私たちの7月15日のこと

私たちが崇敬するアントン・パーヴロヴィチの命日だからという理由で、7月15日という日を選んで、わたしは姓を変えることにしたのだけれど、この7月15日というのが世界史的にも大変特異な日らしいということを知ったのはまた後日の話だった。Wikiを参照してもらえればわかると思うけれど、例えばこの日にはベンヤミンとデリダとイアン・カーティスと久住小春が生まれている。そして、1904年にはドイツのバーデンヴァイラーでアントン・チェーホフが亡くなった(ちなみにチェーホフの遺体はその後牡蠣輸送用列車に載せられてロシアに戻った)。



大学の頃から、セクシュアル・マイノリティの問題やジェンダーの問題について多少でも興味をもって勉強してきたことも少しながら影響して、今回わたしは、自分のほうの姓を変えることにした。私たちがこれを決めるまで、かなり長い間決めかねる時期があり、というのは2人が2人とも姓に対して特段のこだわりを持っておらず、実家に対しても愛着を持っていて、要するにどっちでも良かったのだ。姓は、私たちにとっては本質的な問題ではないし、今さらどちらの家ということもないだろう(墓について言えば、死ぬときは墓よりも灰になりたいと現時点では思っている)。ただ、日本の現行法のもとでは婚姻に際して夫の姓か妻の姓かどちらかを選ぶ、いわばどちらかが姓を捨てることを強いられているので、どちらにするかを決めねばならなかった。あえて言わせてもらえば、「それだけ」のことだった。

しかし姓を変えることには、婚姻手続き上の簡易さ(婚姻届ではどちらかにチェックを入れるだけなのだ)とは裏腹に非常な面倒がつきもので、例えば銀行口座の名義変更をしなければならなかったり、パスポートも更新が必要だし、免許証やその他の公的証明書も変更が必要になる。慣例的には、そうした困難事を一手に引き受けなければならないのは妻の方になっている。そしてもう一つ言っておかなければならないのは、妻の側が姓を変えることがあまりにも「ふつう」の慣例として受け入れられているから、あえて当事者が言明し、必要な場合には関係者を説得しなければ夫の側が姓を変えることがままならない現状がある。

わたしが大学で学んで内面化して(少なくとも内面化しようと努めて)いるアティテュードとして、「弱者の側に立つ」ということがある。わたしは常に弱い人、困難を強いられている人の味方でありたいと考えていて、常にそれが可能ではないとしてもその視点だけはずっと忘れずにいたいと思っている。今回、そのアティテュードの(何よりも自分自身に対する)表明という意味で、改姓にあたって国や社会に強いられる困難事を、わたしが引き受けようと思った。そうすることによって、わたしの生き方として、常に困難である方を選ぶこと、潜在的に抑圧されている側に立つこと、「ふつう」とか「常識」という名前で覆い隠して私たちが見ないようにしていることを見ようと努めること、弱さを引き受けることなど……を名前の変更という事態によって、象徴的に引き受けようと思った。

もう一つ、姓を変えるに当たってポジティヴなモチヴェーションとなったことは、「姓を変える」ということを考えると、あたかも服を着替えるかのように、新しい姓に身を包みかえて第二の人生に踏み出すとでも言ったらいいか、ある種わくわくした気持ちが起こってきたことだ。だからわたしは、名前を変えて「くどう」が「ふじた」になる日を、かなり楽しみに待つことになった。



わたしの父は、わたしが小さかったころにはいわゆる「強い父」だった。しかし今になってわたしは、それが実は演技だったのではないか、演技をせざるを得なかったのではないかということを考えている。

姓を変えることを、わたしはその1ヶ月前にはじめて父親に電話で伝えたのだけれど、もちろんいきなりの話だったので困惑していたようだった。そして父の考えについて手紙を書いて送るので、待ってほしいと伝えられた。わたしはしばらく何を言われるか結構びくびくしながら待っていたのだけれど、2、3日して父から4枚ほどで綴られた手紙が届いた。その手紙がよかった。父はそもそもわたしが子どものころから(今だに)何を考えているのかなかなか表立って言わない人で、それが誤解を生んだり、必要以上にわたしが彼を恐れることがあったけれど、今回の手紙は、父の内側にずっとあったのだろう考え方を多少なりとも打ち明けてくれるようなものだったからだ。

「(僧侶という)家制度に固執する職業に就いている」者として、と彼は書いていた。父自身、その父親(わたしの祖父)が死んだ時に、その時点で抱いていた夢や将来像を諦め、寺院僧侶として生涯を終えることを引き受けた人である。手紙にはとても複雑な感情があった。諦めることの悔しさや旧来のイエ制度から感じる限界、そして父自身が引き受けた寺や村の終焉。つづめて言ってしまえば、そこには旧習や廃れゆくものを自分の老いて死にゆく一身で引き受けながら、新しいものの到来を無心に寿ぐひとの姿があった。それを「愛」と言ってしまえばあまりに陳腐だ。挫折や諦めを乗り越えるために、強くあろうとした人。それが時には空回りして人や自分を傷つけてしまった不器用な人。そういう人が手紙にいた。

そしてこの手紙が、つまり父がすぐれていたのは、この婚姻という感情事を、ほとんど個人的な感情うんぬんで判断しようとしていなかったからだ。そこにはむしろ愛情に裏づけられた冷静な現状分析と信頼とがある、とわたしは思った。「私はあなたを支持します」と手紙は締められていた。



14日から16日まで、海の日を含んだ三連休であって、私たちはその時期を京都で過ごすことにしていた。14日にはわたしと恋人のそれぞれの両親を新潟と広島から招いて、高瀬川沿いの料理屋で初めて顔あわせの機会を設けたのだけれど、その日はそれでもう疲れてしまって、宿でさっさと休むことにした。ちなみに言えばこの時期の京都は7月にしては異例の暑さで、翌日の昼に温度計を見たら、確かに40度の目盛りを示していたことを覚えている。忘れないうちに、15日のことについて、少し思い出しながら書いておこうと思う。

私たちが起きたのはもう昼も11時にもなるかという頃で、宿を出たのは12時過ぎだった。宿は五条駅に近い、町家をリノヴェーションしたところだった。日本には戸籍というシステムが未だに滅びずに存在していて、しかし本籍の所在は自由に選択できるということだったから、私たちは〈京都でありロシアである某所〉にそれを置くことにした(わかる人には当然わかってしまう)。その〈某所〉のある区の区役所には、だいたい12時30分くらいに到着して、私たちは婚姻届を出した。休日夜間窓口には、赤いウィンストンを胸ポケットに入れたロマンスグレーのおじさんがいて、私たちが考えていたよりもはるかに親切かつ丁寧に届を確認してくれた。ここで少々時間をとってしまったのは、京都固有の複雑な住所地名のせいである。私たちが調べて記入した本籍の住所は、役所的には正しくなかったらしくて、おじさんは区役所職員必携(なのであろう)小冊子をめくって正しいところを調べてくれた。私たちがおじさんの調べてくれたとおりに届を修正すると、最終的にはおそらく無事に受理された。

その後、私たちはとりたてて「入籍日らしいこと」をしなかった。「らしいこと」とは何か、私たちは知らないし、それがなにより私たちらしいと思う。少し移動して美味しいコーヒーを飲み(つつフレンチトーストとチョコレートブラウニーをそれぞれ食し)、共通して読んでいたソル・フアナ『知への賛歌』を読んだ。同じ敷地の中で、家具だとか雑貨をみた。そうしているうちに約束していた時間が来たので、タクシーで〈某所〉に向かった。せっかく戸籍を置くことになったわけだし、見学をさせてもらおうと思って事前に連絡していたのである。ここでもまたおじさんが、天使のような男の子の「ハゲ」だとか「太ってる」という暴言をいなしつつ、私たちにその建物について説明をしてくれた。しばらくそこにいたのち、近くのzine・同人誌を多く扱う書店に行き、京都で出ているロシア関係の雑誌「Костёр」(次号で終刊だという)と、老いに関するリトルプレスだという「PERSPECTIVE from an oblique」を買った。店長さんと「ゆめみるけんり」についての話をすると、にこにこしながら聞いてくれる。その後、次の予定まで近くの日本酒バーで『タイタニック』を見ながら涼む。店員の圧がすごかったが、料理がどれも美味しくて、わさびのマスカルポーネ和えとか柴漬けのタルタル和えとか、唐揚げのだし漬けなんかを食べた。レオナルド・ディ=カプリオは死んだ。そこから少し長い距離を移動して、出町柳のGACCOHでの鶴見俊輔についての講義(最終回)を聞きにいく。GACCOHは以前から行きたいと思っていたので、行けることになってとても嬉しかった。谷川嘉浩さんのレクチャー。鶴見がいう「文章の書き方」について。体験と原体験。期待の次元と回想の次元。話自体とても興味深く聞けたのだが、何より場の雰囲気がとても居心地よかった。民家を改装した小さなスペースに7、8人の観客が集まり、レクチャラーと同じ専攻の人も多いのだが、それでも閉鎖的な感じはせず、親密なコミュニケーションがあった。この距離感、そして大学(院)生が主に大学(院)生に向けて語る感じが、自分のやりたいことと近く、とても好ましく思えた。話の内容と、場の感じも合わせてよい刺激をたくさん受けて、恋人と興奮してしゃべりながら鴨川を横断して夜の街を南下。途中にあるチープなタイ料理屋でご飯を食べて、地下鉄の駅まであるいて宿に帰る。ちなみに裏番組で祇園祭をやっているようだった。こんな、ある入籍の日だったことだ。



ペテルブルグで偶然出会うことになったあの日(自分は覚えていないのだが、その日の待ち合わせでわたしはドゥルーズの『千のプラトー』を読んでいたという。気持ち悪くないですか)から、だいたい5年の時を経て、今年の7月15日に私たちはわたしとわたしであり続けながら、私たちとして少しだけ強くなった。ということの記録。しばらくして私たちは東京に帰って夜ご飯を食べながら、私たちは何も変わらないこと、慣例的なものに抗いつづけていくこと、尖りつづけていくこと、子どものままであることなどを話しながら、笑った。


(追記)2018.7.25
・婚姻届の「新しい本籍」欄は、捨印を押していても役所で修正できない事項だそうなので、これから出す人は注意が必要ですね。(とはいえ、本人が窓口で修正する方法はあるから、2人分の印鑑を忘れないこと。)そういうことがあるので、できれば本籍地の属する自治体で提出すれば、休日でも窓口のアンチョコで調べて教えてくれる場合があるから、その方が後から楽だと思う。
・(手続き上知った京都トリビア)京都市に「〜番」は存在しない、すべての住所は「〜番地」である。「丁目」でなく「町目」と表記している場合がある。
・手続きメモ。(現代社会のスピードを記録しておくために)
0715日:届提出。(翌日は祝日)
0719木:戸籍謄本請求→翌日発送。(結構スピード感がある。)
0723月:住民票「新氏・本籍」反映。
0724火:会社書類①婚姻届、②改姓届。
0725水:免許更新。(一瞬で終わる)
0726木:改姓について会社の決裁了。会社書類③社員証更新。A銀行口座名義変更(ネット銀行なので郵便で。完了まで相当かかる)。
0731火:会社内各システム名前変更。郵便局・クレカ名義変更(30分くらいかかる)。
0802木:ネット、携帯など名義変更(郵便でのやりとりもあれば、ネットで写真を送るだけのところもあり)。
0814火:クレカ・web上の名義変更完(カード着は後日)。

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