31 7月 2013

イーゴリ・セヴェリャーニンの詩

シャンパン漬けのパイナップル!シャンパン漬けのパイナップル!
驚くほどおいしくて、シュワシュワでパチパチ!
ぼくはどっぷりノルウェー産のシャンパンに!はたまたスペインのシャンパンに!
プツっと湧くインスピレーション!で、筆を執る!

ヒコーキはアブ!クルマは疾走!
特急が風笛を吹く!ヨットは翼で飛ぶ!
こっちじゃ誰かがキスされて!あっちじゃ誰かがぶん殴られた!
シャンパン漬けのパイナップルは パーティの脈動さ!

神経質なお嬢さんのグループに、ご婦人連の刺激的な集まりに
ぼくは人生の悲劇というやつを見せてやる、夢まぼろしの茶番劇でね!
シャンパン漬けのパイナップル!シャンパン漬けのパイナップル!
モスクワから ナガサキへ! ニューヨークから 火星へ!

1915


*イーゴリ・セヴェリャーニン(Игорь Северянин、1887–1941)は「自我未来派(エゴフトゥリズム)」に数えられるアヴァンギャルド期の詩人。『シャンパン漬けのパイナップル』は彼の代表的な詩。他に、「俺は、天才イーゴリ・セヴェリャーニンさ!」から始まる『エピローグ』の詩も有名。革命前ロシアでデカダン的な生活を送り、革命後早い段階で亡命。
マヤコフスキーは『ズボンをはいた雲』などで揶揄。

30 7月 2013

文字13(上映会のために)


以下に載せるのは、21.11.2012-25.11.2012の期間中、東京外国語大学「外語祭」のなかで工藤が企画した上映会のレジュメからの抜粋です
企画について詳細はこちらを参照してください→ http://tweetvite.com/event/tufsrus2012

(1)ヴェルトフ「と」"カメラ" – "映画眼киноглаз"概説


 革命前後のロシアで「ロシア・アヴァンギャルド」という潮流がロシア芸術界を席巻する。その波は文学・絵画・演劇・写真・建築・音楽など文化のあらゆる側面に浸透し、文字通り芸術のあり方を全く変えてしまった。その波は、登場したてのメディアであった映画の分野にも浸透した。むしろ、新しい、無垢なメディアであるからこそ、芸術の新時代を夢見た同時代の芸術家たちを刺激した。そして現在、映画が、リュミエール兄弟やメリエスを脱し、”芸術”*ヴェルトフ自身は「芸術」という呼称を嫌っていたがの一形態となるきっかけが、先行するグリフィスや同時代のドイツ表現主義に並び、この時代に潜んでいる。

ヴェルトフは、エイゼンシュテインとともに、モンタージュ理論形成のパイオニアである。両者の考え方をあえて単純化するならば、エイゼンシュテインが、事実の、フィクションの次元での「再構成」を図ったとすれば、ヴェルトフの目指したものは、「事実そのもの」を、”映画眼”を通して組織化秩序化し把握することである*ここで一定の留保をつけるなら、「事実そのもの」など今も昔も存在しないということであって、恐らくヴェルトフの限界はここにある

ヴェルトフにとって”カメラ”とは人間には認識不可能な「いまそこにある現実そのもの」を知覚可能にするものである。彼によれば、人間の眼が一元的知覚即認識ないしは知覚→認識の線がかなり短いである一方、カメラの認識段階は多元的である。そして、認識の段階一つ一つにモンタージュが伴う。観察時/観察後のモンタージュ、撮影時/撮影後のモンタージュ、目測、最終的モンタージュ。ヴェルトフらキノキの考えによればこの6段階のモンタージュがカメラに伴っている。そしてそれぞれのモンタージュは、「可視世界の組織化」の役割を果たす。この「組織化」とは、ヴェルトフにとっては、世界をマルクス主義的に文脈づけることを意味する

従ってヴェルトフによれば、”カメラ”は、人間の眼には不可能な、現実の多元的な把握を通じ、何段階ものモンタージュを経ることによって、現実をマルクス主義に則って「正しく捉える」ことを可能にする。これが、ヴェルトフのいうカメラの特性としての”映画眼”である。人間の知覚は「わたし」の知覚にとらわれている以上主観があり、当然それに即した認識も「主観」の側に引き寄せられざるを得ない。”カメラ”はよりラディカルに現実そのものを知覚する、と彼は主張する。

恐らくヴェルトフに一番近い考え方を示した思想家に、ジル・ドゥルーズがいる。彼は次のように述べている。
映画が人間的知覚を越えて別の知覚へと向かうのは、以下のような意味でのことである。すなわち、映画は、あらゆる可能な知覚の発生的要素に、つまり変化しかつ知覚を変化させる点に、要するに知覚そのものの微分に到達するという意味でのことである。ジル・ドゥルーズ『シネマ 1』より)
ドゥルーズが知覚そのものの形象・プロトタイプとして「映画の知覚」を捉えたこの「時間-イメージ」という概念に近いものを、恐らくヴェルトフは共有している。しかしヴェルトフは言う。「”キノグラス”=私が”映画視”する+私が”映画記録”する+私が”映画構成”する」(同上、)。ヴェルトフは、カメラの知覚を「わたし」が秩序化するプロセスも重視する。それを顕著に示すのが、『カメラを持った男』の原題«Человек с киноаппаратом»(英語にするなら”A Man WITH a Movie Camera”)であろう。ヴェルトフは、”カメラ”の知覚を利用した、あるいは「わたし」と”カメラ”が一体となった、人間の新しい認識のモードをあくまで志向したと言える。

ヴェルトフの、”カメラ”が人間の認識に変革をもたらすというこの考え方はかなり先鋭的であり、この考え方は1960-70年代にかけて共産趣味にかぶれたゴダールに継承される。ジャン=ピエール・ゴランと共に、彼はヴェルトフの「映画眼」理論をかなり忠実に学び取った。この「政治の時代」のゴダールは、最良の作品を除けば非常に退屈な映画、ほとんど全篇に渡ってアジテートされ、耳と目をフランス語に陵辱されるような映画(ことによったらフランス版ジーバーベルクとも呼べるような)を量産した。資本主義国フランスにおいて社会主義的な「あるがままの現実」などあり得ようもない、恐らくこのためにゴダールはフィクションの世界(最たるものは『東風』における西部劇という舞台設定)と増殖する言語に「現実」を映し出し、それをもって「ジガ・ヴェルトフ集団Groupe Dziga Vertov」を自称する。もちろんゴダールのことなので、途中で「飽きて」しまったのだが。

参考
一、国書刊行会『ロシア・アヴァンギャルド3 キノ』所収、ヴェルトフ「キノグラス各班に対する暫定的戦闘要務令」、ヴェルトフ「”キノグラス”から”ラジオグラス”へ」
一、ジル・ドゥルーズ『シネマ 1
一、ゴダール『ゴダール全評論・全発言Ⅱ』、筑摩書房刊
 

(2)カネフスキーについての覚え書き



カネフスキーについて語ることはあまりない。『動くな、死ね、甦れ!Замри умри воскресни!』の鮮烈なラストシーンをとりあえずは見てほしい。その時点でもはやカネフスキーについては語るべき言葉が失われていることに気づくはずである。

カネフスキーは私たちを殺す。透徹の果てからくる荒みきった視線で私たちを撃つ。彼の映画を見るとき、私たちの言葉はすでに彼に殺されているのである。

カネフスキーの映像は、(53歳の映像とは思えないほど)粗雑な映像であるし、幼稚な感じを、一見するとこの映画から受け取るかもしれない。しかし見終わった後、私たちはそれは必然の結果であったと知るのである。実際この映画に無駄なところなどない。

とりあえず見てほしい。それ以上わたしに何が言えるだろうか。

29 7月 2013

27 7月 2013

カタルシツ『地下室の手記』

守護天使の死


わたしがいままで完全に自分とシンクロできた主人公が2人いる。ブレッソンの『白夜』とカタルシツ『地下室の手記』の主人公だ。見終わったあとに思わず「これは俺だ!」と叫んだ作品はいままでにこの2つだけだ。

この際実際に主人公が「わたし」であるかは重要ではなく、むしろ見終わったあとに「これは俺だ!」と思わせてしまうだけの強さ・俗に言って説得力が、確かにドストエフスキーの物語には備わっていることこそがわたしにとっては唯一重要なことなのだ。だからわたしが決してドストエフスキーを客観視できないことには、正当な理由がある。いやが応にも主人公がわたしだと感じさせてしまう強制力がある、その強さのせいでそもそも読む段階から主人公をわたしと同定して読むしかないのだ。

この劇は、観客に二重の枠構造を強烈に認識させることから始まる。2つの枠とはつまり「前口上」によって成る枠、そして「ニコ生」によって成る枠だ。
開演前のアナウンス終了後2分くらいして、ピンスポットに照らされて男の顔がこちらを伺い見る。ここがすでに劇の始まりなのだが、果たして本当にそうなのか。「駆け込み乗車」の話から、「これから始まる『地下室の手記』とかいう話」の話、演出家の話、口を指して「これセリフだからね?」というなど。またこの前口上の中でこの語りが「ニコ生」配信されるトークであることが明かされる。この枠の設定は劇全篇に渡り有効であり、物語に没頭しその枠を忘れそうになるたび上のほうにコメントが流れることによって枠を再び現前する。
こうしてこの2つの枠を設定することは、「見ること」「観客であること」を強烈に認識させてしまうのだ。わたしはただ「観る者」に過ぎない、劇は透明なディスプレイの向こうに存在する。

この劇で一番誠実なのは、基本的に男の妄想一人語りがのみに成るこの劇のなかで、唯一の大事件である「女」の話のパートだ。
風俗の女が、男に救ってもらいたくて男の部屋にやって来る。女は言う。「わたしを救いなさい!そうしたら2人こういう生活から抜け出せる」と。男は受け入れる。女を押し倒す。暗転。
再び明るくなった舞台は、どこか空気が違う。セックス後の倦怠感とかいう生易しいものではない。何かがおかしい。女が服を着るなか男は虚脱した様子で椅子に座っている。「なんかごめん」と男。観客のほうも女とともに、何かが変わってしまったと感じ取るだろう。何かがおかしい、と。
このパートの最後はまさに戦慄すべきものだ。去り際に女が感極まって男に抱きつき号泣する。男はそれに戸惑い、避けるように身体を引き離してしまう。そしてタンスの上にあった金を女に押し付けるのだ。
金...!ここで観客の側から「えっ!」という声が上がったのを覚えている。風俗店で金を払ってセックスをしなかった男を頼って来た女との関係を、金に集約してしまう!
この男の行動を「ひどい」といって指弾することは簡単だろう。だが少なくとも私にはそうする権利はない。なぜなら男はわたしだからだ。
金を介在さえさせなければ、本当に2人は救われたかもしれない、新しい生活のほうへ歩き出せたかもしれない。
だがリアルにはそんな希望など存在しない。救済の物語は嘘ばっかりだ。どうせ存在しない希望ならば、持ち上げられて叩き付けられる前に、自分ですみやかに救済を粉砕すべきだ。
ここには「守護天使」などいない。男がわたしたちの目の前で殺すのだ。
「救済」の安逸な物語を目の前で粉砕することに、この作品の誠実さがある。

...だがより根深い問題、それはこうして述べたこと自体、劇中で男の口から述べられてしまっているということだ。もはやエクスキューズにならないエクスキューズ。エクスキューズのエクスキューズ。男の語りは混迷をきたす。もはやこの次元では、わたしがこうして「クソブログ」に文章を載せるということ自体、エクスキューズにしかならないだろう。こうして男=わたしは、全方位を批判しながら、その全方位に自分がいることを発見してしまう。その果てにあるのは死だろうが、男は死にさえもしない。永遠に自分の傲慢な怒りの矛先に自分をおきながら自意識の中で、わたしと一緒に腐っていくだろう。


27.07.2013
カタルシツ『地下室の手記』
@赤坂RED/THEATER

25 7月 2013

文字11


【引用】
......でもそのあとかっと目を見開いたんだ、で、鏡を見たら、そこには、目を見開いて、おびえきった顔の男が映ってて、そいつの後ろには、二十歳くらいなのに見かけはあと十は上の男がいて、髭もじゃで、目の下には隈、がりがりに痩せてて、鏡に映った二人の顔を俺の肩越しに見てるんだ。実はそう見えたかもはっきりとは言えないが、無数の顔が見えたんだ、まるで鏡が割れてたみたいに、もちろん割れてなんかいないのはよく分かってたけど。......

【コメント】
一枚の鏡がある。その銀の光沢を眺めれば、必ずや「ぼく」の顔が見つめ返してくるだろう。その像はいかなる意味においても「ぼく」であるはずだ。なぜならその像が「ぼく」であると認識するとき、その認識の始原ではやはり鏡の中の「ぼく」が見つめ返しており、ぼくの人生で初めて鏡を見た時のその像に拠って、ぼくは「ぼく」を自称し得るからだ。少なくとも写真や映画が発明されるまではそれが唯一ぼくが「ぼく」であることを確認する手段であったし、しかしそれでも写真などの映像メディアにはタイムラグがあるがゆえに、リアルタイムメディアである鏡のその地位は揺るがないだろう。「ぼく」は鏡に向かって視線を放つ。鏡はそれを左右逆転させてぼくの瞳孔に「ぼく」を投げ返してくる。ぼくが頭の中でそれを処理する段階で、ぼくが変らず「ぼく」であることを確認できるとしたら、それは「ぼく」の一番最初の鏡像が存在しているからだ。ぼくはその意味で相対的に「ぼく」であるに過ぎない。ぼくは自分の顔を見ることが出来ないからだ。
だが、ある日をきっかけに、あるいは何のきっかけもなく、その参照関係が崩れたとしたら、いったいぼくはどうなってしまうのだろう。ぼくがふと何気なく鏡を見る。すると鏡から見つめ返してくるのはまったくの別人なのだ。

 
ここではまさにそういう事態が描かれている。だがここでもっと不気味なのは、その「別人」具合が明らかにされないからだ。この文章は、2人の男の会話の中で、一方の男が回想して語る台詞の一部だ。そういう枠構造がある以上、語り手の男の造形が第三者の視点から客観的に語られることがない。だから「目を見開いて、おびえきった顔の男」と書いてあっても、まずいつも通りの「男」の造形が分からないため、どの程度違うのか分からない。鏡に映し出されているもう一方の男、アルトゥーロ・ベラーノにしてもその状況は同じだ。どこが「別人」なのか、分かったところで別人の像であることは変らないにしても、「どう違うのか」がわかれば少しは分析的な目を持つことも可能になろう。だがここでは読者の目にまるで一枚ベールが掛けられたかのようだ。「よく見えない」ことは「見えないこと」よりも不安だ。「見えない」とき、わたしたちは存在を感じることさえない。だが「よく見えない」ときには不定形で曖昧だがしかししっかりとした形のある「存在」がたしかにあるのだ。それは恐ろしい事態だ。その存在がわたしにとって善いものなのか悪いものなのか分からないうちは、わたしのほうでもどう接触したらいいのかわからないからだ。存在と存在の間を薄気味悪さが支配する。
さらに恐ろしい事態は続く。無数の顔が見えてしまう。文章からは誰の顔だか分からない。もしかしたら鏡を覗く2人の男の顔が増殖しているのかもしれない。しかしここで無人称の「無数の顔」が表しているのは、恐らくそういうことではない。映し出されているのは誰ともつかぬ無限の顔だ。ここで少し開示することにすると、この物語の語り手はチリで左翼勢力の弾圧に関わった刑事たちであり、ベラーノはその弾圧の対象になった男だ。鏡を覗く1人は、その刑事の片方だ。その刑事が、鏡を見た時にみる無数の顔とはなんだろうか。
おそらく、弾圧の犠牲になった人々の顔であるはずだ。いままで刑事たちはリストに従って、尋問をこなしてきただろう。そうして一人一人「処理」していく過程で、尋問される一人一人の顔は消え失せ、数値化されたデータになるだろう。ある程度は仕事だから。しかしある程度は自分の精神の状態を安定させておくために。そうでもしなければ人の顔・顔が語りかけ、弾圧する者は狂ってしまうだろう。
それが、鏡の中で起こる。当然自分の顔が映し出されるはずだった鏡の中から、こころのなかに隠しておいた犠牲者の顔・顔・顔が無数に浮かび上がってくる。
男は度を失ってしまう。それがこの男の語る物語の結末だ。男が過去に向き合う原因となったベラーノを、男は射殺しようとする。無数の顔たちと同じように。それは当然のことだ。所詮一の者である人間は、無数の者には勝てないからだ。男は、自分にはどうしようもない「無数」を消し去るためピストルを手にするだろう。それは一時しのぎにしかならないが、せめて自分の慰みにはなるはずだった。
 
ピストルの引き金を引くのは簡単なことだ。狙いを定めて頭に一発撃ち込むだけでいい

20 7月 2013

19 7月 2013