12 5月 2017

岩下壮一「ソロヴィヨフと公教会(『神人論』の翻訳を読みて)」(1917)

日本における最初期のソロヴィヨフ論。文字起こしにあたり、パンクチュエイションや旧仮名遣い・旧字体に適宜修正を施した。また固有名詞については、必要に応じて現在通用される表記に改めている。

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ソロヴィヨフと公教会 1

(『神人論』の翻訳を読みて)
七高教授 岩下 壮一


  悪は力なく、永生は吾等のもの、
  神吾等と偕(とも)に、ましませばなり。

〔一〕

十余年前の敵国、今日の友邦、最近の革命と連合軍に対する向背に関して、世界の視聴を聳動しつつある露国の民が、如何なる理想を懐き、如何なる信仰に活くるかは、興味ある問題であらねばならぬ。現今わが国に愛読さるるトルストイ、ツルゲーネフその他の文豪は、何れもそれぞれスラーブ民族の一面を代表する人物には相違ないが、有名な『露西亜小説(ローマン・リュス)』の著者2 が、ロシヤの冬に閉じ込められた大河の結氷の下を、音なく流るる水に譬えた民衆の信仰と希望とを、その中の誰が代表していると云えようか。大地の波濤がうねりを打つ曠野に、トルストイの描いた、当途(あてど)もなく人の心を牽きつける際涯のない空を仰いで、自然の絶えざる圧迫と戦いながら、辛うじて神の愛に露命を繋ぐ八割の農民等と、革命主義や無信仰は何の交渉があろう。西欧思想の急激な輸入と、専制政治の産み出した破壊的な思潮は、決して「神聖なる露西亜」を代表するものではない。われらは純粋なスラーブ精神の代表的人物を他に求めねばならぬ。ウラジーミル・ソロヴィヨフ(1853-1900)の名は近来日本でも時々きく様になった。昨年に至ってその『神人論』の翻訳さえ公にされた。ロパーチン教授3 が、「露国の最(もっとも)独創にとめる哲学者、真にロシヤ的な哲学体系の最初の建立者」と激賞し、ド・ヴォギュエ4 が、「彼は偉大であった。徹底的に己れの民族を代表した」と推奨した思想家が、如何に世間から迎えられるかは、少からず自分の好奇心を唆(そそ)った。真正のキリスト教的立場から、大胆にかつ充分の理解を以て、近代文明を批評し、その上に自己の体系を樹立せる偉人に対する憧憬以外に、西欧および露国内に於ても、東西教会の一致によって、その伝統的の立場を捨てずに、正教会を一層世界的ならしめんと努力する有力な人士の中心に、彼がなっている事も、多大の興味を喚起する理由である。

 この春工藤氏より、『聲』の記念号に寄稿する様御依頼を受けた時、題目の撰択に苦しんだ自分は、ソロヴィヨフの事を想起して、関竹三郎氏の『神人論』の翻訳(洛陽堂出版)5 を取寄せて一読してみた。それによって、この書が何らの反響をも喚起し得なかった理由が分明したと共に、非常な不満を感ぜざるを得なかった。関氏の翻訳には三頁の序と、二頁の小伝が添えてある。そうして、それには少からぬ誤謬と、不精確とがある。「一度原書に接して敬虔の念禁ずる能わず、聖書に対するの心を以て反読すること数回、遂に翻訳して、弘く求道の士に提供する志を起した」という訳者に対して、頗る失礼であるが、仏訳と対照し得た部分に於ては、精確な意義を有する思想上の文字を、漠然と訳し去られたかの感を与えるのは遺憾である。氏はまた、原著に就ての文献的説明に一行も費やさぬ程、学術書の翻訳者としての責任を無視している。従って元来十二回の講義より成立して居るべき筈の『神人論』が、何故に十一章を以て終っているかは、不可解である。特にソロヴィヨフの体系に於て、特種の意義を有する全一、抽象、神秘等の述語を、何らの説明なしに訳出し、使用されたのは、非常な誤解を生ぜぬとも限らない。折角外国にも完全な訳書を得られない本を、訳出せられながら、未知の思想家の紹介者としての用意が、不充分であったのは、甚だ残念な次第である。かつ『神人論』出版の年代を無視せられた結果、ソロヴィヨフの宗教思想発展の上から見ると、正にその出発点に当る、従って最後の結論とは多くの点に於て矛盾する思想を、終生渝(かわ)らざる確信であったかの如く、読者に提供されるに至っては、甚だ迷惑という他はない。それは丁度カントの批評期以前の著述を訳出して、これがその哲学の真髄だと云うのと大差ない。況んやアングリカン[イングランド国]教会時代のニューマン6 の神学書を翻訳して、これが彼の信仰であると、未知の社会に披露したらどうであろう。

 『神人論』の講義が、『正教評論』に公にされたのは1880年で、ソロヴィヨフ27歳の少壮時代に当り、かつ公教会に対して、少からぬ偏見を有する正教信者としてであった。彼はその後16年を経た1896年2月18日、モスクワのルルドの姫君の聖堂で、公教会への帰正式を行った。自分は彼の公教会との関係に就て、少し述べたいのである。

〔二〕

彼の父セルゲイ・ミハイロヴィチは露国史の泰斗で、祖父は正教会の聖職を奉じていた。「吾(わが)父は正教と学問と祖国とを、熱烈に愛した」と云う息子の言で、彼の生い立った境遇は、自ら推察される。その古き家系には、揺籃の裡より、正教会の荘厳な儀式と聖歌によって、涵養された深い信仰が、連綿と続いていた。かかる伝統の裡に人となった彼が、後年幾多の煩悶と不撓の研鑽を経て、公教会に帰正した時にすら、断固としてラテン教会の一員たるを肯ぜず、同じ公教会に属してはいるが、東方教会固有の祭式を保存する、ギリシア教会の権利(歴代の教皇、特に1896年、教皇レオ13世によって明に認められ、かつ宣言された)を主張して、祖国の宗教的救済の端緒を、開かんとしたのは当然である。

 乍然(さりながら)、露国思想界を両分する国粋論者(スラボフィル)と、西欧論者との中間に立って、一層高い、世界主義に基く国民的理想の宣伝者たる使命を有した彼には、なお他の準備が必要であった。11歳の時モスクワの中学校に入った早熟の天才は、そこで信仰の危機に遭遇せねばならなかった。彼は監督者の眼を掠めて、唯物論者ビュヒネルの『力と物質』を耽読した。それからストラウス、次にルナンのイエズス伝………三年の後「ビュヒネルの科学要理が、フィラレト主教の正教要理を征服した」と誇るに至ったのは自然の勢である。書簡の一節には、「当時余は怜悧なる人のキリスト教を信ずるは、偽善か狂気の一種ならむと信じた」、とも書てある。

 この生意気な青年を救ったものは、実に聡明な父であった。流石に子を見るの明あった親は、ただ真面目に人生問題の軽々に看過するべからざるを説き、反省を促した。その後三年間は、若きソロヴィヨフにとっては、苦しい煩悶の歳月であった。彼が後年私淑したヒッポの大聖7 の如くに、内心の空虚と、悪と物質の問題に、絶えず悩まされていた。ショーペンハウエルの託宣も聞いていたが、勿論満足出来なかった。彼にも早晩、昔ミラノの庭園に響いた「取てよめ(トレ・エト・レゲ)」8 と云う神の聲が聞えねばならぬ。彼は聖パウロの書簡の代りに、スピノザをよんだ。聖アウグスティヌスに、プロティノスや新プラトン学派が、霊の実在を教えた如く、スピノザはソロヴィヨフに、神の必然的存在を確信せしめた。関氏の小伝中「彼の敬愛する哲学者はスピノザであった」とあるは、この事に起因している。乍然(しかしながら)、スピノザの神と、ソロヴィヨフの神との間には、雲泥の差がある。スピノザは実在界の門戸を開放してくれたが、ソロヴィヨフがその殿堂の奥に見出したのは、三位一体の神であった。神の人格とその超絶性とは、実にソロヴィヨフの哲学の根本観念で、その神は認識の対象であると同時に、愛の目的でもある。「真理よ、真理よ、汝を知らざりしその時にすら、わが心の底に如何に汝を慕いしぞや。」(Confess. III, 4. [アウグスティヌス『告白』])「もし睿知にして神ならむには、真の哲学者は神を愛する人也。」(De civit. Dei VIII, 1. [同『神の国』])との語は取てまた彼に当嵌める事が出来る。彼に於ては、哲学はやがて宗教であり、認識は直(ただち)に実践の階梯となるので、彼は抽象的理性にのみ頼らずに、プラトンの美しき言に従って、全心をあげて真理に肉迫し、これを全一哲学(philosophie intégrale)と呼んだ。茲に於てか、彼の哲学体系が、神秘的色彩を帯び来るは当然で、彼にとりては、神は眼前の現象界よりも現実であり、ニケヤ信経はその宗教的経験の結晶となった。従って神人キリストを離れては、宇宙の説明は不完全になり、人類神的要素の発現たる教会(Civitas Dei)を別にしては、世界歴史は無意義となる。無限絶対の神は、キリストによりて吾等に与えられ、キリストの仲介によって、吾等の心の中に実現せられねばならぬ。かくて神化せられたる人類(divinæ consortes naturæ)が、キリストの体たり枝たる教会である。(哥前9 12ノ27) 神人論(théandrisme)の基礎はここにある。

 関氏がソロヴィヨフを露国唯一の神秘論者と呼んだ後に、「神秘とは主観と絶対との直接交通を云う。」と定義したのは正しくない。彼はmystiqueとmysticismeの両語に特別の意義を賦して、区別している。前者は上述の定義に当るもので所謂忘我(extase)の境に入るもの、後者がソロヴィヨフの主張する、キリスト教の信仰に基いた霊的交渉を意味し、他の所では、彼はこれを神智とも称している。もし関氏にして、自己の訳書の296頁を精読せられたなら、この誤解は避け得られた事と思う。

〔三〕

「人を救う者は、己れも亦救わるべし。」これが終生娶らず、清貧に甘んじた彼の、一生の標語であった。その死に先つ2年、大著『善の弁明(道徳哲学)』10 の第二版に、「余は少くともこの著述が、主の業を等閑に為す者は呪れよかし、との誹を免れん事を望む」と自序せるを見ても、彼が地上47年間の健闘の意義は、自ら明になるであろう。モスクワ大学の古生物学の講座が与えられる、と噂されたほど成功した自然科学を捨てて、哲学に専心し始めたのも、飽くまで真理の宣伝者たらん事を期したからであった。

 彼の犠牲は豊に報いられた。1874年の最初の論文『西欧哲学の危機』11 の口頭弁論の際にすら、その独創と該博なる智識は既に試験委員を驚倒せしめ、列席者の一人をして、「今日の希望にして実現せらるるの日あらば、露国は新なる天才を有すべし。彼は将来必ずその父を抽(ぬき)んずるに至らん。」と叫ばしめた。

 ソロヴィヨフがその学究的生涯の発端に於て、近代西欧哲学の根本的誤謬を、認識の根柢であり、道徳の規範なる神的観念の無視にある、と主張したのは、その一生を貫く宗教的関心を示す点に於て、注意すべき事実である。如何にして、実証論や懐疑説の迷妄に捕れたる同胞を、真理に導くべきか、全人類の神化に終らねばならぬキリストの事業を実現すべきか、これがその生涯の問題であり、かつ努力であった。

 彼は官僚に頤使される教会には、満足出来なかったが、国権への屈従と云う一点を除いては、正教会の信仰を非難する理由を見出さなかった以上、真正なる教会は如何なるものかが、自然の順序として、第一の問題として生じてきた。この点に於て、彼はオクスフォード運動当初のニューマンと全然軌を一にしている。彼の教会観は、1877年の講演『三つの力』に於て稍(やや)明瞭な形を取ってきた。同年の著作『全一科学の哲学的基礎』および1880年の学位論文『抽象原理の批判』の一部に於ては更に進んで、人間生活の経済的・政治的・宗教的三方面の関係を詳論し、国家を威嚇する、個人の経済的欲望に基く社会主義の危険も、教会を威圧する専制政治の弊害も、所詮は人間要求の秩序紊乱に基くので、三者は本質上矛盾するものでも、相争うべきものでもなく、有機的関係の下に相扶くべきもので、教会国家の関係は霊肉のそれの如く真の教会は当然真の国家に対して、上位を占むべきを力説した。個人の自由を蹂躙するのは、回々教の奴隷制度である。フランス革命以来、利己的個性の上に、社会を改造せんとしたのが西欧の病弊で、スラーブ民族の使命は、キリスト教の真義に基いた個人対社会関係の下に、霊的生活を高調するにある。

 『神人論』にも、これらの思想は随所に反復されているが、この立場よりせる、彼の当時の公教[カトリック]観は如何なるものであったか。「宗教的過去を代表するローマカトリック教は、今なお頑強に智的及社会的進歩と闘っている。併し地の塵を以て蔽われていればとて、天の事を忘れては居ない。世人は通例この塵を以て、カトリック教の本質と見做して居るが、その根本観念、凡そこの世の権能は、宗教的原理に服従せねばならぬ、と云うは大体に於て、非難すべからざるものである。ただ自由の意志を以てのみ実現さるべき服従を、外的権力に訴えた点に於て、全く方法を誤ると同時に、宗教の本質的精神に悖っている。その強迫圧政は、勢い個人の反抗(プロテスト)を喚起せざるを得ない。プロテスタント教の意義は茲に在る。(関氏訳書23-29頁参照) 加之(そのうえ)に中世紀のラテン神学者等は、古代ローマの法律的思想の影響を受けて、真正なるキリスト教的感情にも、哲学的理解にも悖反(はいはん)する様な、無稽な教論を樹立し(同280頁)、遂に権勢の欲望は、ローマカトリック主義の極端かつ純粋なる表白であるイェズイット[イエズス会]派となって発現した。即ち民衆の服従するのは、キリストでなくて教会権であり、真実の信仰表白の代りに、法皇を承認すれば足れりとした。その本質と目的は、教権の獲得にある。乍然(さりながら)、これやがてこの誤れる主義の、自駁自滅である(302頁)。幾多の欠陥あるにも関わらず、キリスト教史上、人類の不動なる神的基礎を代表するものはなお東方教会で、人的要素を代表する西方教会が、この神的基礎と、自由なる結合を完成するによって、新しき霊的人類を生み出すことができる(316頁以下参照)。」 この結論によってソロヴィヨフ終生の大目的たる東西教会の合一は、明瞭なる形式を取って現れてきた。ただこの時はまだ、東方教会が依然として、合一の基礎として考えられた点は注意に値する。

 1874年から1881年の初めまで、彼はモスクワおよびペテルブルグに教鞭を執ったのであったが、『西欧哲学の危機』に於て、当時大学で勢力を得ていた実証論を攻撃したが為に、少からず同僚の感情を傷(そこな)い、さらに教会対国家問題で、国粋論者(スラボフィル)の怨を買った為に、或は海外留学に名を借りて敬遠せられ、一度は休職をさえ命ぜられて、実際教壇に立ったのは極めて短かった。遂に1881年3月皇帝アレクサンドル2世暗殺事件に際してなせる『革命主義の批判』 と題する講義が累をなして、終生教育界より退かねばならぬ事となった。彼が学生間に、如何に人望を得ていたかは親しく彼の講義を聞く事を得たド・ヴォギュエの回想記を見ても分る。「彼の雄弁は凡ての学生の喝采を博した。余は彼の大胆な言論を、張索(はりなわ)の上の軽業師を見守る如き驚嘆を以て傾聴した。如何なる失錯も彼を躓かしめなかった。最も頑迷な国粋論者にも信用の出来る宗教上の観念を巧に結付けて、何事も云い得ぬ、而も何事をも語り得る国に於て、弁士の思想は吾人の意表に出る円滑を以て、断崖を縫うていった。」(Sous l’horizon. p.20)12

 かくて彼は祖国救済の大事業を、一管の筆に託するの已むなきに至った。この年始めて、公然と露国に於る教会権を非難して、聖務省(シノド)の怠慢を攻撃したのであるが「西欧に於ては法王主義(パピズム)がキリストの地位を簒奪し、プロテスタンチスムは主理論(ラショナリスム)に堕落した。ただ正教会のみが、圧政の下に苦しみながら、18世紀に至るまで、精神的自由を維持した、」との附言によって辛うじて世論の沸騰を禦(ふせ)ぐことが出来た。その後彼の疑惑が、漸次積極的色彩を帯びてきた事は、同年に物故したドストイエフスキーの記念にした3回の講演に、意外にも教会問題が論ぜられたので明(あきらか)である。文豪晩年の信仰は、人類はキリストに於てのみ、その一致と自由の基礎とを見出す事が出来る、その上に築き上ぐべき愛の殿堂は、個人の愛が一切万事に発現して世界的勢力を有する世界的教会たるに至って完成される。「彼の目的は、唯一の天父が、諸(もろもろ)の国民の協力を求め給う畑に、スラーブ民族の耕すべき名誉ある畝を示す」にあった、と云う評論の後に、ソロヴィヨフは東西教会の分離を、許すべからざる罪悪と痛論した。併し彼も亦祖国の使命を信ずる愛国者である。ビザンツの皇帝がこの罪悪を完成した刹那に、これを償うべきロシヤを、神は興し給うた。ロシヤは将に覚醒せんとしつつある。その国民的良心の前に提出さるべき問題は、この歴史的罪悪を永続せしむべきや否や、にある。ドストイエフスキーは祖国の使命が、神の真理と人間の自由との調和によって、東西の一致を促進するにあると信じた。ソロヴィヨフはこの偉大なる使命は「世界的なるが故に真にキリスト教的なるローマ」と、分離しては実現し難いと添(つけ)加えた。

〔四〕

ソロヴィヨフがその後辿ったローマへの道を、ここには詳説する余白がない。教壇を退いた彼は神学に没頭した。その学者的良心を満足させるには東西教会の信条の相違や、悲しむべき分離の歴史を、詳細に第一の源に溯って研究する事が必要であった。公会議の議定はマンシイの大冊で厳密に吟味された[。]また浩瀚なるミニュの希羅教父全集の熟読によって聖伝の跡を辿ってみた。旧約聖書を原文で読み、かつ翻訳せんが為に数月間修院に閉じ籠って、ヘブライ語の研究をしたのもこの頃であった。その結果を1883年の私信の中に「教皇不可浸権(インファリビリタス)、聖母の汚れなき御やどり(インマクラタ・コ[ン]セプシヨ)、Filioque(フヰリオクエ)13 の信条は、新説とも異教とも認められぬ」と、洩らしている。同年および翌年に公にした教会問題に就ての著者[書]が、教界を沸騰させたのは已むを得ぬ勢であった。彼は反対者の攻撃に対して益々自己の立場を明瞭にする必要に迫られ、東西教会問題に関する要点を9問に縮めて広く天下に問うに至って、事件は益々拡大して外国にまで及んだ。彼の質疑に対する公教側の解答は遙か国境の外なる仏国から致された。かくの如き事情の下に、官僚派が彼を寛容し得なくなったのは当然で、その後死に至るまで、官権の圧迫は絶えず加えられたのであった。1887年の著述『神政の過去及将来』の第一巻は国内で出版の許可を得る能わず、辛うじてアグラム[ザグレブのドイツ名]で印刷だけは出来たが、本国では直(ただち)に禁書となってしまった。人々は祖国の為に世界的使命を説いたこの愛国者を、外国の新聞雑誌でロシヤを中傷した、と誹謗した。警官は彼を国境外に一歩も踏み出させぬ様に監視する命を受けた。彼は以前より露国の熱誠なる同情者であったクロアチアの司教シトロスマイエル 14 氏を深く敬慕し、会見を希望していた。1886年6月ウィーン発の書信には、「余は遂に墺国に入るを得たり、遂に貴下に面接するの自由を得たり」とある。シトロスマイエル司教との友誼は実にソロヴィヨフの生涯に一時期を劃するもので、以後二人は終始相渝(かわ)らざる熱心を以て東西教会の合一の為に種々畫策する所があった。この頃また仏国知名のロシヤ研究家ルロア=ボーリュー15 氏の要請により、本国で自由に発表の出来ぬ自家の宗教思想を仏文で著述する事を承諾し、三年後に『ロシヤと世界的教会』と題してパリで出版した。彼の宗教的著書中最(もっとも)重要なるもので、これによって当時彼の信仰が全然公教会のそれであった事を明白に知る事が出来る。

 ソロヴィヨフの晩年は実に聖パウロがコリント後書に録した使徒たるものの苦痛の十年であった。1900年6月、老母を見舞う旅の道すがら、ウスコイエ16 なるトルベツコイ公爵の別墅(しょ)に客死した時、その臨終に繰返した言葉は「主の奉仕は難い哉」と云う悲壮な一句であった。ヴォルコンスキー公爵夫人の如く彼を理解し、彼と共に最後まで真理の導く所に邁進した才学兼備の友も稀にはあったけれども、神と人との愛に献げ尽くされたその一生は遂に迫害と孤独との裡に終らねばならなかった。その最後の著『三つの対話』17 が黙示録に材料をかりた寓話的のものであったのも、言論の自由を束縛されていた彼としては已むを得なかった。彼はこの書の中に、「一つの群、一つの牧者」と云うキリストの言は、世の終りの瞬間になりても実現せられねばならぬと云う深い信仰を物語っている。またロシヤがこのキリストの大願を成就すべき世界的大使命を顧みず、徒に浸略的野心を逞うして神の召命に背く以上、その極東政策の如きも全然日本の為に撃破さるるに至るべきを論じたのが、果然四年後の日露戦争によって事実となったため、一部の人々から豫言者と呼ばれたのは一奇である。然り、彼は実に生前その郷里に於て歓迎せられざる豫言者であった。乍然(さりながら)その著書とその美しき生涯とは、スラーブ民族の為に火の柱となり、野に叫ぶ聲となって前途を照し導くに相違ない。自分はいみじき詩人でもあったと云う、ソロヴィヨフの希望の一句を以て筆を擱きたい。


 奇しき玄義(ふしぎ)に、吾等の心(こころ)喜(よろこび)にみつ、
 悪は力なく、永生はわれらのもの、
 神われらと偕(とも)に、ましませばなり。
 (聖霊降臨日)18


(了)


《註》

1 :原タイトルは「ソロウィエフと公教会」。公教会は、カトリック教会を指す。初出:『聲』500号(教友社、大正6年7月15日)、27-35頁。その後岩下壮一『キリストに倣ひて』(中央出版社、1948)、『岩下壮一全集』第9巻(中央出版社、1962)に再録(「ソロヴィエフとカトリック教会」に改題の上、内容にも多くの変更点がある)。ここでは初出のバージョンを元に書き起こした。
2 :註4のド・ヴォギュエを指す。『露西亜小説』は、その著作Le Roman russe (1886)のこと。
3 :モスクワ大学教授レフ・ロパーチン(Лопатин, Лев Михайлович、1855-1920)を指すか。
4 :ウジェーヌ=メルキオール・ド・ヴォギュエ(Eugène-Melchior de Vogüé、1848-1910)。
5 :ソロウィヨフ(関竹三郎訳)『神人論』(洛陽堂、1916)。比較的近年の訳としては御子柴道夫訳の『神人論』(東宣出版(『ソロヴィヨフ選集』第2巻)、1972)がある。
6 :ジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Newman、1801-1890)。神学者。イングランド国教会からカトリックへ改宗。
7 :後述の聖アウグスティヌス(北アフリカ・ヒッポで司教を務める)を指す。
8 :“Tolle et lege.” マニ教を信奉していた後のラテン教父アウグスティヌス青年が耳にし、キリスト教回心のきっかけとなった声。
9 :新約聖書「コリントの信徒への手紙一」を指す。
10 :Соловьев. В. С. Оправдание добра. 1897. これを底本とするらしい邦訳が少なくとも2種類、1925年(蘆田正喜訳『道徳哲学の根本問題』、東京宝文館)と1927年(吉田静致訳『道徳哲学』、中文館書店)に出ている。 なお、どちらもダディントンによる英訳からの重訳。
11 :Id., Кризис западной философии (против позитивистов). 1874. 『ソロヴィヨフ選集』第1巻(東宣出版、1973)に御子柴道夫による訳がある。
12 :de Vogüé. Sous l'Horizon. 1904.
13 :いわゆる「フィリオクエ論争(聖霊発出論争)」とは、三位一体説に関わる神学上の論争。ニカイア・コンスタンティノープル信条においてただ父から生まれるとされている聖霊が、子からも(filioque)生まれるとしたラテン教会側の解釈(文言追加)が、東方正教会側からの反発を招き、東西教会分裂のきっかけとなった。
14 :ヨシプ・ユーライ・シュトロスマイエル(Josip Juraj Strossmayer、1815-1905)。オーストリア=ハンガリー帝国のカトリック司教であり、政治家。
15 :アナトール・ルロワ=ボーリュー(Anatole Leroy-Beaulieu、1842-1912)。
16 :Узкое(ウースコエ)。現在はモスクワ市内。
17 :Соловьев. Три разговора о войне, прогрессе и конце всемирной истории. 1900. 翻訳としては、早くは昇曙夢訳で『戦争と世界の終局』(富山房、1914)が、また御子柴道夫訳で『ソロヴィヨフ選集』第5巻(東宣出版、1973)と『ソロヴィヨフ著作集』第5巻(刀水書房、1982:2010)所収のものなどがある。
18 :ソロヴィヨフの詩«С нами бог (Имману-Эль)»より。原文はВладеешь ты всерадостною тайной / Бессильно зло; мы вечны – с нами Бог.

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