31 12月 2015

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)後半

(2)の後半です。

ハーモニーと美しさ

続いて3)目的について。ここはこの章で一番長いところなんですよ。30頁近くあります(げんなり)。ここで問題になるのは、「美しさは、何か目的を満たしているから美しいと感じるんだろうか?」ということです。答えから言ってしまえば、「美しさは、形式的に、目的を満たしているように見える(実態に関わらず)」と言うことになります。
前記事の2)で、「美しさ」とは普遍的に全員から期待してよい感覚とされていました。なぜそうしたことを期待していいかというと、認識能力が「自由な遊び」によって均整のとれたハーモニーを求める気持ち、それは皆に共通しているものであるから、というのが前節での答えでした。ここではもう一つ、目的から考えた説明が与えられます。ここで「目的」という場合、おそらく全員の到達地点としての「自由な遊びが求めるハーモニー」ということになるでしょう。しかし前記事の「関心」というところを思い返してみると、なにか自分に対する利害を考慮してしまうならば、その時の「美しいかどうかを判断する能力」は濁っている、純粋なものではあり得ないとされていました。なにか目的に適うことが「美しさ」なのであれば、それは「関心」が関わることになり、純粋な「美しさの判断」ではないのではないか。全くその通りで、「ハーモニー」は仮に目的として立てられるものであって、「形式的・主観的な目的」であると言われます。この「ハーモニー」が存在するということは仮に形式として私が想定するところのものであって、実際に存在するかどうかは考えられていないのです(期待してよい、とはこういうことでした)。仮に形として、私の中ではそういうものの存在が想定されているということです。その期待される「ハーモニー」にこそ快感が宿っているのであって、「美しさ」に関しては、快感がある→(から)→美しいと感じるのではなく、美しいと感じる→(ということは)→(「ハーモニー」が想定されており)→気持ちいいという流れになります(カント語で言うと、「趣味判断はアプリオリな根拠に基づく」)。
次の第十三項から第十七項にかけては、カントの本領発揮といったところで、「美は〜じゃない」「美と〜は関係ない」のオンパレードです。まとめれば次のようになります。純粋な美しさには「関心」も「感動」もないし、「完全性」という考えとも関係ないし、条件もないし「美の理想」なんていうものもないんだ、ということです。

感動は邪魔なだけ

「関心」については最前から言われていて分かりますが、「感動」がない、というところには驚きます。我々は「美しい」と言えば、ゾクゾクするような感動をもたらしてくれるものだと思っているからです。カントは言います。
趣味が、適意のために感覚的刺戟感動の混入を必要としたら、(略)かかる趣味はまだ粗野であり、十分な洗練を経ていないわけである。 (上、106頁)
「美しさ」に何を求めてるんだ、カント、お前〜〜という感じですが、あくまでカントはストイックに 純粋な美しさの感覚を追求していきます。カントによれば、まず「あ、美しいな〜」という感じがあり、そのおまけとして感動が付いてくるわけで、感動するから美しい、とは言えないということだそうです。
カントは親切なので、続く第十四項は「実例による説明」に充てられています。それによれば美しさというものは、音楽であれば→純粋な音のレベルで、絵画や建築など造形芸術においては→線描的輪郭(デッサン?)のレベルで判断されるものでなければならず、それ以上のディテールは単におまけ=「装飾」であって、もしその装飾が美しさにとって余計なものであれば「外飾」と呼ばれてしまうのです。つまり、カントはとことんまで「形式」で考えるのです。なんというフォルマリストか。20世紀を待たずともカントがすでにこんなにラディカルなフォルマリストであったのです。(ちなみにカントは同じところで芸術の形式を「形態」的なものと「遊び」的なものに分類しています。「形態」の芸術としては先ほど挙げたような絵画や建築などの造形芸術があるでしょう。「遊び」の芸術の中でもさらに分類があり、「形態の遊び(空間的)」と「感覚の遊び(時間的)」というものがあるとされ、前者は例えばダンス、後者は例えば音楽が想定されます。前者の「美」は線描的輪郭(コレオグラフィのようなものでしょうか)に、後者の「美」は「作曲」に宿るとされています。美は形式だ、輪郭だとはこういうことです。)
また同じところで、「感動」の簡潔な説明がなされています。
感動は、快適が瞬間的に阻止されると、これに続いて生の力がいっそう強烈に溢出するために生じるような感覚である。 (上、111頁)
そしてこの「感動」は、のちに述べる「崇高」には関係があるが「美」とは関係ないと言います。 この「快適が瞬間的に阻止」というところがいやらしいな〜と思います。

ニュージーランド人は人間じゃないから

十五節は、「完全であること」が美しさなのか?という問いからスタートします。今までの議論から考えてみると、意外とすんなり理解できると思います。「完全であること」を考えるには、まず先立って「本来どんなもの(用途)のものなのか? その到着地点=目的はどこか?」という考えからスタートせねばならず、そうである限りは「目的」の議論と同じです(この辺アリストテレスの「徳(アレテー、卓越性)」の議論を思い起こしたりします、「馬の徳(他のものより一番すぐれているところ)は走ることである」みたいなね)。ここまで見てくれば簡単、カントによればそんな「完全であること」は「美しさ」とは関係ないんだ、ということになります。「美しさ」とは「心的能力の遊びにおける調和の感情(内感の)」(上、115頁)であって、到達すべき目標が設定されるような性質のものではない(カント語では「概念」を持たない)のだ、と。美しさはコンセプトではなくエモーションに根拠を持っている。次の節も内容としてはだいたい同じことを言っています。「美しさ」には「自由な美しさ」と「付属的な美しさ」がある。前者には「目的」の考え方がなく、後者にはある。何か達成すべき目的がまずあり、それを満たして初めて美しいならば、その時の「美しさ」は付属的なもの=おまけです。そうではなく(目的を考慮せず)、認識能力において構想力を最大限に遊ばせるところにあるのが純粋な「美しさ」であって、だから「美しさ」には目的があって云々の条件はついてはいけないという話です。
それはいいとして、一箇所ん?と思わせるところがありました。引用します。
しかし人間の美(この種の美には、男女それぞれの美や小児の美が含まれる)、馬の美、建築物(教会、宮殿、兵器廠或は園亭)の美などは、いずれも目的の概念を前提している (上、117頁)
だから人間の美っていうのは付属的な美なのだという主張がされます。この辺にも先述のアリストテレスの 議論が反映されているように思いますが、建築物の美ならまあわかる(例も、ある特定の目的がある建築物の列挙になっています)、百歩譲って馬の美もわかる(早い、つまり馬の役割を果たしている=美しい)。ところで人間の美について我々は目的を意識しているだろうか? すぐ後でカント自身が実例として、「教会だからこそ禁欲的なんであって、教会でなかったら自分たちの心地いいように飾りをどんどん足していい」と述べていて、同じテンションで人間の美に関して、「軍人でなかったらもっと人好きのする柔和な顔立ち(原文ママ)を持っていていい」と言います。この価値判断の元では、軍人→(だから)→強面、男→(だから)→いかつい目鼻、逆にニュージーランド人→(ならば人間じゃないので)→身体を刺青で飾り立てて良いし、女子→(ならば男のような役割を持たぬので)→もっと優雅な目鼻や柔和な顔を持って良いとカントは言うのです。この辺あからさまに差別、ひっでえなあという感じですが、これらはすべてカントのあげた実例です。カント的には、人間の美しさというものは、各人が務める役割に応じて基準があり、それの基準の範囲内で美しいだとか美しくないだとか言われる、らしい。

平均的な男子の、平均的な鼻

さてこの節の最後、「美の理想なんてない」のところです。ここもロジックとしては、「目的」、「概念」、「完全性」と同じで、理想を持つことは、目的を持つことになって、目的を持つようなものは純粋な美しさとは呼べないからということになります。理念と理想という言葉がありますが、理念はより抽象的な概念で、理想というのはその理念を具体化したような個別の存在だとカントは定義しています(上、123頁)。カントによれば理念にも二つあって、「標準的理念」と「理性理念」がある。要するに経験的なものかそうでないかという区分なんですが、後者の「理性理念」に関しては人間の姿かたちを例にとって説明されています。「理性理念」が示す人間性の目的というやつを具現化したのが人間の形態であるという感じで、いささか逆説的に求められるものです(神の模倣としての人間というキリスト教の視座をここで思い出したりします)。さらに言うならこの「理性理念」とは何よりも「道徳」のことであるようで、それは「正しいか正しくないか」なので感覚的な刺戟を引き起こすことがないが、大きな関心を引き起こしてしまう、だから純粋な美しさではないとされます。一方「標準的理念」は、つまるところ「平均」であるという話になります。ここでカントが出してくる実例は、「美しい男子の標準的理念」という話で、ちょっとBLくさくなります。言葉遣いが面白い。
平均的男子に対して平均的な頭部を求め、更にまたこの頭部に対して平均的な鼻その他を求め (上、126頁)
「平均的男子」とは。
ただこの人間の平均値というのは純粋に経験的なものかというとそうではなく、今までに何百人と見てきた男子をざっとアーカイブしてみて、直感的に、そこからのズレを認識するという性質のものであるようです。で、この「標準的理念」に従って私たちが美しさを感じようとも、それは単に「正確」であるからにすぎない、だから純粋な美しさとは言えない、というのがカントの言いたいことです。
結局この3)目的の節では、美しさ、美しいと感じる判断は、「自由な遊び」によって「ハーモニー」を感じ取ろうとする点で、主観的に・形式的に目的と言えそうな何かを持っている。ただこれは目的を達成しているから美しいということではない。ということが言われます。

「わかるわ〜」

一番長いところを抜けました。それでは4)適意の様態について。美しさはどのように感じられるのか? それは必然的なものなのかどうか? というところです。カントの答えは、「美しさは必然的なものである」です。しかし留保つきです。
「美しさ」の必然さは、「正しさ」の必然さに比べたら弱いもので(「正しい」ことに有無などないはず(少なくともカントによれば)で、「美しさ」はぼくの感じかたと君の感じかたに違いは当然ある)、条件付きの必然さに過ぎない。我々が「美しい」と感じるには、それが普遍的に皆から賛同してもらえるということを期待している必要がありました。
「美しさ」は概念のものじゃない、感情=エモーションのものだ、という議論がありました(本記事、「ニュージーランド人」のあたり参照)。たかが感情の生み出した感覚について、どうして私たちは自信を持って他の人にも賛同を要求するようなことができるのでしょうか? カントによるとその根拠、条件は、想定されるべき「共通感」なる感覚です。つまり、「あ、わかるわ〜〜」という共感です。だから西野カナに対して「わかるわ〜〜」というのは、とても正しくて、それは美しさへの第一歩なのだ。
我々がこれらの判断者の判断をすべてこの原理(主観的=普遍的原理)のもとに正しく包摂しているという確信をもつ限り、客観的原理と同じく普遍的同意を要求して差支えないわけである。 (上、136頁)
美しさは感情のもので、その拠って立つところは「共通感」という感覚です。 私から見て、この「あ、美しいな」という判断が「共通感」に照らし合わせてみて他の全員に一致することが期待出来るならば、それは「美しい」と呼んでいいことになります。つまり可能性の問題になります。
この結論はどうなんでしょうか、我々はどこか、哲学者らしくない、というか、全部エモーションの問題になっちゃうんだ??!! というところが腑に落ちない(けれども確かにそう言うしかないような気もする)のですが、カントも自分でこの辺で諦めています。
我々はこれらの問題を、ここではまだ究明する積りはないし、また究明できるものでもない。 (上、136頁)
 逆に潔くていいと思います。これから究明されるんでしょうか?

フリーダム=スープリームでパーフェクト

以上で第一部第一篇第一章というところが終わりました。ところが実は「総注」という節がまだ残っていて、これが結構面白い。いきなり文章がロマンティックになります。ちょっと大事なことを抜き書きします。
・あるものを認識する(というかその前段で直感する=パッと見る)際、構想力に与えられるのは、その「あるもの」の形式に過ぎないけれど、多様なものがわーっと集まっているような形式で与えられる。それを受け取ると構想力は自由に、そして産出的(productive)に(再生的(re-productive)にではなく)はたらいて、調和を図ろうとする。
・美しいかどうかの判断は、「目的を持たない合目的性」に従ってはたらくようだ。
・だから有用だとか目的だとか言ったことは純粋な美しさの判断には余計なものだ。美しいかどうかの判断は、純粋な「観照」(ぱっと見)と結びつく。
・美しいかどうかの判断においては、悟性が構想力に仕えている。
・規則正しさも確かに美しい、だが理が勝ちすぎていて、自由じゃないし、目的を持つっぽい。下手をすると強制を意味してしまう。本来趣味に反してるんじゃない?? だから
規則の課する一切の強制から離脱した場合にこそ、趣味は構想力の自由な構想に関して、最高の完全さを発揮し得るのである。 (上、141頁)
・ 次の文章が非常に「美しい」(この場合の「美しい」はカントの用法を踏まえていますか?????)のでそのまま引用します。
心意識は、眼に触れるところの多様なものによって絶えず喚びさまされつつ創造の所産をもてあそんでみずから楽しむのである、例えば壁付暖炉のなかでちらちら燃える炎の形や、せせらぐ小川の流れてやまぬ水の姿を眺める場合が即ちこれである。炎にせよ小川にせよ、これらの形態そのものはいずれも美であるというわけではないが、しかし自由な遊びを営んでいるので、構想力にとってはやはり一種の魅力になるのである。 (上、143頁)
 こんなふうにこの章は終わりを迎えます。常に新しい感覚をもたらしてくれるもの、不定なもの、揺れ動くもの、遊ぶもの、自由なもの。そうしたものが純粋に趣味に適った「美しさ」を感じさせてくれるのだ、とカントは言います。
こんなガチガチでストイックな論を運んでいきながら、最後に至るや何かポストモダンの気配まで漂わせてしまっています(というより、ポストモダンこそカントへの立ち戻りだったのでしょうか? 知りませんが)。カント、ただものではないな、とやはり思います。
それはそうと、もはや我々は「美しい」という言葉をうっかりと使えなくなってしまった。口に出すたびにイマヌエルが頭の中で「え、お前の『美しい』、その程度??(笑) それは純粋に『美しい』のかな??(笑)」とか言ってくる。うるせえ!

さて、次回、読めるのか?(疲れた・・・) 第二章の「崇高」のところに入っていきたいのですが・・・
大晦日になってしまいました、良いお年を!

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(2)前半

『判断力批判』を読む会、2回目です。
前回が9月だったので、もうこんなに経ってしまったのか・・・という感じでもう年末ですね。この間、我々は特に何をするでもなく(嘘です、ぼくは悠々自適のニート生活を送りつつ、Nは卒論執筆で死にそうな思いをしながら)過ごしていました。この事実からも、我々が決していわゆる「良い読者」でないのは自ずと知れてしまうことでしょう。
それでも時々は思い出したようにカントに立ち戻って、何とかノルマと決めていたところまで読み進めました。

ということで二回目の今回はいよいよ本篇に入り、上巻の69頁から143頁まで、第一部第一篇第一章というところを読みます。

* * *

〜12/23
『判断力批判』第一部第一篇第一章(上巻69頁〜143頁)

まず目次を読む

とりあえず目次を読んで構成を理解することにします。なぜかというと我々は飽きっぽいので、何回でも目次に立ち戻って「まだ終わらんのか・・・」というようなつぶやきを漏らしながらでなければ読み進めることができないからです。
今回読む第一部第一篇第一章は、正確には以下のタイトルを持っています。
第一部「美学的判断力の批判」
 第一篇「美学的判断力の分析論」
  第一章「美の分析論」
「部」に関しては、下巻の方を見ると「美学的判断力」(第一部)に対して「目的論的判断力」の批判(第二部)となっています。また「篇」に関しては「美学的判断力の分析論」(第一篇)に対して「美的判断力の弁証論」(第二篇)となっている。そしてその中で第一章「美の分析論」と第二章「崇高の分析論」という構成になっています。
今回の範囲を読んでみると、美しさは目的を持つのか? 目的に適っていることが美しいということなのか? という議論がありますから、そこに関連した部の構成なのでしょう。そしておそらく「篇」については対象が同じですから、分析の手法についての話なのだと思います。美しさを分析的に検討していくか、それとも弁証法のメカニズムの中に当てはめて検討していくかという話なのではないのでしょうか。今回第一部第一篇第一章では、美を判断する能力について(部)、分析的に考えていく中で(篇)、「美しさ」と呼ばれるものを分析していこうという話に、おそらくなるのでしょう。
お気づきでしょうか、ここに至るまで我々は「おそらく」「なのでしょう」「だと思います」などの語彙を駆使して、あくまで想像で話を進めているのです。なんて恐ろしい。
これから読み進めていって実態とかけ離れていることが明らかになるかもしれませんが、それも含めて今後が楽しみです(何を言ってるんだ)。

「美」以外のものは何も要らない

中身に入ります。章題から明らかであるように、今回読む箇所ではカントさんと一緒に「美」を分析していきます。ある意味当然で、「美しいか美しくないかを判断する能力」について何事かを知ろうとするならばまずは「美しいとは何か(あるいは何でないのか)? 美しくないとは何か(あるいは何でないのか)?」ということを知らねばなりません。珍しく用意周到にも我々はいま「(あるいは何でないのか)」という言葉を付け足しました。そうです、カントの取る手法はかなり根本に立ち返るもので、この章ではとことん「美とは何でないのか」という問いの下で美が突き詰められて考えられていきます。
前回読んだところでも薄々感じられたかと思いますが、カントは非常に堅実で地道な手つきによって根本のところに立ち返ろうとします。「美とは何か」というある意味で非常にプリミティヴな問いを検討するにあたって、カントは我々が「美だと思っているところのもの」、その漠然とした総体から純粋な「美」そのものを取り出そうとするのです。それはキリスト教神学で言うところの「否定神学」的な手つきと同じで、つまり神というのは言葉でたどり着けないものだから、神でないものを全て取り除いて窮極のところまで神にできるだけ近づいていこうという手つき、それと全く同じことです。「処女厨」的な手つき、といえば通りが良いでしょうか。

4つの条件

この章の中では「美であること」「美であると判断すること」について、4つの様式に分けて分析がなされています。より正確に言うならば、「何が美でないか」「何が美でないと判断できるのか」を決める4つの条件(要素)です。4つの着目点は以下の通りです(だいたい)。

1)性質:美的判断には何が関係「ない」のか?
2)分量:美は誰にとって快いのか?
3)目的:美しいものは何か目的に適っているから美しいのだろうか?
4)適意の様態:美しさはどのように感じられるか?

この章は最初に命題が建てられ、各節の最後に「この様式から論定される美の説明」という親切なまとめがつけられているので、迷子になることはありません。安心して読み進められるところです。

おれには関係のない話だ(?)

まず1)性質についての節では、一言で言って「美は関心とは関係ない」ということが言われます。「関心」というと?という感じですが、英語にするとinterest(ドイツ語だとdas Interesse)で関心・興味、興味をそそるもの、重要性、利害(関係)、利益、需要、利子などという訳が出てきます。どうやら単純に「おもしろ〜い」という意味だけではなく、自分にとって何らかの利益をもたらす→ゆえに興味/関心を持てる・利害関係があるという意味層が含まれています。カントはこんな風に言います。
いやしくも美に関する判断にいささかでも関心が交じるならば、その美学的判断は甚しく不公平になり、決して純粋な趣味判断とは言えない(上、73頁)
(実はこの後に「誰だってこれは賛成だろう?」という一言が付け加えられているので、いやいやほんとかよ笑って感じですが)ここで大事なのは、カントはとにかく「純粋な」趣味判断(何が美しくて何が美しくないのかを判断すること)を求めているということです。 「気持ちよさ(快)」とか「正しさ(善)」には「関心」がある、とカントは言います。カント自身が頑張ってひねり出した感のある例に、「もし無人島に住んだら」という話(73頁)があります。「もし無人島で一生暮らさなきゃいけないとして、美しい建物を現出させるような魔力が自分に備わっていたとしても、雨を避けられるような仮住まいの小屋があるならば美しい建築など別に不必要だ」という話です。美しいということは、自分に役に立つとか利益になるとかそういったレベルの話ではないとカントは言っています。
美しさの感覚、趣味判断について特別な点が2つ挙げられています(81頁〜)。まずは、感覚の方法。快適だとか正しいとかいった感覚は、自分が認識し自分の内側で把握した上で理性が下す判断の結果です。それに反して美しさという感覚は、自分が内側で把握する前、ぱっと見で判断されるような感覚なのだと言われます。そして、自由かどうか。「心地よさ」には抗えませんし、「正しさ」という感覚も、カントによれば「命令」として感得されるので抗えないものですが、ただ「美しさ」だけは、何の命令にも従うことのない自由な感覚だと言います。
最後に一つ、カントの面白い着眼点。それは「美しさ」の感覚だけは、人間のみが有する感覚だということです。カントによれば人間は「理性的存在」なおかつ「動物的存在」なのです。動物的存在の方はよくわかりますが、純粋な「理性的存在」とは何でしょうか。こう書いてあります。
純然たる理性的存在者(例えば精霊)  (上、82頁)
なるほど。

みんなの美しさ

 2)分量のところに移ります。ここの議論も一言にすれば、「美しいものは、みんなにとって普遍的に美しい(はずだ)」ということになります。
「普遍的」という言葉が曲者なのですが、ここでカントはあくまで「普遍的」という言葉を使っており、「一般的」ではないのです。どういうことか。これはuniversalとgeneralとの違いなのだと言います。カントによれば、後者は経験的なものに対して使われますが、前者はそうでない。「美しいかどうかの判断」は、一人ひとりに委ねられたものなのではなく(「ぼくは美しいと思う」という判断が統計的に多く寄せられるから「美しい」のではなく)「普遍」に、全員が「美しいね!」と言うことが想定されるといった性質のものなのです。
「想定される」と言いました。ある意味当然のことで、上に述べたように「美しいかどうかの判断」が普遍になされるものだとするならば、統計的な手法に依らない以上、「期待する」しかないのです。(カントは「主観的普遍妥当的」判断という言葉を使っています。「わたし的には」「普遍に当てはまる」と思われる判断ということです。)
趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる普遍的賛成にほかならない、(略)他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない。 (上、93頁)
美しさは、わたしからしてみれば、他のすべての人が残らず「美しいな〜!」と驚嘆することが期待されるような性質を持ったものなのです。
この節で面白かったポイントはもう一つ。後半の第九項で「自由な遊び」というタームが出てきます。これが今後「美しいかどうかを判断する能力」の議論にとって重要だと思われます。この項において「美しさ」とは何かというと
両つの心的能力(構想力と悟性)が互に調和し合っていきいきとはたらく軽快な遊びにおいて生じる結果の感覚 (上、99頁)
というふうに定義されています。 で、私たちが美のどんなところを普遍的にみんなに当てはまるとおもっているかというと、それがまさにこの認識能力の自由な遊びだ、とカントは言うんですね。この自由な遊びによって「調和」、「均整的調和」、つまりバランスのとれたハーモニーを求める心はみんなに共通しておろうが、というのがカントの主張であり、だからあるものが「美しい」と言っていいのだということになっています。「遊び」という言葉とともに、カントの非常にストイックな文章に突如浮遊感が出てきます。そこが面白かった。

長くなったので、条件3)と4)に関しては記事を改めます!

29 12月 2015

イヴァン・ジダーノフの詩

ロシアの現代詩人イヴァン・ジダーノフの詩を訳しました。
(初掲載:2014年3月9日、最終更新:2015年12月30日)

(あなたとぼくの隔たりは)

あなたとぼくの隔たり 隔たりこそがあなたである
ぼくの前にあなたが立つとき どうしよう こうしようなど 考えながら
あなたの緘黙のかけらから あなたがぼくを組み立てるよう
あなたが見るのはかけらだけ 自分の全ては見やしない

鏡が あまりに多くを欲し 弾けてかけらになるように
(この欲が 自分を各方面の間諜(スパイ)にするのだ)
憂愁をまとう不幸な樹が その葉に生を終えてゆく
その量の多さでもって みなに風向きを予言するために

唄うために 弁解するために 黙りこみ みなに耳を傾けるため
飛行機が空中回転するように 静寂の平面で泳ぐために—
だが不幸なくるみは 森で彷徨う 
戦争が近づき 不眠に幽閉されているかのように

どこにあるんだ 掘っ立て小屋の天国は どんな盗人に荒らされているんだ
ぼくはあなたのために盲目だ あなたの手で目を潰されたのではあるが
ターバンのごとく 中身のない水が 悲しみに巻きついているが
内側は空っぽ 風のない日に帆など立たぬと同じこと

あなたの一部分として ぼくはあなたを嫉み 捜すのだ
あなたの中に日曜日を。 そして無事では済むまいと思う
ほら ぼくには見える 嫉みのように あなたが投石機を構えているのが
機関車の頭垢を 可哀想な木の葉から 払い落として

あなたに向けたぼくの仕草を あなたは繰り返しているようだ
死を知らない飛行のなかで 幻の鳥はその翼で
大きな心臓を捕まえる そして己の運命に抗わず
空に溶けこむ のではなくて 空に なる のだ

そうだ ぼくはあなたと隔りでもって繋がっている これは掟だ
真実とかあなたの気ままさを許すように 嫉妬心を許す掟だ
ぼくは死を知らない 屈服している間は だが屈服などするものか
なぜなら愛している 愛している 愛しているから

(こんな夜は)

こんな夜は 選ばれはしない
親のない神が 夜に歩み出て
川はその岸に身を寄せる
世界に 光は 残されず
空は せいぜい足元をひたす
雨のシルエットくらいの 大きさしかない

そしてこの じめじめした街角は
そして腐りかけの葉のざわめきは
昏さの中でなく ぼくらの内に息づいている
ぼくらは覚えているだけで 見えるわけじゃない
ぼくらは聖人も嘲りはしまい
ぼくらを捕らえるのは ここでは影だけだろうから

ぼくらの内には ただ過去だけが遺っている
あなたはぼくに 接吻をしてはくれなかったね
恐ろしいあなた— あなたは軽やかでもあって。
あなたのことばは あなたを愛している
昏さの中でなく ぼくの中に ぼんやりと浮かぶのは
あなたの顔、あなたの腕

ぼくらは少しずつ 死んでいく
ぼくらは あの路に出たのではなかった
世界から受け取るのをぼくらが待っていたのは あんな報せではなかった
この夜を抜けて 衝動的な欷泣(ききゅう)の中で
ぼくらは、 もはや何ものも知ることなく
おのれの骨の松明の方へ行こう

対蹠点

とどまれ 痛みよ 針のなかに!
とどまれ 風よ 怯えた馬の
たてがみのなかに!
とどまれ 世界よ 外のままに
良くなろうが悪くなろうが
ぼくのなかには入ってくるな!
針のなかへ去らせてほしい
だがいったいどういう意味だ?
針のなかに閉じ込められることなどないというのに。
たてがみのなかの風になるのだ
そしてそこ 下階の光差す部屋のような
針の内部で
消えてしまった光へと入って行くのだ
無のほうへ我が身を下ろしていこう。
誰か知らは
突き刺されるに値しよう、とつぜん
光があらたに降り注ぎ
世界はぼくのなかで目を覚ます
そして微かに音がふるえる。
どこやらで馬たちが立ち上がる
うめき声に陥ってしまった
災難の追っ手を逃れて
草原の足跡をも見失い。
そんなふうに迷わせる草原などない。
傷に隠された馬の足踏みは
蹄によって暴かれた。
運命を背負った馬の群れは寄り合って
たてがみのなかに靄を運んでいる
その途上
積み藁が暗やみを通して見つめてくる
天の十二宮のごとく。
おまえ、それを読み解いてくれ。
でも、捕われる予感を前に
ひざまずいても
干し草の山のなかで針を
ぼくには見つけることができない。


洗礼

こころが無になり 空は殺す
ほら星々のあいだをもう手が鷲摑みにしている。
どうしたら振りはらうことが出来るだろう!ぼくのことなど誰も知らない。
まるでぼくなど存在しないかのようだ。誰もぼくを待っていない。

時計は急ぎ チクタク言っては落ちてゆく。
家をひっくり返しても 底を探り当てることはかなわない。
まるでぼくなど存在しないかのようだ。ぼくの聴力は音を追いかけて行くのだが
音は夜のなかへ消え去る 時から眠りを奪いながら。

狩りで狼をそうするように 時は眠りを引き裂いたってよかった
そうすればこころを血まみれの指が指し示したことだろう。
だが音は無のほうに落ちてしまった こんなふうになだらかな音色で
音は影に なにも無いところに空いた穴に しがみつくのだ。

落ちた木の葉が宙返りし 皮膚の下に入り込む。
永遠に掴んで離さないような そんな闇にとり囲まれている。
自分を探り当ててしまうよ。ぼくは聞き耳をたて夜を掻き乱す
いや 夜は静まり返り 夜はコインを信じない

そしてぼくが生まれる前 ぼくの悲鳴の前の
どこか地上で おとなしく落ちてゆく葉が
ぼくの呼吸をつきとめる それはもうぼくの救済なのだ。
ぼくはこの世にいない。落ちる葉は知っている 「悲鳴があがるぞ」。

水はゆらゆらこぼれない なかば寝入った魚たちの会話に
聴き耳をたてながらであるかのように
ぼくを通り抜け 口をきけぬようになった憤激となって 流れゆく
口も耳もない血を その指で 脅すのだ。

ぼくの中を川が流れている 口も耳もない血のような川。
儀式が行われている そこでは落ちゆく葉が洗礼を受ける
葉の音だけが飛んでくる 自分ではまだ気づいていないのだ
その音は葉を焼きつくし元には戻らぬということに。


<詩人について>
イヴァン・フョードロヴィチ・ジダーノフ(Жданов, Иван Федорович、1948-)

西シベリア、アルタイ地方出身の詩人。モスクワ大学ジャーナリズム学部で学ぶも、退校処分、アルタイ地方の中心地バルナウルで教育大学を終える。1975年頃からサミズダード(地下出版)を通じて、モスクワの非公式文学シーンで活躍。ジダーノフやパルシコフ、エリョメンコらからなる詩人サークル「ポエジヤ」を結成。処女詩集は『ポートレート』(1982)。ベールイ賞(1988)や両タルコフスキー文学・映画賞(2009)など受賞多数。現在はアルタイ、モスクワ、クリミアなどを転々と移り住んでいる。写真家としても有名。

23 12月 2015

タルコフスキー・リスト

映画監督А. タルコフスキーが、自身の授業で学生に配布したと言われる必見映画のリスト、「タルコフスキー推薦映画リスト」を訳しました。
いまいち出どころがわからず、資料としての価値には?がつきますが、参考までに。ロシア語原文はこちらです→Список Тарковского на сайте Кино не для всех
日本でDVD未発売の場合は、英語(ないし原語)タイトルをつけました。

ルイス・ブニュエル
『アンダルシアの犬』『黄金時代』『忘れられた人々』『ビリディアナ』『皆殺しの天使』『昼顔』『糧なき土地』『小間使の日記』『ナサリン』

ロベール・ブレッソン
『田舎司祭の日記』『抵抗(レジスタンス)』『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』『バルタザールどこへ行く』『少女ムシェット』『やさしい女』『たぶん悪魔が』

イングマール・ベルイマン
『不良少女モニカ』『道化師の夜(Sawdust and Tinsel)』『第七の封印』『野いちご』『処女の泉』『悪魔の眼』『鏡の中の女(Face to Face)』『冬の光』『沈黙』『仮面/ペルソナ』『恥』『情熱(沈黙の島)(The passion of Anna)』『叫びとささやき』『狼の時刻』『ある結婚の風景』『蛇の卵』

ピエル・パオロ・パゾリーニ
『アッカトーネ』『奇跡の丘』

フェデリコ・フェリーニ
『道』『魂のジュリエッタ』『8 1/2』『サテリコン』『フェリーニの道化師』『フェリーニのアマルコルド』『カサノバ』

アラン・レネ
『二十四時間の情事』『ジュ・テーム、ジュ・テーム(Je t'aime, je t'aime)』

溝口健二
『雨月物語』『山椒大夫』

黒澤明
『羅生門』『七人の侍』『生きる』

勅使河原宏
『砂の女』

アルフレッド・ヒッチコック
『鳥』『サイコ』

ジャン・ルノワール
『ゲームの規則』『大いなる幻想』

ジャン=リュック・ゴダール
『小さな兵隊』『勝手にしやがれ』

カール・Th・ドライヤー
『裁かるゝジャンヌ』『吸血鬼』

ミケランジェロ・アントニオーニ
『情事』『夜』『太陽はひとりぼっち』『中国(Chung Kuo, Cina)』 

アレクサンドル・ドヴジェンコ
『大地』

フリードリヒ・エルムレル
『Peasants(Крестьяне)』

セルゲイ・パラジャーノフ
『ざくろの色』

オタール・イオセリアーニ
『田園詩』

ジャック・ベッケル
『穴』

ジャン・ヴィゴ
『新学期・操行ゼロ』『アタラント号』

ヨリス・イヴェンス
『Rain(Regen)』

ミハイル・カラトーゾフ
『スワネチアの塩(Salt for Svanetia; Соль Сванетии)』

ジャン・コクトー
『詩人の血』『オルフェ』『オルフェの遺言』

ジョン・グリアソン
『Drifters』『Grenton Trawler』

ロバート・フラハティ
『極北の怪異(極北のナヌーク)』

※こういうの(ロシア語の映画タイトルを邦題に置き換えるとか)、wikipediaってすごく便利ですね・・・

02 12月 2015

文字25(現代語の現代語訳シリーズ)

会いたさ、会いたさこそが、わたしを震わせるのでした
あなたを遠く感じるのは、わたしがあなたを想うからでしょうか
もう一度わたしとあなたであるわたしでいたいのですが
わたしの気持ちはいつも不着のままなのです
こころ、きもち、わたしの
(小池昌代訳「会いたくて 会いたくて」)



恋をしてしまったのです
あなたはたぶん気づいてはいないのでしょうけれど
星の夜にわたしは願います
櫻桃です ―
わたしの指があなたに送る便りは
(小池昌代訳「CHE.R.RY」)