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10/18「ノイズとビッチ」フェスティバル(ロシアのシューゲイズ)

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10/18夜(19時)〜19朝(5時)にかけて、ペテルブルグ市内のライヴハウス「клуб da: da:」(地下鉄センナヤ・プローシャチから徒歩一分)で開かれたシューゲイザーオールナイト「ノイズとビッチ(шум и шлюхи)フェスティバル No.11」なるイベントに行ってきました。そのまとめです。(写真多数) ロシア(ペテルブルグ)におけるシューゲイズに興味があればご覧ください。

文字17

愛と希望と未来が、おれの身体で死ぬ

文字16「シティ・ポップ」(マシュマロウズ)

シティ・ポップ げろなのかなんなのか分からないような、そんなものが道に敷き詰められて黒く擦れ焦げたアスファルトの上に、在るのです。それがある瞬間にうごめきだす時きみはそれをなによりもニンゲンだ、と思ってしまう、歩くひと、なんの損得も生み出さぬ会話にふけるひと、それらを差しおいてアスファルトから立ち現れるひとのカタチこそ人間だ、ときみはしみじみ思ってしまう、そういうある日のcity pop 朝5時、マンハッタン、イエローキャブ、変な臭いのする路地裏のビルからは夢を使い果たしてあの一滴と狂騒に換えた2人たち、救いようのない2人たちの複数・多数がゴキブリやネズミの類いと一緒に路に吐き出されてきます。金はゴミ箱の中のゴムの中身になるし昨晩(ゆうべ)の熱情はついに何ものも成すことがないでしょう、とあの娘は言う、知ってて笑ってるんだね、剥き出しの歯・歯・歯、矯正具の銀色の光は君をかみつぶし飲み込むでしょう、グロスを塗りたくった官能的な唇で味わうフラペチーノとグローバルビジネスの味はどう?痛いけどこれが君なりのcity pop ぬるぬるの石鹸の身体で飛び起きる、ベッドは濡れ君は荒い呼吸をする。朝日の白さは君を眩しくするだけだ、白い光は痛い、痛い、君は叫んでベッドに倒れ込む。痛さと苦しみ、何もない日常の中で唯一それだけが現実のcity pop 頭痛をこらえて苦しく呼吸する君の耳、黒い髪が巻き付いた君のおいしそうな耳が何かを捉える。何かが呻いているようです。何かが弾んでいるようです。君はおそるおそる枕から顔を外そうと呻く。白い光が君の視界を奪う。 気がつくと君は荒れた茶色い地面に足をつけ立っている。知っている場所、ロッキー・マウンテン。君の鼻腔を懐かしい匂いが打つ。ジェロニモ。そう呼ばれた気がした。ジェロニモ。太鼓の音が近づいてくる。心臓がドキドキする。眼がシバシバする。どんどんこちらにやって来る。それは正しかった。それは君だった。君は呼んでみる。叫んでみる。ジェロニモ。ジェロニモ。ジェロニモ。ジェロニモ! 14.08.2013 マシュマロウズ@定演ライブ 

文字15「ねむられ」(マシュマロウズ)

ねむられ 一度「ねむる」と決心した者が、実際に眠りに辿り至るまでに50の歳月を過ごした。男は50の年月を、ここ、の現実からそちら、へと移行する段階に、確実にいたのだが、その実そのどちらにもたどり着くことのないあいだの場所にいたのだった。しかし50年を経た今日、男は何かを得る一方、その代価として何かを失い、その失われの過程の中で眠りを経験していたに違いない。ここ、乾燥した地面のどこかしらから水分を得て生き延びる植物らの赤茶けた土地で、男は初めの眠りを経験していた。 男は夢を見ていたのだった。男はいまや男であることをやめているらしかった。夢の空気は至るところ甘く、男であった者はすでにそれを存分に吸い込み、そうすることで夢を深くまた濃く見ることにしたようだった。 男であった者は、白い服を身につけ、白い夢を泳いでいる。自分は少女であるらしかった。そのきれいに磨き上げられた小さい爪の手を口元にやると、金属製の矯正具の冷たい硬さに触れた。 甘い空気はどこから漂っているのか。男であった少女が、いまはじめてゆっくりと目を開けることを決めたのちに、長い睫毛は律動をはじめたのだった。 そこはトイレだ。甘い匂いは手に持ったマシュマロの袋から漂っているらしいが、微かに混じる化学薬品の匂いはどこから来ているのか、彼女は不思議に思うふりを、ひとしきり演じてみる。マシュマロから漂っている気もする。しかし目の前にある洗浄用の緑の液体から彼女の鼻に到達していた可能性もいまいち捨てきれないのだった。あるいは、わたしの鼻がなにか化学的な製法によるのかもしれない。そう思うと彼女は下で口を開けて待ち受ける便器に向かって体のどこか奥の方から静かな笑い声をくつくつと吐き出すのだった。 どこか遠いとこらから他の少女らの軽やかで残酷な、あの特有の笑い声が静かに反響して聞こえてくる。反復運動をする靴と床の摩擦の音。運動する彼女たちのユニフォームの中で伝う汗の匂いが、トイレのなかに微かに残っていた。 少女はそういったもろもろの漂うものをひとしきり小さい鼻腔で吸ってみたのち、ひとりそこでマシュマロを頬張ることにした。緑か、白か、うすいピンクか、黄色か、青らしいものか。選択肢は多くあった。腰と肩のちょうど中間あたりまで伸びた黒い髪を細い指でくるくるしながら、彼女は大きめな目を潤ませ口を歪めることにした。選...

文字14

穴と棒、口と口、皮膚と皮膚が合わさりながら 毟りあう、のは、 なぜか他と他の合一を最終目的としている、というふうに思われる「愛」が究極的には成就しようのないものならば、その切なさを(あくまで比喩的、な)「食らうこと」に託すしかなかったわれわれだからだ

文字13(上映会のために)

以下に載せるのは、21.11.2012-25.11.2012の期間中、東京外国語大学「外語祭」のなかで工藤が企画した上映会のレジュメからの抜粋です 企画について詳細はこちらを参照してください→  http://tweetvite.com/event/tufsrus2012 (1) ヴェルトフ「と」"カメラ" – "映画眼 киноглаз "概説  革命前後のロシアで「ロシア・アヴァンギャルド」という潮流がロシア芸術界を席巻する。その波は文学・絵画・演劇・写真・建築・音楽など文化のあらゆる側面に浸透し、文字通り芸術のあり方を全く変えてしまった。その波は、登場したてのメディアであった映画の分野にも浸透した。むしろ、新しい、無垢なメディアであるからこそ、芸術の新時代を夢見た同時代の芸術家たちを刺激した。そして現在、映画が、リュミエール兄弟やメリエスを脱し、”芸術” ( *ヴェルトフ自身は「芸術」という呼称を嫌っていたが ) の一形態となるきっかけが、先行するグリフィスや同時代のドイツ表現主義に並び、この時代に潜んでいる。 ヴェルトフは、エイゼンシュテインとともに、モンタージュ理論形成のパイオニアである。両者の考え方をあえて単純化するならば、エイゼンシュテインが、事実の、フィクションの次元での「再構成」を図ったとすれば、ヴェルトフの目指したものは、「事実そのもの」を、”映画眼”を通して組織化 ( 秩序化 ) し把握することである ( *ここで一定の留保をつけるなら、「事実そのもの」など今も昔も存在しないということであって、恐らくヴェルトフの限界はここにある ) 。 ヴェルトフにとって”カメラ”とは人間には認識不可能な「いまそこにある現実そのもの」を知覚可能にするものである。彼によれば、人間の眼が一元的 ( 知覚即認識ないしは知覚→認識の線がかなり短い ) である一方、カメラの認識段階は多元的である。そして、認識の段階一つ一つにモンタージュが伴う。観察時 / 観察後のモンタージュ、撮影時 / 撮影後のモンタージュ、目測、最終的モンタージュ。ヴェルトフらキノキの考えによればこの 6 段階のモンタージュがカメラに伴っている。そしてそれぞれのモンタージュは、「可視世界の組織化」の役割...

文字12

無数の悪意がわたしを押しつぶすようであればいい