文字13(上映会のために)
以下に載せるのは、21.11.2012-25.11.2012の期間中、東京外国語大学「外語祭」のなかで工藤が企画した上映会のレジュメからの抜粋です 企画について詳細はこちらを参照してください→ http://tweetvite.com/event/tufsrus2012 (1) ヴェルトフ「と」"カメラ" – "映画眼 киноглаз "概説 革命前後のロシアで「ロシア・アヴァンギャルド」という潮流がロシア芸術界を席巻する。その波は文学・絵画・演劇・写真・建築・音楽など文化のあらゆる側面に浸透し、文字通り芸術のあり方を全く変えてしまった。その波は、登場したてのメディアであった映画の分野にも浸透した。むしろ、新しい、無垢なメディアであるからこそ、芸術の新時代を夢見た同時代の芸術家たちを刺激した。そして現在、映画が、リュミエール兄弟やメリエスを脱し、”芸術” ( *ヴェルトフ自身は「芸術」という呼称を嫌っていたが ) の一形態となるきっかけが、先行するグリフィスや同時代のドイツ表現主義に並び、この時代に潜んでいる。 ヴェルトフは、エイゼンシュテインとともに、モンタージュ理論形成のパイオニアである。両者の考え方をあえて単純化するならば、エイゼンシュテインが、事実の、フィクションの次元での「再構成」を図ったとすれば、ヴェルトフの目指したものは、「事実そのもの」を、”映画眼”を通して組織化 ( 秩序化 ) し把握することである ( *ここで一定の留保をつけるなら、「事実そのもの」など今も昔も存在しないということであって、恐らくヴェルトフの限界はここにある ) 。 ヴェルトフにとって”カメラ”とは人間には認識不可能な「いまそこにある現実そのもの」を知覚可能にするものである。彼によれば、人間の眼が一元的 ( 知覚即認識ないしは知覚→認識の線がかなり短い ) である一方、カメラの認識段階は多元的である。そして、認識の段階一つ一つにモンタージュが伴う。観察時 / 観察後のモンタージュ、撮影時 / 撮影後のモンタージュ、目測、最終的モンタージュ。ヴェルトフらキノキの考えによればこの 6 段階のモンタージュがカメラに伴っている。そしてそれぞれのモンタージュは、「可視世界の組織化」の役割