31 7月 2015

いかだ辺境劇場チェーホフ編の感想

東中野のRAFTというスペースで、「いかだ辺境劇場 チェーホフ編」と題されて2つの若手カンパニーがチェーホフの『桜の園』と『三人姉妹』をやる公演シリーズがありました(参考URL: http://raftweb.info/chekhov)。
一言ずつ感想をメモしておきたいと思います。

7/18 Dead Theater Tokyoによる『桜の園』
傑作というほどでもないですが、試みとして面白かった。舞台上に3人の女性俳優だけが上がります。カジュアルな服装・ほとんど何もない舞台。少人数・低予算であることを逆に強みにしている感がありました。演出上の面白さは、というと、セリフが一人歩きをしているというところです。つまりチェーホフの戯曲の中では幾人もの人物が登場し、セリフを呟くわけですが、そのセリフの担い手が任意に変更されます。例えばロパーヒンやドゥニャーシャといった人物たちのセリフを、ある時は俳優Aが、ある時はBが担当し、劇中で任意に変更されてゆくのです。舞台上には俳優ではなく、まるでセリフが幽霊のように半ば実体化し徘徊し、人形と化した俳優たちに乗り移っているかのようです。「幽霊のよう」といえば、当然昨年フェスティバル・トーキョーで観たミクニヤナイハラプロジェクトによる『桜の園』もまた幽霊を、この場合は幽霊を文字通り実体化させ一人の俳優に担わせる演出をしていました。ミクニヤナイハラプロジェクトの場合は、グラウンドの3箇所でメガホンを使って俳優たちが各々叫びたてる前半部と、室内に移りものすごい運動量とテンションで終幕へ突き進む後半部とに分かれていたわけですが、殊に後半部では幽霊の演出もあり非常に笑える演出になっていました。Dead Theater Tokyoの演出は、その幽霊をセリフという形で半ば実体化し半ば隠匿された状態にして現出させます。その結果として滲み出てくるのは、隠しようもない不気味さです。そしてもう一つ実感されるのは、チェーホフにおける「ディスコミュニケーション」という主題です。チェーホフの戯曲の中では、登場人物どうしが会話をしているようでいて、実は各々が自分のことで手一杯であって、コミュニケーションなど成立していなかったという事態が往々にしてあります。今回の演出の白眉は、冒頭部に椅子に座った俳優が相手のないまま一人虚空に向かってロパーヒンの冒頭のセリフを呟くところです。相手がいなくても、なんと自然に聞こえることでしょうか。チェーホフのセリフ作りの巧妙さと恐ろしさをいま一度確認できた気がしました。
カンパニー自体昨年結成されたばかりのようで、今後が楽しみです。


7/27 shelfによる『三人姉妹』をモチーフにした公演『三人(姉妹)』
まず冒頭で「カチューシャ」が流れるところから、期待外れな感じを抱いてしまいました。チェーホフの戯曲ほど軍歌(というか戦時歌謡)の合わない演劇はありません。そういった熱から一番遠いところで成立しているのがチェーホフだとわたしは思っているので。
この演出の肝は、おそらくそういった的外れかつ時宜を得ない歌曲の使用と、俳優たちによるグロテスクに引きつった過剰なセリフ回しの2点でしょう。そして自信を持って、二つとも成功していないと言えます。
俳優たちはわざとセリフを調子外れかつグロテスクな喋り方で表に出していくわけです。それはおそらくシリアスさの方面(例えばそれによって劇自体を解体してしまうような「うまくいかなさ」の表象を目すなど)を志向しているのではなく、ファニー・ユーモアの方向を目していることは明らかです。セリフを過剰なエモーションと表情によって出すことで、チェーホフのセリフを絶対化しないで笑ってみせる、そうした試みは理解できます。しかし欠点は、それがまったく面白くないという点です。おそらく俳優たちはベストを尽くしているでしょう。直前に一人降板した事情を鑑みても、俳優たちの演技に特に不足はないように思えました。どうしてなのか、わたしにはうまく言えませんが、チェーホフを笑う試みが、この演出ではまったく成功していない。そのせいで劇中に生まれるはずだった面白さが、まったく面白くないという意味で別次元のグロテスクに陥ってしまっており、結論としては退屈でした。そもそもこれがチェーホフの演劇、しかも「三人姉妹」である必要はあったのでしょうか。
チェーホフを笑うことは非常に困難です。笑ってみるならば底なしにやってみるがいいでしょう。今回の場合はどこか不徹底な印象を受けました。チェーホフは強い劇作家です。真剣にやるにせよやらぬにせよ凡百の演出はチェーホフと戦っても惨敗するのがオチでしょうが、百に1つくらいはその勝負において勝ちとは言わないまでも引き分け程度の成果を収めることができる演出があるという可能性に、わたしはこれからも賭けていきたいのです。今回の演出はそうした百に1つの演出ではなかった、と、それだけの話ではあるのですが。おそらくわたしはたった1時間の演劇に求めすぎなのでしょう。

30 7月 2015

清竜人についてのメモランダム

友人に誘われて1/30、渋谷のO-EASTにて、グループイノウ、 the band apart、清竜人25が出演するイベントをみました。

グループイノウは最近はまっていて、もちろんすごく良かったのですが、それ以上に強い印象を残したのが清竜人25で、もうそれはポスト=アイドルのアイドルグループであるという一点に尽きるのですが。

清竜人といえば、あの凡庸な歌詞と非凡な自己プロデュースのミクスチュアである「痛いよ」みたいな楽曲(PV)でそもそもから名はあったわけで、プロデュースのされかた/しかたは、どこか中村一義とか初期七尾旅人風の、「触れると切れるような」系・サブカル/左に親和性のある天才・非凡さをフィーチャーする感じだったと思うのですが、歌詞をよく読んでみると、どちらかというと実は西野カナ系であり、十分にメインカルチャーである素地をもった人ではなかったでしょうか。

アルバムを出すたびに化けていって化けていって、ついに「アイドルグループ」に辿り着くわけですが、これは彼自身の「非凡な凡庸さ」とでもいうべきそういった素養を、うまく自己言及的で・いかにも際どいアイドルグループ、というかたちでうまく昇華し得た結果だと思います。というか彼の素質がそこまで導いた・そこに辿り至らざるを得なかった、という言い方が正確かもしれません。

清竜人本人をセンターとして、彼を「夫」、その他6人のメンバーを「妻(第○夫人)」とする発想は最高にイカれています。それをフェミニズムの視点から批判することは、例えばライバッハをシオニズム団体が批判するくらいセンスがないことです。だって最高にバカらしいじゃないですか。

観客はねじれた位置に置かれます。なぜならすでに最初から「恋愛可能性」が去勢されているからです。
アイドルグループ中興の祖AKBグループが、私的恋愛を禁ずるところにプロデュースの要を置くことで、オーディエンスとの「恋愛可能性」を措定し、「誰のものでもない女の子」を演じていたのと、それは正確に対応しています。
清竜人25という場で「逢いたい気持ちがあふれてるの」と歌われる時、逢いたさの対象とは、オーディエンスではあり得ず、ただ清竜人ひとりなのです。

そうしたねじれた関係性の劇場としてのアイドル、関係性の極北としてのアイドルである清竜人25なわけですが、アイドルについてこうしてことばを費やすことほど野暮で非生産的なことはないので、いい加減にしますが、要約を許していただけるなら、それはやはり、「かわいい」と、この一言に尽きるでしょう。