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【移転します】ブログの移転について

工藤順のウェブサイトを以下に開設しました。今後はこちらをメインに使っていきますので、フォローをお願いします。 https://junkdough.wordpress.com このbloggerも、大学時代に考えていたことの記録として、当分のあいだ残しておく予定ですが、更新はしません。 ### 2011年から使っていたツイッターをやめることに決めたことがきっかけとなり、いいタイミングかなと思い、ブログも一区切りしてみることにしました。 ツイッターに関しては、人とくらべたらかなり距離を置き、依存しない程度に使っていたつもりですが、特に最近、ツイッターというメディアの悪いところばかりが目につくようになり、実際の使用時間とは関係なく、結局「ツイッターについて考えている時間」が多くなっていました。これが非常に不毛であり、精神的にも悪い状況であると考え、ツイッターを離脱することを決めました。そもそも何かwebサービスをやめることに関しては、まったくなんの躊躇も要らないはずなのに、ネットワーキングができてしまっていることで、どうにもやめづらい状況をつくっているというのがまた、SNSの特徴でもあるのですね。 ツイッターをやめるにあたっては、印象的な2つの出来事がありました。 まず、戸田真琴さんの以下のnoteの記事です。特に補足はしませんので、一読していただきたいと思います。 https://note.mu/toda_makoto/n/n7f9eaf91302e もう一つは、マルセル・プルーストという小説家の『失われた時を求めて』を読みはじめたことです。学生のころに、「読まねばならない」という強迫観念に追われるように冒頭を一読し、そしてすぐ放棄したのち、きっと一生読まないのだろうなと思ってさえいたのですが、先日本当に偶然のことでしたが、高遠弘美さんの光文社古典新訳文庫での翻訳の第1巻を読みはじめたところ、ページを繰る手が止められなくなってしまいました。こういうタイミングが、人生にはやってくるものなのですね。この本を読むにあたり、プロットは本当にどうでも良い。むしろ、文章そのものの色香…匂い出てくるとしか表現のしようがない、あまりにも豊かな表現の数かずを追っていくことの愉悦に、わたしは「文学」とその力を再発見でき、

クラースヌイ・ファーケル劇場「三人姉妹」

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久しぶりに、これは自分のために感想を書き残しておかねば……という鑑賞経験をしたので、クラースヌイ・ファーケル(レッドトーチ)劇場の来日公演『三人姉妹』(10/18-20@東京芸術劇場)について、感想を書き記したいと思います。あくまで、傍観者として、一観客としての鑑賞記録です。 画像は、東京芸術劇場HPより チェーホフについていえば、わたしが成長=加齢するのに歩を合わせるように、その年どしでわたしは好きな戯曲に出会われてきました。大学1〜2年生のころは『かもめ』でしたし、大学後半では『ワーニャおじさん』でした。そもそもわたしは実際にすぐれた劇を見ることでしかチェーホフを自らの体験とし得ないできたわけで、『かもめ』についても『ワーニャ』についても、その時どきにある演出と出会うことによってチェーホフは「わたしの劇作家」になってきました(最初にみた『かもめ』はよく覚えていないが、重力/Noteの『かもめ』公演はわたしにとって特別な経験になっているし、『ワーニャ』は青山真治の演出やペテルブルグのMDTで見たことを覚えています)。そのようにして、今年のわたしにとっては、決定的な2本の『三人姉妹』を偶然立て続けに観たことで、2019年は『三人姉妹』の年となったと言うことができます。 チェーホフの劇は、つねに夢、あり得たかもしれない別の現実、ここではないどこかをめぐって展開します。『かもめ』は挫折した夢を前に死を選ぶ劇でした。『ワーニャ』は取り返しのつかない挫折の後に、慰めつつもどうにかして“その後”を生きていく話です。それと比べるなら、『三人姉妹』はどうか? おそらく、話じたいは『ワーニャ』の延長線上にあって、夢の終わりに焦点が当てられていますが、相違点として挙げられることとして、まずは『三人姉妹』のほうがずっと生命に、現実にちかい劇であるということが言えないでしょうか。『ワーニャ』における結論とは、「時が来たら、おとなしく死んで行」くこと、それまではもう少しだけ辛抱することでした。そこにおいては、死後の目線から、現在のやり切れない生が思い出され、救済されます。しかしチェーホフにおいては、『かもめ』から『ワーニャ』を経て、『三人姉妹』・『桜の園』に至ると、死後から今を生きていくことに重点が移ってゆくように思います。「生きて行」くこと、わたしたちの生や苦し