・・・というのは全く関係のない話ですが)。 ということで、我々は範囲を決めて、大体一週間間隔で読み合わせを行う(そして焼肉を食う)という、いわゆる読書会を始めることにしました。以上に述べた事情から、課題図書はイマヌエル・カント『判断力批判』(上下巻、篠田英雄訳、岩波文庫、1964;2013)ということに決めました。 ただし、ただの読書会というのはつまらない、二人揃って唯一絶対たるカノンとしての1を生み出す作業など(時にはそれも有用でしょうが)、やはりありきたりであり、つまらない。何より悪い生徒である我々自身が飽きてしまう。ということで、Nには無断でこのブログ上で進捗状況をアップしていくことにしようかと思います。この場では工藤が記事を書くにもかかわらず、人称に「我々」を使おうかと思っています。哲学科の生徒にはできない不真面目さと独断で『判断力批判』を読む、そして頭の中を報告に付すことで、議論を不特定多数の海とも山ともつかぬ場所へ放り出してみる、それが我々の目指すところです。 第一回目の今回は上巻の67頁まで、序言と序論を読みます。 * * * 9/3-6(読み合わせ会は...

青山真治演出『ワーニャおじさん』

2014年12月21日に、笹塚ファクトリーで上演された青山真治演出による『ワーニャおじさん』についての感想文です。 感想をまとめる時宜を失したままでしたので(工藤の怠惰のせいです)、上演後友人に送ったメッセージを編集しながら転載します。いまさらですが。 2014年12月22日 00:24 青山真治の『ワーニャ』、最高!ではないけど、みて良かった感じ。どうしてもマールイ劇場(ペテルブルグ)のと比べてしまうから酷な話ではあるけど * 00:24 いま『ワーニャ』をやるとしたらソーニャが強くなきゃいけない、という認識は青山も持っていて、でもその強さの表れ方がすごく日本っぽくて * 00:24 ロシア人ver.だとソーニャに弱いんだけど強がってる感じが出てて、それはそれで泣けるんだけど、青山の演出だとソーニャがまるでロボットみたいな喋り方をするんです。日常にすっごい耐えて耐えているうちに感情を殺すことを覚えてしまった感じの。 * 00:24 それで最後にその殺していた感情のストッパーが外れてワーニャの頭を足で蹴るシーンがあった、そこに彼女の全部の感情を持っていってて、すごくよかった。 * 00:25 ワーニャの役者もすごくうまかったよ。ソーニャと同じく日常で抱え込んでしまった不甲斐ない思いをすべて語尾に「〜(笑)」をつけてなんとか慣れようとする感じの喋り方で、これが、うまかった。 * 00:25 日本でいま上演するに際してよく練られた感情の出し方だったと思う。日常に耐えて耐えてついにはその歪みに耐えられなくなって精神病的なやり方ですべてを吐き出してしまう。 * 00:25 それで、SFっていうのは心配してたより前面に出てはなかったんだけど、でも「教授先生と新妻」は、異世界の惑星に降り立った地球人のようなものなのかな、とは思った。確かに衣装的にも、全員がツナギを着ている中でその二人だけは(ツナギを着てるけども)コートを羽織ったりレースをつけたりしている * 00:27 「他者」の視点の提供者です * 00:30 あとジンワリきたのが、最後の「そして、ゆっくり休むの。」みたいな台詞が、「息をつくの。」という訳になってて、生硬だなあとおもったけど、何度も聞いてるとそんなことはなくて * 00:31 「息をつく」= 1,休憩する 2,息を...

いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想

東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: http://raftweb.info/chekhov )。 一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。 7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』 傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフ...

清竜人についてのメモランダム

友人に誘われて1/30、渋谷のO-EASTにて、グループイノウ、 the band apart、清竜人25が出演するイベントをみました。 グループイノウは最近はまっていて、もちろんすごく良かったのですが、それ以上に強い印象を残したのが清竜人25で、もうそれはポスト=アイドルのアイドルグループであるという一点に尽きるのですが。 清竜人といえば、あの凡庸な歌詞と非凡な自己プロデュースのミクスチュアである「痛いよ」みたいな楽曲(PV)でそもそもから名はあったわけで、プロデュースのされかた/しかたは、どこか中村一義とか初期七尾旅人風の、「触れると切れるような」系・サブカル/左に親和性のある天才・非凡さをフィーチャーする感じだったと思うのですが、歌詞をよく読んでみると、どちらかというと実は西野カナ系であり、十分にメインカルチャーである素地をもった人ではなかったでしょうか。 アルバムを出すたびに化けていって化けていって、ついに「アイドルグループ」に辿り着くわけですが、これは彼自身の「非凡な凡庸さ」とでもいうべきそういった素養を、うまく自己言及的で・いかにも際どいアイドルグループ、というかたちでうまく昇華し得た結果だと思います。というか彼の素質がそこまで導いた・そこに辿り至らざるを得なかった、という言い方が正確かもしれません。 清竜人本人をセンターとして、彼を「夫」、その他6人のメンバーを「妻(第○夫人)」とする発想は最高にイカれています。それをフェミニズムの視点から批判することは、例えばライバッハをシオニズム団体が批判するくらいセンスがないことです。だって最高にバカらしいじゃないですか。 観客はねじれた位置に置かれます。なぜならすでに最初から「恋愛可能性」が去勢されているからです。 アイドルグループ中興の祖AKBグループが、私的恋愛を禁ずるところにプロデュースの要を置くことで、オーディエンスとの「恋愛可能性」を措定し、「誰のものでもない女の子」を演じていたのと、それは正確に対応しています。 清竜人25という場で「逢いたい気持ちがあふれてるの」と歌われる時、逢いたさの対象とは、オーディエンスではあり得ず、ただ清竜人ひとりなのです。 そうしたねじれた関係性の劇場としてのアイドル、関係性の極北としてのアイドルである清竜人25なわけですが、アイドルについてこ...

「BLとしての世界」論

例えばあらゆることが陳腐でかつすべてが当たり前でありすぎるこの社会とその織りなす物語のうちに陥穽を見出すこと。別の語り方の流れによってこの至極当然な「生活」の有様に穴を穿つこと。そういうオルタナティヴな語り方をポストモダンは生み出そうと努力してきた。あらゆる既成のものを否定し、あるいは否定せずに冷笑してみせること。そういった身振りによってポストモダンは「生活」を打破しようとしてきたのではなかったか。その方法論は、しかし2015年に入ろうとするいま、息切れを起こしてしまっている。「生活」の強力で粘着質な罠を取り払うことに集中しすぎたあなたたちポストモダンは、すでに静かに生命を終えようとしている。 ところでわれわれにはBLがある。BLのあまりに軽やかな動きにわれわれという小さな男の子は青ざめるほど驚愕してしまう。BLというあまりに生き生きとしてしなやかな非-物語の作り方に対してポストモダンはもう言葉を失っている。BLという局面において、ポストモダンが言いたかったことはすでにすべてがしかも軽やかな手振りで、言われているからだ。 ここでは「BLからの女子マンガ」家と仮にわたしが名付けた2人の作家について論じたい。すなわちよしながふみと水城せとなである。 水城とよしなががともに1971年生まれであることを考慮すれば、こうした漫画家に代表される世代を「70年世代」と言い立ててもいいだろう。10代のころに80年代を経験して育った世代と総称してもいいはずだ。すなわちダイレクトにニューアカデミズムの波をかぶって育ったマンガ家たちであろうから、ある程度のクレバーさを想定することができる。「24年組」がモダンマンガ文化におけるクレバーな語りのパイオニアであるとするなら、そのポストモダン・アップデートヴァージョンこそがこの「70年世代」の諸マンガ家である。 ここに挙げた作家、あるいは1970年以降に生まれ現在女子マンガの枠を超えて作品を発表している多くの作家(志村貴子、羽海野チカ・・・)が、BL同人誌をオリジンとしていることを忘れてはならない。物語論的に言ってBLとは、少年マンガ的な単一の大きな物語に対する救済の手つきである。少年マンガ的と私が述べるのは、①主人公が存在し ②窮極的な「何か」が求められ ③主人公の仕草が常に「世界」に関わっていく ようなマンガ群のことである。それ...

文字24(生活についてのマニフェスト)

あなたの 生活 は、あまりに凡庸になりすぎてしまった。イヤホンで塞がれたあなたの耳には、わかりきったものしか入ってこないし、テレビが視界を奪い流れていくのは見慣れきった風景だ、目の前の知らない女から漂ってくる甘さ半分/海の匂い半分のこの香りさえどこかで嗅いだことがある気がする、橙色の電車に乗り込み、並走しながらわたしは半分眠りながらこんなことを考える。目の前の男が固く握りしめる鬼ころしを見つめることにも慣れて、わたしはもう危機感を持つことさえ忘れてしまった。 これに危機感を覚える事態があり得るとしたらそれはあなたの部屋で起こる。隣の誰かしらがあなたの耳元で「愛してる?」かと尋ねることがあるかもしれない。「愛している」、そのはずだ、あなたはその都度 たえず自分に言い聞かせなくてはならない。その実、この感覚、胸の左のほうの奥にある「この」感覚と、そのことばはどこかどうしようもなくずれてしまっている、そういう感触を、その不気味さをあなたは鋭敏に感じ取っているはずなのだ。この温度差を埋めるために必死になること。痛ましいことだが、それを繰り返すことしかできない。「愛してる」「愛してる」「愛してる」。わたしたちは懸命に同じ言葉を繰り返す。ただ、その度にわたしの気持ちの「ここの」ものは薄れ消えていってしまうこと。 「まただ」。退屈な容姿をあざとさと容量の良さとでカバーすること。高校3年間を使ってアンニュイであることだけを覚え、少女を終えた女がつぶやくことになる。またわたしは何も与えられぬまま残される。セックスはインターネットが言い募るほど美しいものでも心地いいものでもなかった。頭のなかに止めていたほうが、あるいは気持ちよかったのかもしれない。裸であくびをしながらあなたはうっかり後悔をしてしまう。そしてこの後悔を打ち消すために手を伸ばし、生身の皮膚に触れる。しかしそのじっとりとした感触は、思いのほかあなたをぞっとさせる。「確かに愛している」。自分自身をそのことばで暗示にかけながら、自分の「この」感触をキャンセルする。 あいつが残していった消しゴム(及び消しかす)。布団に擦りつけられた匂い。3つだけのこった2箱目の避妊具。こんなところにある毛髪。借りられていった『百閒短編集』の気配。息の感じ。 それは「 生活 」だ。「 生活 」の子どもである。そういったものすべてがわたしを...

文字22

コント『死』 A「 」(死ぬ) B「 」(死ぬ) –幕–