投稿

8月, 2015の投稿を表示しています

ウラジーミル・マヤコフスキーの詩

イメージ
*実を言えばマヤコフスキーを訳すのは初めての経験です。小笠原訳と見比べて誤訳を見つけることに汲々とするのが、正しい読者による正しい楽しみ方です。

セルゲイ・エセーニンへ(1926) あなたは行ってしまった
 ひとが言うように
  あの世へと。
虚しい・・・
 飛んで行ってください、星々の中へ、飛び込んで。
きみにはなんの貸しもない
 酒代さえも。
素面だ。
違うさ、エセーニン、
 これは
  おちょくってるんじゃない。
喉には
 苦々しい嗚咽がある
  嘲り笑いなんかじゃない。
ぼくには見える
 切り裂かれた手でゆっくりと
自分の
 骨を
  袋に入れてあなたがカチャカチャ揺らしているのが。
もうやめてください!
 やめて! 
  正気ですか?
両頬を
 死の白墨が
  濡らすがままにしておくんですか?!
あなたはだって
 あんなに
  すごいことを言葉にして吐き出していたのに
この世の
 他の誰一人だって
  言葉にできなかったようなことを。
どうして?
 なぜなのですか?
  わからなくて打ちのめされてしまう。
批評家どもはぼそぼそ言っている
 「あいつは罪つくりだ」と。
そうかな・・・
 でもそれは・・・
  でも一番の問題は
   繋ぎとめるものが少なかったこと
その結果として
 ビールやらワインの暴飲だった。
ひとは言う、あなたは  放蕩生活を
  高踏な生活に変えるべきだったのに、と
高踏さこそがあの人に良いように働いて
  馬鹿げたことには至らず済んだだろうに、と。
そうかい、高踏な生活って言うけど
 じゃあそれは渇きを
  クワスで満たしてくれるもんなのか? 高踏な生活だって おんなじように
 酔っ払うのに目がないじゃないか。
あなたのところに
 汗っかきどものうちの誰かが
  寄ってって
生活費でも
 もっともっとたっぷりと
  恵んであげるようにすりゃよかったのに、と
そうすればあなたは
  一日に
   100行ずつも
    書き上げたろうに
退屈で
 長い長い
  ドローニンみたいな詩行をな、とのたまう。
ぼくに言わせれば
 そんな戯けたことが
  ほんとにあったとしたら
もっと早く
 自殺することになったでしょうね。
ウォトカのせいで
 死んだほうがまだましさ
退屈のせいで死ぬよりは!
ぼくらには
 死因が
  定かではない
縄で首を絞…

ゲンナージイ・アイギの詩

初公開:2014年1月28日 更新:2015年8月10日 いまではいつも雪が(1978) n.b.に 雪のように あることである「神」 そして 雪があること があること あることである 魂が あるときに
雪 魂 そして 光 こういうものはぜんぶ 死のようにある者たちのように それらもまたあるということに過ぎない
そこにもあると 認めること 闇の世界にも ある があること またもや雪が降る時には 「アァ神サママタユキガ」 あるということが どうしてありうるのか
実際のところ ないのだ 死体のように あり かつ ないものなのだ
あぁ 「ハリボテ=国家」というものがある 疑いの余地なく あるのだ 「国民」が ない ことを意味する ことばなのならば
では ある とはいったい何なのか そのせいで ここに これがあるような あるとは そして 「貌」はあたかもただ 「闇と貌」の国だけがあるような そんなハリボテなのだ
「時代—そんな—死体」
ひとつの ある ことがある それはつまり ない ことでもあるが アァ、神サマ、マタ、ユキガ! あるものがあるように それらは ない ただ「死にみの国」であるに過ぎない
あり かつ ない ことがこうして ある そしてただこのために ある だが ただただ ある ことである
魔法で起きたかのように 一瞬 竜巻がある 「死性の国」はなくなる あぁ神さままた雪が 魂 雪 そして 光
あぁ神さままた雪が
それらがないこと があること であれ 雪だ わが友 雪だ

青山真治演出『ワーニャおじさん』

2014年12月21日に、笹塚ファクトリーで上演された青山真治演出による『ワーニャおじさん』についての感想文です。
感想をまとめる時宜を失したままでしたので(工藤の怠惰のせいです)、上演後友人に送ったメッセージを編集しながら転載します。いまさらですが。

2014年12月22日
00:24 青山真治の『ワーニャ』、最高!ではないけど、みて良かった感じ。どうしてもマールイ劇場(ペテルブルグ)のと比べてしまうから酷な話ではあるけど

00:24 いま『ワーニャ』をやるとしたらソーニャが強くなきゃいけない、という認識は青山も持っていて、でもその強さの表れ方がすごく日本っぽくて

00:24 ロシア人ver.だとソーニャに弱いんだけど強がってる感じが出てて、それはそれで泣けるんだけど、青山の演出だとソーニャがまるでロボットみたいな喋り方をするんです。日常にすっごい耐えて耐えているうちに感情を殺すことを覚えてしまった感じの。

00:24 それで最後にその殺していた感情のストッパーが外れてワーニャの頭を足で蹴るシーンがあった、そこに彼女の全部の感情を持っていってて、すごくよかった。

00:25 ワーニャの役者もすごくうまかったよ。ソーニャと同じく日常で抱え込んでしまった不甲斐ない思いをすべて語尾に「〜(笑)」をつけてなんとか慣れようとする感じの喋り方で、これが、うまかった。

00:25 日本でいま上演するに際してよく練られた感情の出し方だったと思う。日常に耐えて耐えてついにはその歪みに耐えられなくなって精神病的なやり方ですべてを吐き出してしまう。

00:25 それで、SFっていうのは心配してたより前面に出てはなかったんだけど、でも「教授先生と新妻」は、異世界の惑星に降り立った地球人のようなものなのかな、とは思った。確かに衣装的にも、全員がツナギを着ている中でその二人だけは(ツナギを着てるけども)コートを羽織ったりレースをつけたりしている

00:27 「他者」の視点の提供者です

00:30 あとジンワリきたのが、最後の「そして、ゆっくり休むの。」みたいな台詞が、「息をつくの。」という訳になってて、生硬だなあとおもったけど、何度も聞いてるとそんなことはなくて

00:31 「息をつく」= 1,休憩する 2,息を尽く(死) 3,呼吸をする
の三段階の意味…

タルコフスキー×タルコフスキー

ほら 夏がやってきた
こんな夏はいままでなかったみたいで
日なたは暖かいのだけれど
ただ それでは足りない

起こりえたことはすべて
5本指の葉のように ぼくに
ぼくの手に真っ直ぐ落ちてきた
ただ それでは足りない

よくないことも よいことも
ただ徒に無駄になったのではない
すべては明るく輝いていた
ただ それでは足りない

生命が翼の下に連れていく
守って そして救ってくれた
ほんとうに ぼくは運がよかったのだ
ただ それでは足りない

葉に火は点けられず
枝は砕かれなかった
日は ガラスのように 洗われて

ただ それでは足りない


*息子のアンドレイの『ストーカー』(でしたっけ)で引用されていた父アルセーニイの詩篇です。