06 9月 2015

『気持ちいいとか気持ち悪いとか美しさとかそういった感覚をぼくらの頭が一体どうやって判断しているのかについて一生懸命考える本(判断力批判)』(1)

私事ですが、うまくいけば9月に大学を卒業し、来年4月の就業までニートとして研鑽を積むことになっています。
そこで卒業前に何か一冊、自分だけでは読めない本を読もうじゃないか、と最愛の友人N(イタリア語専攻)に話を持ちかけ、何を読むかとなったときに、我々の頭に浮かんできたのが当然(でもないか)イマヌエル・カントとその著作だったというわけです。彼についてほとんど何も知らない我々にも当然彼の著作の名前は刷り込まれていました。ご存知の通りそれが『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の3著作です。我々は哲学プロパーではありません。二人とも文学専攻(私はロシア現代詩、Nはイタリア現代文学)です。そうしたことを考慮すると、やはり我々が話題として身近に感じる、ひいては理解しやすいのは何より『判断力批判』であろうという結論に至りました。それは9月2日の夜、紀伊国屋書店新宿本店での出来事でした(ちなみに書店に行く前に飽きるまで焼肉を食い、新宿に行き、そこから渋谷まで歩いて渋谷wwwでのトーキング・ヘッズ『ストップ・メイキング・センス』の爆音上映会に参加しました、そしてそれは最高だったのです・・・というのは全く関係のない話ですが)。

ということで、我々は範囲を決めて、大体一週間間隔で読み合わせを行う(そして焼肉を食う)という、いわゆる読書会を始めることにしました。以上に述べた事情から、課題図書はイマヌエル・カント『判断力批判』(上下巻、篠田英雄訳、岩波文庫、1964;2013)ということに決めました。

ただし、ただの読書会というのはつまらない、二人揃って唯一絶対たるカノンとしての1を生み出す作業など(時にはそれも有用でしょうが)、やはりありきたりであり、つまらない。何より悪い生徒である我々自身が飽きてしまう。ということで、Nには無断でこのブログ上で進捗状況をアップしていくことにしようかと思います。この場では工藤が記事を書くにもかかわらず、人称に「我々」を使おうかと思っています。哲学科の生徒にはできない不真面目さと独断で『判断力批判』を読む、そして頭の中を報告に付すことで、議論を不特定多数の海とも山ともつかぬ場所へ放り出してみる、それが我々の目指すところです。

第一回目の今回は上巻の67頁まで、序言と序論を読みます。

* * *
9/3-6(読み合わせ会は9/8)
『判断力批判』序言と序論(〜67頁)

カントさんの親切さ


我々が読書を始めて最初に感じたのが、まずカントの予想外の親切さでした。カントについてはほとんど何も知らずに我々は読書を始めました(Nは三批判書を全て購入していましたが読んではおらず、私に至っては一度は買った『純粋』を、何を思ったかブックオフに売り飛ばしさえしたのです)。何も知らない状態の私たちの、カントに対するイメージといえば、「難解」「悪文」「読みにくい」「わかりにくい」「わかってもらおうと思ってない」「不親切」「自己満足」「うざい」「くそ真面目」「面倒」などの半分私怨の混じった罵詈雑言の羅列、これでした。もちろんこのうち岩波書店の造本に帰す悪口もカント自身に帰すものも、我々自身に帰すものももちろんあるのですが、それについては考慮せず、カントを罵倒していた我々であるわけです。あったわけです。
あった、というのはそのイメージが、実際に読んでみると変わりつつあるのをどうにも否定できず感じたからです。さすがに大学教授のカント、というわけで、上巻のだいたい20%を、本篇以前の「序言」と「序論」に費やしてくれているのです。そこで我々を驚かせたのは、カントが議論を「哲学の分類について(序論の第1節)」というような根本のところから始めてくれているということです。これは我々を喜ばせました。なぜなら『判断力』は『純粋』と『実践』に次ぐ著作であって、この二作を踏まえなければ理解できないことがあるらしい、というのは風の噂で理解しているところだったからです。
たしかに最初は、
我々は(…)純粋理性一般の可能と限界とに関する研究を純粋理性批判と名ずけてよい。(序言、13頁)
という一文からスタートするわけで、「はぁ? 純粋理性? よい? 誰が許可した?」みたいなキレ方をせざるを得なかったわけですが、そういう愚かで前著を踏まえない短絡的な読者のことを思って、カントは序論を「哲学の分類について」というところから始め、議論をほぼゼロベースから立ち上げようとしているのです(たぶん)。議論の立て方は非常に理にかなっていて、一歩一歩地をならしながら山を登っていく、そういった感があります。もちろんカントが目の前からふっと姿を消して100m先の岩の上に現れたりすることもあるのですが、その都度カントは「あ、ごめんごめん」とか言って戻ってきてくれる(実際の事を言うなら、我々自身が読み返したり精読したりする)ので、だいたいのことはしっかりわかるようにできている。考えてるな〜っ! カント〜っ! という感じです。なので今のところの感じでは、全く、さっぱり、なんの手がかりも掴めない、ということはなく、ほっとしています。これならいける気がする。
序言では、悟性・理性・判断力という今後の議論の中心となる人間に備わる3つの力が紹介されたあと、今後の議論に関わる問題(疑問)(15頁)とか、「謎」(18頁)が掲出されます。ちなみに悟性とは、わたしがあるもの(A)をパッとみた瞬間に「これはAだ」とひらめくように直感する能力、理性とはAを欲しがっていいのか悪いのか判断する能力、判断力はその間にあってAが我々にとって心地よいか心地よくないか判断する能力、ということになるでしょうか(どうなんでしょうかそこのところ)。こうした無理矢理な要約に対して、カント主義者はぜひ激怒していただきたい。
ここで疑問としてあげられているのは例えば次のようなことであるわけです。そうした判断力って、他に拠らない独自の原理がもともと備わっているんだろうか? とか心地いいとか悪いとか、そういう感情に生まれながらにして備わっているような規則ってあるんだろうか? とか(15頁)。
そうした疑問に自問自答するかのように、以降序論ではカントが地道に論を立てながら、答えようとします。

チャート式カント


序論を読み始めると、我々が実際にカントを読み始める前、カントについて持っていた偏見の一部は間違っていなかったことがわかってきました。それはつまり「くそ真面目」であるという一点です。たしかにカントは「くそ真面目」以外の何ものでもないようです。とにかく、例外が出ないように丁寧に吟味しながら「二通りしかない」(21頁)とか「ほかならない」とか「何びとにも例外なく妥当することを要求する」(56頁)とかかなり強いことばでもって断定していきます。これに対して「ほんとにそうなんですかね」と我々は当然疑問を持たざるを得ないわけなのですが、そのへんはカントの存命中からすでに指摘があったみたいで、66頁に「いつも三分法に帰着するのを怪む人がある。」という注意書きがあります。
なんにせよカントの魅力の一部は、このように世界(自然)をすぱすぱ切り分けていくところにあるのでしょうし、それは西洋近代の始まりとして流れに身を任せてゆくべきところなのでしょう。疑問は疑問として、読み進めていくことにしたいと思います。
それにつけても序論というのは分析、分析、また分析からなるわけで、カントのこういった箇所は絶対にフローチャートにしたほうが受けがいいと思います。なにしろ首尾一貫して基本の基本にあるのは先ほど申し上げた悟性・理性・判断力の三分法なわけで、その原理・相互の関係・目指すものなどが付け加わっていく形式です。悟性は理論哲学で自然概念でアプリオリな原理で自然の合目的性で、理性は実践哲学で自由概念で形而上学的原理で実践的合目的性で、判断力はその間にあって悟性から理性への移り変わりの働きをする能力で規定的と反省的があって・・・といった感じでもう、表にすれば恐ろしいほど分かりやすいような分枝をしているのです。カントが67頁におまけしたあの表が、序論のほぼ全てです。だから当初の「わかりにく」そうだ、という印象はおそらく間違っていて、たぶんカントは物事をすごくシンプルにしたかったのです。ですが叙述スタイルは例のごとくのため、読むに難しい。執拗に綿密に、カントは論を積み上げます。「というのも」「だから」などということばでもってあらゆる考え方の裏付けを怠りません。だから煩雑になってしまうのはある程度仕方のないことなのです。
カントは典型的な書きたいことと書ける文体に差がある作家なのではなかったかな、と思っています。個々人にそうした比重の違いはあるので、しかたない、というか、カントはこのようにしか書けなかったのだし、カントだからこそこのような文体になったのだ、それに良いも悪いもなく、世に出た以上読者の問題になります。
だが一つ言わせてもらうと、カントはエクセルを使え! 以上です。

限界の設定


そうしたなかにあって一番スリリングで興味深く読んだ箇所は、序論の2節とか4節のところです。哲学的な言説が立ち入れる領域、あるいは我々の認識の限界を(地域とかアドレスとか土地といったどこか政治を思わせるタームでもって)規定していきます。
それだから我々の全認識能力にとっては、無辺際にしてしかもまた近傍し難いような土地が存在するということになる、即ちそれは超感性的なものという土地である。(序論第2節、29頁)
このようにカントが言うとき、この「超感性的なもの」というのはつまりカント発明になる「物自体」という考え方のことなのです。物自体とは、平たく言えば私たちが見ているもの「A'」がある、ただしこの「A'」は我々が認識する限りでの「A'」であって(認識しなければ何も始まらないから当然ですね)、我々の認識が及ばない時点でこの「A'」の基であるような「A」が存在するはずだ(と仮定してみよう)、とするときの「A」です。それはもちろん定義上認識し得ないはずなのです(というのは、認識した時点でそれは「A'」であって"物自体"としての「A」自体ではないはずですから)。こんなふうに我々には認識できないものがあるというふうに言われます。それにもかかわらずその認識できないものが、我々の認識の及ぶ世界に影響を必ず及ぼしているということ。もちろん何かを規定することは規定できないことを除外することでもあって、必要な作業ではあるのですが、認識の中に無意識的に、自然に、認識できないものが入り込んでいるという。
この著作では「調和」ということが目指されており、45頁に言われるように
無限に多様な経験的法則を含む自然によって与えられた知覚を、完全な連関を保つ一個の経験に仕立てる(序論第5節、45頁)
こういうある種無謀な企てが、最終的に「判断力」がもたらす(べき)地点です。なにしろ無限を一個にするというのですから、無謀と言わず何と言いましょう。カントの誠実なところは、自然とは「無限に多様」であることを認めているというところです。自然は単純だし、たやすく制御できるのだ、とは口が裂けても言わないでしょう。ここは信頼に足りると思います。ですからこの序論の中では判断力に関して「特殊」だとか「反省的」というふうに言われます。つまり、あまりに多様な自然については、特殊、つまり一つ一つの事例に即して考察せねばならないし、その能力は反省的、つまり認知された個々の事例について一つ一つ後づけで判断を下すようなものである。カントはこのように言っている、と我々は判断しました。
しかし目指すところは当然「一個の経験」として自然を把握するところにあるのですから、無謀さに変わりはありません。すでに序論から認識から逃れようとする無限たる自然と、無限を一として全てを掌握したい人間が火花を散らしているのです。
カントは哲学者というよりはむしろ"批判"者です。序論2〜3節でカント自身がいうように、彼の著作は哲学することではなく、批判することをこそ旨とするのだ。批判とはなにか。
批判の旨とするところは、これらの能力(引用者註:悟性・理性・判断力の三つの認識能力)をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである。(序論第3節、30頁)
カントの「批判」がスリリングなのは、こうして人間の基本的な能力を仮定して、それによって我々がどこまで自然を知ることができるのか? 知覚は、認識は、いったいどこまで可能なのか? 人間の能力はどこまで及ぶのか? といった問いに代表されるように、超感性的なものと感性的なものの境目を探り当てていく行為だからです。それは人間のマクシマムを規定する作業であると同時に、人間の限界をも言い得てしまう性質の、危険な、カントの一人間としてあり様をかけた問いなのです。
哲学はその範疇で考えられるものについて考えるしかない。カントの試みは、哲学を開始するにあたって哲学が可能である領域を定義する、いわば哲学の家を建てる、そういった試みであったはずです。

次回以降いよいよ本篇に入ります。


(最終更新日:2015年9月9日)

01 9月 2015

ヴィクトル・ソスノーラの詩

私が沈みゆくとき、夢に出てくるのは、ローマの鐘なのです、
耳から泡が立ちのぼり、ガラスの球たちを揺らめかせ、
泳ぎ歌うは音楽魚ども、
その耳鋭く、ことば喉をこじ開け、
私は口に出して言おう、ローマが沈んでゆくと、
柱廊が、競馬場が、劇場が、市場が、浴場が、
台座としての広場とそこに立つ家々が、
彫像が、別荘が、庭園が、図書館が、
馬たちが、トランペットが、雄弁家たちが、追放者名簿が、
カンピドリオの丘が沈みゆく、蛸にぐるぐるに巻かれて、
トーガが、属州が、水道橋が、テヴェレ川が、—
そしてとうとう世界が暗闇に包まれ、音は消え、水に沈み、
私はひとり沈んでゆく、そして耳の中に何やら汽笛が響いている。


*Соснора, Виктор Александрович (1936-)