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コント『死』 A「 」(死ぬ) B「 」(死ぬ) –幕–

水城せとなスタディーズ

女子マンガは、いつも男子の知らないことを知っている。 山岸凉子は人間のこころの恐ろしさを1ミリ単位で把握してるし、『NANA』の作者は人間が愛情の果てに性欲機械と成り果ててしまうという冷徹な事実を、地方の女子高生のユートピアに託して軽やかに描き出す。 少女マンガの身振りはいつだって軽やかだ。学級での「ホモ」的言説の踏み絵に心を引き裂かれた優しいブンガク男子は、少女マンガでBLという用語と出会うのだしレズビアン的な恋愛も当然のごとく一ジャンルとして肯定されている様に心を躍らせる。 山岸凉子なり萩尾望都なりは、言うなれば物語の革命者である。もちろんそれはわたしという一人の(紛れもない)ブンガク青年の言う「革命」に過ぎず、「女子」たちにとってそんなことなどすでに革命的な事態ではなくどーしようもない日常そのものなのかもしれない。少なくともわたし(たち男子)が思春期によく夢に見る「女子」とはそういったことを「知る」者のことだ。 少女マンガに、新しい怪物が現れた。 水城せとなのマンガ群がまさにそれだ。読者に新しい女子マンガの可能性を開示する彼女は、枠の革命者であると仮に言いたてることにしよう。「意識の流れ」??とか「ポストモダン」???とかそういう本はもう打棄っていいから、ブックオフでも紀伊國屋でもいい、フラワーコミックスもしくはクイーンズ・コミックの棚に走って、あかさたなはままままみみ水城(ミズシロ)せとなのコーナーで『脳内ポイズンベリー』既刊1〜4巻並びに『失恋ショコラティエ』を発見、握りしめて、恥ずかしさにそわそわしながらを購入すべきなのだ。 『脳内ポイズンベリー』は『失恋ショコラティエ』の上位互換というかより純化されたものと捉えて間違いないと思う。 * 『失恋ショコラティエ』というこの一見フツーに過ぎる「恋愛マンガ」は、いまのところ水城にとっての代表作と言えるものだし、かなりポピュラーであり、実際に映画も製作されている。「作者からのメッセージ」はそれを裏付けるようにこう語る。「少女漫画としては変わり種扱いにされがちですが、現実にはどれもふつうの話です。」(4巻) どこがだ!と一読すると思われるかもしれない。実際主人公のショコラティエ爽太は、その名前とは裏腹にまったく爽やかな人間ではない。高校時代からのあこがれをこじらせ病的に人妻を愛...

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ロシアには「舌サラダ」といって牛やら豚やらのタンが入ったサラダがありますが、咀嚼にいそしむわたしの口のなかで、ときおり野菜に紛れて妙に生々しいのがあって、そういうのを食べると、フレンチな接吻を行為したことがなくてもそれを疑似体験できるはずですから、それ食って、人肉使用・営業停止を伝える明日の新聞を想起して、舌を転がしながら、へらへら笑ってろ

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30度近くを記録した5月25日のロシアでアイス祭りというイベントがあって、隅っこのほうでアイスクリームを食うなどしていたら、なにかこう憂いのある目をした女の子が近づいてきて、わたしの目を見て2回ほど頷き、なにを諒解したものか、わたしに白い大きな風船を託してどこかへ消えていってしまったものですから、思わず手を差し伸べてしまったわたしとしては、アイスクリームと白い大きな風船とを抱え込んだまま、途方に暮れるほかなかったのです。

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「オプティミストかペシミストか」という問題は、ぼくにとっては断然「自分が首を吊るためのロープを天井に結びつけるとき、鼻唄を歌えるかどうか」という問題と同義なのです

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いえにかえるみちで 鳩をみつけたので いっぴきえらんで むちゅうでほおばっていると おまへが怒ったかおで ちかづいてくるのだ わたくしがなにかしただろうか きまりのわるいかおを ぢめんにむけて ちしぶきのながれるままにしていると おまへはいうのだ * おまへは呵々とわらいながらいうのだ ひとなみの欲望がおまへにあるかと ある、なくてたまるか わたくしはさけぶが おまへはすでになく ほかのだれもきいていない * そのための鳩食いだ うまくもない鳩を 腐った魚の臭いがするあの鳩を そのために食っていたのだ *

ロシアのストリートアート

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2013年9月より2014年6月まで、ロシア・サンクトペテルブルグにて生活しています。そうした生活の下でしか見えてこないであろう、ロシアのストリートアートにテーマを絞ってご紹介します。 以下写真が多数ですので、開く際には注意してください。