29 10月 2013

10/18「ノイズとビッチ」フェスティバル(ロシアのシューゲイズ)

10/18夜(19時)〜19朝(5時)にかけて、ペテルブルグ市内のライヴハウス「клуб da: da:」(地下鉄センナヤ・プローシャチから徒歩一分)で開かれたシューゲイザーオールナイト「ノイズとビッチ(шум и шлюхи)フェスティバル No.11」なるイベントに行ってきました。そのまとめです。(写真多数)
ロシア(ペテルブルグ)におけるシューゲイズに興味があればご覧ください。


27 10月 2013

ハルムス「魔法使い」

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これは魔法使いについてのお話になる。現代に生きていて、魔法を使わない魔法使いのお話。彼は自分が魔法使いで、どんな奇跡も起こせると知っている。でもやらないんだ。部屋から退去させられることになって、ハンカチを一振りするだけで自分の部屋に残れると知っていても、魔法使いはそうしない。おとなしく部屋から出ていって街の外れの物置小屋に住むのだ。この物置小屋をレンガ建ての素敵な家に変えることだってできるのに、そうはしないで、魔法使いは物置小屋に住み続ける。で、結局死んでしまうのだ。人生でただの一度も奇跡を起こさずに。

(…)




фрагмент из повести «Чудотворец» Даниила Хармса

26 10月 2013

「雄鶏の叫びを」


雄鶏の叫びをただ夢に見るだけ
小窓の向こうでネヴァ川が霧に煙る
底なしの夜が長く、長く続く —
ペテルブルグのわけのわからなさ…
真っ暗な空に星は見えないが
死はそこらここらで、露わになる
だがのんきで、下品で、恥じらいもないのだ
仮面舞踏会のおしゃべりには



などとアフマートワも『ヒーローのいない叙事詩』で言ってますし、そういう季節

25 10月 2013

17 10月 2013

ドミートリイ・プリゴフ『警察官讃歌』より


『警察官讃歌』シリーズ(1978)より


ここの詰め所にケーサツカンがいる時は
ヴヌーコヴォまでずーっと広々、やつにはお見通しなんだ
西に東にケーサツカンは眼を光らせて
やつの後ろには何にもない
そして真ん中、ケーサツカンがいるところ
そこにはあらゆるところから注視の眼が注がれる
どこからでも見られるのさ、ケーサツカンのやつは
東からも見れる、ケーサツカンを
海からも見れる、ケーサツカンを
空からも見れる、ケーサツカンを
そして地面の下からも...
   そうやっぱり、やつは隠れることができないんだ


やつはご健在、昔からいつも変わらずぼくらの中にいる
リリエンクローンが、それからリルケが
詩で讃えたあの立派な勇者さまさ
あと他にも — まぁちょっと言ってみただけなんだけどね

ほらやつが行くよ、自分の恐ろしげな詰め所に
ケーサツカンが担当地区にいるとき
ぼくも有頂天で歌ってやるんだ
でも詩を捧げたりはしないけど



あるとき水兵さんがケーサツカンと出会ったんだけど
水兵さんにケーサツカンは言ったよ
「君、若人よ、お手本にならなければならないぞ
わたしのような、本当の成長ってやつのお手本にな

お前さんの視点では至上のものを見るには限界がある
情熱の風を吹かすことの意義を理解して
偏見というもろいものを超え高く飛びたまえ」って
「はい、そうですね」と水兵さんは答えその通りにしたのさ



作家会館のブッフェで
ビールを飲んでるケーサツカン
いつも通りのやり方で飲んでる
会館の主の「作家」たちさえ見ないで

作家たちの方はと言うとケーサツカンを見つめている
やつの周りは明るくて誰もいない
そして作家たちのいろいろな芸術は全部
やつの前では何の意味もないものなのさ

ケーサツカンはジンセイについて思いを巡らせる
「借金」のかたちでしかなかったジンセイについて
“生命は短く芸術は永い”とはよく言うが
でもけんかして勝つのは人生のほうだ



ほらあそこで「ケーサツカンなんて人殺しだったんだ」と誰かが言ってるけど
でも違う、ケーサツカンは人殺しなんかではなかった

ケーサツカンは地と天の狭間に不変に存在するものだ
だから一部のひとを、もしかして、殺したのかもしれない
すべてこの世の出来事は必然的なものだ
人殺しは、ひとを殺すために世に生を享けた
ケーサツカンは、身をもって法を体現するために。
しかしケーサツカンが服務中にひとを殺すなら
国の法を破壊しているのではない
彼は宇宙創造の神秘の法、そして
形而上学的な報いに値するのだ



取り調べには哲学がある
ぼくらのケーサツカンに聞いてみよう
「ここに容疑者がいますよね、例えばのはなし。
ケーサツカンと容疑者を緑のテーブルが別けていますが
ではこの2人を結びつけているものは何なのでしょう?」
「2人を結びつけるのは法、
彼らの上で勝利を支配する法である。
テーブルを通じて勝利が導かれるのではない
彼らは法を通じて勝利を導くのだ
そしてこの瞬間、イコンのように、
彼らはここにいるのではなく、法の中にいるのだ」



やつが詰め所にいた時分には
ここからケシの野は一掃されていた
でもケシの野がいまここにあるのは
やつが詰め所にいたからなのさ
その頃にはケーサツカン、やつ自身が
暇な日に、朝から目覚めて
その野に出て、鋤で
やつはやさしくケシの花を触れるように摘み取っていたものだ



通りのど真ん中に
ケーサツカンが立っている
泣きもせず顔もしかめず
他のみんなのお手本だ
でも誰が責任を取ってくれるのだろう
万が一ほらこの重大な瞬間に
地獄の第一アジト(*)に
やつが突入しないなら


苦難の歳月が過ぎんとするとき
力が深みから立ち上がり
秘められた野獣の歯が牙を剥くであろう
そのときいったい誰が僕らの命を守ってくれるのか?
その人こそ他の誰でもない、ケーサツカンさ
自分の損得を考えず
秩序を乱すものに対して
誠実に正当的に立ち向かうのだ


やつは生より死を選ぶ
だからいつだって守護者さまなのさ
死が目前にあっても
まだ死がおむつさえ着せられてても
あぁやつは死を何と理解していることだろう
どんなに肩に死を背負っていることだろう
いつも絶え間なく、その上
やつは両肩をびくともさせないのだ



首都モスクワにケーサツカンがいた
女の子が街を歩いて行った
やつはもちろん詰め所にいた
女の子が夜遅く出歩く時も
そしてこの瞬間だ、彼女のほうへ
走りよってきたのさ、3人の不良が一度にみんな
そして女の子を脅し始める
「よってたかってお前を裸にしてやるぞ」と
でもケーサツカンがすっかり気づいた
近づいてきてこう言った
「お前らがこういうことをすると法を犯すことになる
即刻やめたまえ!」と
女の子は素敵な眼で見上げた
やつの顔を、そして制服を
その空間では眼差しが交わされ
そして女の子は前途に日の出を見る



人びとはもう我慢できなくなった
プーシキン、プーシキンさん、助けて!
あんたのために火でも水でも入るから!
あんた、とにかく俺たちを助けてくれ!
まるで空の高みからのように土塊の中から
プーシキンの声が歌い上げる
「お遊びなさい、楽しみなさい
僕は悩んでいたのだから君らにそう命じます!」



ほらドストエフスキーがプーシキンのことを認めて
「飛びたまえ、と僕らの視界に入る小鳥は言うが
わたしは何をすべきかもうちょっと言うぞ
楽しみのためには2人で苦役をくぐり抜けなさい」と
一方プーシキンが答える「あっちにいけ、畜生め
詩人は自由で、恥ずかしいことなど何もないのだ!
あなたの煩わしい苦難など詩人にとっていったいなんだろう!
詩人の神さまは、ご自身が必要なところに使わしてくださる」



そして雨が降り、僕らはゴキブリと一緒に
湿った窓際に座っている
そして遠く、黒雲がやってくるほうを眺めると
慕わしい祖国が立ち現れる
ある非現実的なまぼろしのように
ぼくはいくらかの愛撫を込めて呟く
「もじゃもじゃのゴキブリよ、一緒に飛び立とう!
僕にはできない、ぼくにとにかくできるのは
逃げること、それだけだ!」
じゃあ逃げろ、逃げてしまえ



カトゥルスが小鳥、ヂェルジャーヴィンがウソ鳥と一緒にいるそこで
マンデリシュタームも忠実なカワラヒワと一緒にいるじゃあぼくは誰と一緒なんだ? ぼくは親愛なるケーサツカンと一緒にいる
ぼくらは到着して、ぐるっと巡検するのだ
ぼくは軽い影で、やつも...影のなかの影で巡検する
「これはいったいなんだ?」とどんなことにも自分のやり方で訊ねる
あそこに—全部で1羽、いや2羽か、あそこではぼくらはみな鳥たちなのだ
ぼくも、彼も、ケーサツカンも。


(*)地獄の第一アジト(Во ада первый круг):ダンテ『神曲』地獄編で描かれた地獄の「第一圏」だと解釈した。第四曲を参照すれば、地獄の第一圏は辺獄(Limbo)であり、そこにはソクラテス、プラトンなど、非キリスト教徒の古代哲学者が住んでいる。また文中во адаは破格であり、ад(地獄)とада(アジト・隠れ家を表す俗語)がかけられていると思われる。


<解説>
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ・プリゴフ (1940-2002) はモスクワを中心に活躍し、アートのイリヤ・カバコフ、散文のヴラジーミル・ソローキンとともにモスクワ・コンセプチュアリズムと呼ばれる現代芸術の潮流の一翼を、特に韻文の分野で担った。 コンセプチュアリズムは、80 年代に世界中で流行したポストモダンのロシア的解釈と考えることができる。その全般的な特色は、ソ連期の公式芸術(社会主義リアリズム)の引用 [この手法はソッツアート(社会主義СОЦиализм+アート)と呼ばれている] と、多様なジャンルの折衷である。プリゴフは、代表作「警察官讃歌」で、肥大化した卑小とも言うべき「ケーサツカン Милицанер 」を作り出す。警察官は権力と切って離せない人物だが、権力の頂点にいるわけでも、民衆の中にいるわけでもない中間的な人物である。その人物を過度に高揚することで生じるアイロニーが単純におもしろい。日本では、幾分か粗雑なソローキンのグロテスク小説が一般受けしたせい(おかげ)でその上辺のショッキングさにほいほい付いて行く感じになってしまってちょっとあれだな、とは思ってるのだが、しかしコンセプチュアリズムは そもそもずっと権力の問題と対峙してきた「真面目な」潮流である。特にアートの分野では、ソ連末期にコンセプチュアリズムの芸術家は直接的な弾圧を経験している。その手先になっていたのが警察官である。プリゴフらは、その「真面目さ」を、ユーモラスかつ不真面目に、口元に笑いを浮かべつつ、時には後も見ずに「逃げ」ながら(я только бегать умею!)表現してみせる。ポストモダンはすでに「終わった」潮流ではあるが、こうした「笑って逃げる」態度は逆に清々しく、好感を持てる。